テレビゲームが人格形成に及ぼす影響について

 テレビゲームが人格形成に与える影響にについては、いろいろなマスコミや出版物を通じてさまざまな意見が発表されています。 そして、その影響は計り知れないくらい大きいと思いますので、ここで改めて書かせて下さい。 ほかのページと重複することも多いと思いますが、「またか」と言わずに読んでもらいたいと思います。

 テレビゲームというものか始まったのは、昭和45年頃ではなかったでしょうか。 現在の年齢で言えば、60歳前後の人が生まれたときでしょうね。 当時はどこの喫茶店にもおいてあり、結構人気がありました。 私は当時27才か、28才頃だったと思います。 一ゲーム100円で、よくやったものです。 聞いたこともあるかと思いますが、ブロック崩し、インベーダーゲームが主流でした。

 親の年齢が60才といえば、子供の年齢は平均的に45才以下ということになるのではないでしょうか。 また2013年現在は、そのようなテレビゲーム全盛の時代に育った親は大勢おりますね。 そのようなテレビゲームの黎明期および全盛期(昔のテレビゲームで、いまとは大分違っていました)に子供時代を過ごした人が、親になり、そしておじいさん、おばあさんになってきていることに問題があるのではないでしょうか。 

 このあたりから、本題に入ります。

 まず、テレビゲームと現実との決定的な違い(私がそう考えること)を言わせてもらいます。 それは、テレビゲームは練習を重ねれば、だれでも同じ目標にたどり着くことができる、あるいは目標の近くまではたどり着くことができると言うことです。 いつも同じやり方で。 そして決定的に重要なことは、その目標とはあらかじめ決まっていると言うことです。 プログラムに、はじめから組み込んであると言うことです。 腕を上げればいつでも、同じような条件、状況下で、ネクストステージに進むことがだれでもできると言うことです。

 しかし、人生にはあらかじめ決まった目標というものはないのです。 目標は、各人が苦労して作り上げていくしかないのです。 ここが、テレビゲームと人生の決定的な違いです。

 しかし、現実は同じようなことであっても、詳細に検討すれば前回とまったく同じと言うことはあり得ないのです。 そう、テレビゲームのようにいままでと同じ条件の下で、ネクストステージに進めると言うことがあり得ないのです。 似たようなことでも、詳細に見渡せばいままでとまったく同じ条件というものはあり得ないのです。

 ここが、テレビゲームと現実の違いです。 テレビゲームでは同じことを何度も経験できますが、人生においてはいままでと同じことをしているようでも、同じことを経験することはあり得ないのです。

ここから生ずる重大な問題なにか。

 テレビゲームは練習さえすれば、だれでもあるレベルまでは確実に到達できるのに、現実は努力したからと言って、必ずしも目標に到達できるとは限らない、いやむしろ到達できないことの方が多いかも知れないと言うことです。 このことは、重大すぎるくらい重大な事実です。 テレビゲームは努力すれば、必ず報われる(成功する、あるいは成功というるところまで到達できる)のです。 しかし、現実は努力しても簡単に報われることは少ないし、まったく報われないことも希ではないということです。

 現実は、いままでの成功体験と同じことをしたからと言って、今回も成功するという保証はになひとつないのです。 現実は状況が同じように思えても、いままでとまったく同じと言うことはあり得ないのです。 だから、前回の手法が今回も通用するとは限らないのです。

 テレビゲームにはまった人は、無意識のうちにも次のような考え方をする人が多いように思います。 すなわち、「こうすれば、次はこうなる(すくなくても、こうなるはずだ)」と。 なにしろ、目標(到達点)が明確なのだから、達成手段もその目標に沿って明確なのです。 「こうすれば、次はこうなる」と、先の見通しが明確なのです。 それと、途中で失敗したら、元に戻ってやり直せばまったく同じことを再現できるのです。 このことが、現実と決定期テレビゲームに異なっている点なのですが、テレビゲームにはまった人の思考回路は「こうすれば、こうなる」式なのです。 このことが現実とのずれを生ずる最大の原因なのです。

