流れに乗る人と逆らう人

  歴史や人生には理屈では説明の出来ない、そして個人や国家などの力をもってしても抗することの出来ない「流れ」というものがあるようです。 この流れは意識的に作り出せるものでなく、結果としてできあがるものでしょう。 うねり、潮流、変化、趨勢あるいはときの勢いとでも言えるかと思います。 生きていく上で、この「流れ」をどのように理解し、どのように対処すればいいのでしょうか。 若いときの私なら、「流れに乗る」と聞いただけでも自主性がないように思えてたまりませんでした。 「流行」のることと、同じレベルで考えていたのかも知れません。 そのくせ自分に自主性があったのかと振り返れば、そんなものはどこにもなかったような気がします。 自分に自主性がなかったから、感情的に過剰防衛の反応を示したのだと思います。 そのときは気づくこともありませんでしたが、いまはそう思います。

  時代の流れに乗るというと自主性のないことで、流れに逆らうことが自主性のあることなのでしょうか。 決してそうではないはずです。 流れに乗りながら、流れの方向を変えようとすることが理想的な姿だと思います。 この流れというものは流行とか、ブームといった底の浅いものとは明らかに違うのです。 それは経済、社会、政治などの全体を含んだ矛盾から来る一種の必然だと思います。 必然的なことであるからこそ、経済的な大国でもその流れを止めたり、変えたり出来ないのです。 どこかのだれかが、ある流れを作り出そうとして出来たものではないのです。 流行やブームは、どこかのだれかが意図的に作りだしたものでしょう。 たとえ本人は意識していなかったとしても。 このことについては、いつか書くこともあるでしょうから、ここでは省略します。

  大きな話はこれくらいにして、本題に入ります。 人生には「好調と不調、運と不運」というときやことがあり、どんなにがんばってもうまくいかないときとか、なにもしないのに向こうから運が転がり込んでくるとき、不思議といいことばかり続くときなどのように、説明の出来ないことがあるのを経験的に知っていると思います。 とくにギャンブルの好きなひとには、思い当たるふしが必ずあるはずです。 私も昔はパチンコとマージャンがとても好きでしたから。 (昔はですよ。) 

  とくにマージャンは、上手な人でもなにをしても勝てないときとか、下手な人がつきにつきまくる場面を何度もみてきました。 これが勝負の流れというものであり、人生にも同じようなことが言えます。 人生も、もともとはギャンブルですから。 なにしろ一寸先は、真っ暗闇なのですから。 そこを生きていくことこそ、最大のギャンブルです。 だからさまざまな保険を掛けずにはいられないのです。 いつ、どんな保険を掛けるかは、人それぞれです。 このことを考えてみるのも面白そうです。

  比較的流れの急な川を泳いで向こう岸に渡る場面を想像してください。 近くにはもちろん橋はありません。 と言うことは、助けてくれる人もいないので自分で川を泳いで渡るほかには、方法がないということです。 急いでいます。 泳ぎ渡る方法としては、

真横に泳ぐ (距離的には一番近い)
       ・ 流れに逆らう
川上に向かってななめに泳いで渡る
       ・ 徹底的に流れに逆らう
川下に向かってななめに泳いで渡る
       ・ 流れに乗る

  川を渡る場合でしたら、ほとんどの人は「川下に向かって斜めに泳いで渡る」の方法を選ぶでしょう。 しかし生き方に関することになると、感情的なことも作用し多くの場合「真横に泳ぐ」や「川上に向かって斜めに泳いで渡る」の方法を選んでいることが多くはないでしょうか。 「分かっているけど、止められない」。 昔こんな歌の文句がありましたね。 と言っても、若い人には無理でしょうが。 「分かっていても変えられない」、「分かっていても、どうしようもない」というのが人生ではないでしょうか。 人生は本当に、自分の思い通りにはならないものですね。 人生は思い通りにはならないということについては、このホームページ全体を通して何度も話しているつもりです。

  なにがときの流れに逆らうことで、なにがときの流れに乗ることなのかはさておき、「真横に泳ぐ」のように一番対岸に近いからと言って真横に泳いでも、結局は川の流れに流されて一直線に最短距離でたどり着くことは出来ないのです。 人生も正攻法だけでは生きていくことが、つらくなると言いたいのです。 次に「川上に向かってななめに泳いで渡る」のように川上に向かって泳げば水の抵抗ばかりが大きく、対岸にたどり着くことは容易ではなく、かえって疲れてもとの岸に戻されてしまうかも知れません。 人生で言えば、へそ曲がりとか、トラブルメーカーとか、自分の信念ばかりにしがみついて周囲の状況の変化をみることので゜きない人とか、なにごとにつけても反対のための反対ばかりしているような人です。 このような人については、後は言わずもがなです。

  「川下に向かって斜めに泳ぐ」方法は泳ぐ距離は長くなるけれど、一番苦労が少なくて対岸にたどり着ける方法です。 対岸に着いたら目的地まで歩いていけばいいのです。 目的地を二つに分けて設定することによって、一番楽をしたのです。 このように流れに乗りながらも目的を忘れず、最初の目標を一直線に目指すのではなく、中継点を設けることによって楽が出来るのです。 状況をよく読みとり、その変化に対応しながら、しかも自分の目標を見失うことなく進んでいけることが必要と思います。

  個人の力ではどうすることもできないことに逆らうことは、必ずしも勇気ある行動とはいえないのです。 無鉄砲とはいえますが。 流れを利用しながら進んでいくことこそ、楽な方法だと思います。 どうにもならないことに対処するには、自分のあり方を臨機応変に(よい意味で)かえながら対処することです。 ただし飲み込まれては、もともこもなくなってしまいますが。 流れを利用することは、一見自主性がないようにも見えますが、決してそうではないと思います。 流れに飲み込まれて、生きることは別ですが。

  若いときの私は流れに乗る人を軽蔑していましたが、流れに乗ることの大切さも分かってきたように思います。 ただし、いつも流れに乗ってばかりいることは感心しません。 自分の生き方や考え方に即して、絶対に流れに乗れないことがあることも多いからです。

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