魔法の言葉 (「カラマーゾフの兄弟」よりの一節)

 私は腰部椎間板ヘルニアで1999年11月中旬より、約2ヶ月間入院しました。 その間に長年の念願であったドストエフスキーの大長編小説「カラマーゾフの兄弟」を読みました。 その中に忘れられない言葉がいくつかありましたが、三つほど紹介したいと思います。

  論理よりもまず愛することです。 必ず論理よりも愛が先でなければならない。 そうなってはじめて、意義も分かるのです。

  お前は多くの敵を持つであろうが、やがてはその敵さえもお前を愛するようになろう。 人の世はお前に多くの不幸をもたらすであろうが、その不幸ゆえにお前は幸福になって、人の世を祝福し、またほかの人々にも人の世を祝福させることになろう。 これがなによりも大切なことなのだ。

  今いたるところに君臨している孤立ですよ。 とりわけ今世紀にね。 (ここで言う「今世紀」とは19世紀のことです) しかしこの孤立の時代はまだなかなか終わらないし、終わるべき時期もきていないのです。 なぜかと言うと、今はあらゆる人間ができるだけ自分の人格をほかの人格から切り離そうと努め、自分ひとりでもっとも充実した生活を味わおうと望んでいるからです。 ところが、そういう努力から生じる結果は、生活の充実どころか完全な自殺でしかない。 なぜならば、彼らは自分の存在を完全に規定する代わりに、まったくの孤立におちいっているからです。 それというのも現代の人間はすべて個々の単位に分かれてしまい、誰もが自分の穴に閉じこもり、誰もが他人から遠ざかって姿を隠し、自分の持ち物を隠している。 そうしてあげくのはてには、進んで自分を他人から引き離し、また他人を自分から引き離しているのです。 こっそりと財産を蓄積して、自分はこんなに強くなった、こんなに安定したと考えていますが、愚かにも、財産を蓄積すればするほど、自分がますます自殺的な無力さにはまりこんでいくのが分からない。 なぜかと言うと、自分ひとりの力をたのむことに慣れてしまって、自分を一個の単位として全体から引き離し、他人の助力も人間も人類も信じないように自分の魂を慣らして、ただ自分の金やせっかく獲得した権利を失いはしまいかと、そのことばかりおびえているからなのです。 個々の人間のまことの安定は、個人個人の孤立の努力のなかにはなくて、人類全体の結合のなかにこそある。 このことをこんにち人間の理性はいたるところで一笑に付そうとしています。 しかしいずれはきっと、そうした恐ろしい孤立にも終わりがきて、人間が互いにはなればなれでいることがどんなに不自然であるかを、みんながいっせいに理解するようになるでしょう。 時代の風潮がそういうふうになって、人々はこんなに長い間闇の中に閉じこもって光を見なかったことに、我ながらびっくりすることでしょう。

  この三つの言葉が、私の心に深い感動を与えてくれました。 念のために申し添えておきますが、ここで言う「愛」とはキリスト教でいう概念の愛であって、多くの日本人が想像するであろう愛とは異なるものです。 「愛」という概念は、「社会や人類全体に対する思いやり」とでも考えれば、日本人にとっては理解しやすいと思います。 ドストエフスキーが人類のきたるべき未来を見通していたと言われるのは、このようなところに現れていると思います。 しかもこれらの言葉は、1900年代の後半に語られたのではなく、1880年に語られていることは、彼の人間に対する理解が本質をついていることを物語っていると思うのです。 まさに、人類は彼の筋書き通りに生きてきたと言えるのではないでしょうか。

  なぜニヒリズム(ニヒリズムという言葉は適当ではないかも知れないので無価値観と言い直します)におちいってしまう人がいるのでしょうか。 一生懸命努力しているはずなのに、その言動に暖かさやおもいやりを感じられない人がいるのは、なぜなのでしょうか。 このことは私にとって長い間の疑問でした。 でもドストエフスキーの言葉によって、その疑問が解けたように思われます。 私なりに考えれば「人間を論理の動物」と考えるからではないでしょうか。 また努力の向かっている方向が、利己的だからではないでしょうか。 努力している理由が、自分の評価をあげるため、上司や他の人から認めてもらいたいため、上司に怒られないため、部下をしかるのも自分が上司から怒られないためと、すべてを自分の利益を中心として考えているためだと思うのです。 そこには相手への思いやりが欠けていて、そのことが相手に敏感に伝わるからだと思うのです。 すべての言動を利己的に考えるから自己満足はあっても、それ以上のことを見いだせなくなっているからだと思います。 そして利己的な自己満足にも飽き足らなくなって、それ以上のことをさがし始めたときに、発見することができなくなってニヒリズムにおちいるのではないでしょうか。  利己的に行動しているために、より高度の満足が得られないのだということに気がつくことができないのだと思います。       

  どんなに優れた理論でも、それ自体には価値はないと思います。 事実はたんに事実であって、事実には価値はないと思うのです。 論理や事実に価値を付与するものは、個人や社会の価値観ではないでしょうか。 個人や社会の価値観が変化するからこそ、真実も時代とともに変化せざるを得ないのです。 事実は必ずしも真実とは限らないのです。 事実と真実の相違を理解することも、生き方を考えるうえでは重要なことと思います。 真実は価値観とともに変わりうるものなのです。 でも、事実は変わることはありません。 なぜなら事実は現実に起こったことだからです。 現実に起きたことを否定することはできないのです。 ただし、その事実に対する解釈はいかようにも変えることができるのです。 変わることのない価値観があればこそ、はじめて変わることのない真実が成立するのです。 

  愛やおもいやりのない社会に成立した論理は、決して個人をしあわせにすることはないのです。 全体主義国家や共産主義国家の政策は個人をしあわせにしたでしょうか。 きわめて疑問を持たざるを得ません。 この意味で、論理は愛やおもいやりを基盤としてのみ価値を持つと言えるのではないでしょうか。 だから、利己的な考え方は生きずまりを来すのだと思います。 利己的な考え方は、人生を袋小路に追いやってしまうものなのです。 

   存在するだけでは価値はないのです。 その存在をどう考えるかによって、はじめて価値が生まれるものと信じています。 「ものは考えよう」と言うことわざの意味を、深く考える必要がありそうです。

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