 ところが、現実は「こうすれば、こうなる方式」は希なことなのです。 ある程度の予想はできても、テレビゲームのように確実にネクストステージに進めるとは限らないのです。 限らないと言うより、簡単に成功裡にネクストステージに進めることは難しいことなのです。 なぜそうなのかは、どこかに書いてあるはずですから、そちらを参考にして下さい。 ですから、テレビゲーム式の思考方法をする人(こうすれば、こうなると考える人)から言わせれば、自分は正しくやったのに失敗したことが理解できないし、相手を許すこともできなくなってしまう可能性が高くなるのです。

 これが、いま「簡単に切れる人」が増えてきた最大の理由だと思っています。

 「こうすれば、こうなる」、「こうすれば、こうなるはずだ」の思考が強い人は、どうしても自己中心的になりがちであり、協調性に欠けても不思議ではないのです。 そのような人が親になり、子育てをすれば、結果は自ずと明らかではないでしょうか。 その最たる人が「モンスターペアレント」と呼ばれる一群の親たちだと断言しても、あながち的外れとは思いません。 そのような親に育てられた子供がどうなるかは、いまの社会の状況見渡せば分かると思います。

 これも強調してきたことですが、子供が社会生活を送る上での基礎を身につけるべきとき(幼児期、小学校の頃)に、テレビゲームや勉強だけをしてくれば、社会性が身につかなくなり、自己中心的にならざるを得ないのは当然すぎるくらい当然のことなのです。 そのような人が親になったとき、子育てをしても子供はどのように育つのでしょうか。 たとえば、モンスターペアレントと呼ばれるような親に育てられた子供は、どのような人間になるのでしょうか。

  このような先のことは、考えたくもないと思うのは、私の考えすぎであればいいと思います。

 前後してしまいますが、テレビゲーム的思考とは、「こうすれば、必ずこうなる」、「練習さえすれば、(それもまった同じことの繰り返しという点が強調したいところです)必ず目標に到達できる」という点にあると思います。 このことを現実の生活に当てはめて考えれば、「ものごとはある程度失敗しても、最終的には成功は保証されている」、「人生は必ず自分の思い通りになる」、「極論すれば、人生には失敗はない」ということになってしまいます。 これが恐ろしいのです。

 生きていく上では、さまざまの障害があり、それらをその都度その場にあった方法で克服していかなければならないのです。 それなのに、テレビゲーム的思考ではいつも同じやり方で、比較的簡単に目標は達成できるのです。 しかも、感情という要素を抜きにしてです。 テレビゲームには、感情が入り込む隙間がないのに、人生にはすべての面において感情に左右されてしまうのです。

 だから、テレビゲーム的思考をする人の多くは、物事が思い通りにならないと簡単に感情が爆発してしまうのです。 切れてしまうのです。 テレビゲームでは感情を抑えると言うことを教えてくれることがないからです。 自己中心的になってしまって、当たり前なのです。 忍耐がなくなって、当たり前なのです。 他人のことを思いやれなくて、当たり前なのです。

 人生には、白か黒かと決められないグレーゾーンがあまりにも多いのに、白か黒かと決めつけなければ気が済まなくなって当然なのです。 なにしろ、思考の中にはほどよい、適当、まぁいいか、くれくらいでいいかと言ったような視点がないのです。 テレビゲームはすべてが白か黒かの二進法の思考回路なのですから、どちらかに決めなければ自分が納得できなくなるのです。

 テレビゲームは、いつでも同じやり方でプレーするので、ものの考え方自体に柔軟性がなくなるのです。 だから、相手の意見を受け入れることが難しくなるのです。 世の中は一人では生きていけないのです。 お互いに譲歩すべき点は譲歩し、協調すべきときは協調しなければ、円滑な日常生活は送れないのです。 自分の意見だけを押し通して、生きていくことはできないのです。 いまの時代は、幼いときにこのようなことを覚える機会がなくなったことに、生きていくことがつらくなった根本的な理由があると思います。

 テレビゲームが人格形成に与える影響について、よくよく考えて欲しいのです。 「いま自分が苦労している原因は、このようなところに合ったのかも知れない」と。 そして、もしそうだったと気がつけば、そのあとの生き方は自ずから方向が見えてくるはずですから。 なにをしなければならないのかが。 幼児期に人間の感情を作り損ねれば、そのごの人生や社会がどうなってしまうのかは現在の社会状況が如実に物語っています。

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