感情を意志の力で抑えすぎてはいないか

合理主義 …  世界・人生の根底に理性的原理が支配していると信じ、すべてはこれによって解決できるとし、理性に従ったもののみが実在的だとする主義
理  性 真偽、善悪を識別し、正しく判断する能力
自  明 自己の直感によってものごとを明らかにすること
なんの照明も待たず、それ自身で明らかなこと
直  感 推論や説明なしに直接感じること

   我々が生きていく上での根元的な力は、一体どこから湧いてくるのでしょうか。 このことは哲学の問題に深く立ち入ることになるし、とうてい私ごときの者に論ずることは不可能です。 ここでは話題を理論ではなく、現実的なことにしぼって書いてみたいと思います。

  人間の生きる力は理性によるものなのか、それ以外のものによるのでしょうか。 近代合理主義においては、すべてのことは理性によって解決できるとし、それにそって思想が構築され、科学技術が急激に進歩したことは論を待ちません。 多くのことが西洋的な合理主義によって考えられ、合理的でないものは非科学的としてのけものにされてきたといってもいいでしょう。 しかし社会秩序が複雑になるにつれて、合理主義にも壁がでてきたようです。 いくら合理的に考えても、心の空虚さをうめることができなくなってきているのです。 科学万能の社会が行き詰まりを見せようとしているのです。 科学技術の進歩ですべてが解決できるとはかぎらなくなったということは、合理主義そのものが内在する根本的な矛盾をさらけだしてきているように思われます。 

  むずかしい話はやめとして、実生活に関係することに戻りたいのですが、そうもいきません。 私は人間の生きる力の根本は理性ではなく、人間の感情(それを哲学では自明と言うようです。 私が間違っているかも知れません)にあると思っています。 もし理性にあるとするなら、理性とは「真偽・善悪を識別し、正しく判断する能力。 人間が本来的に持ってる欲望や本能の作用に左右されないで行動する能力」とするなら、人間の本能自体に善し悪しの価値判断が含まれていなければならないことになります。 しかし本能は本能であって、それ自体には善し悪しはないのです。 ただ本能があるということだけだと思うのです。 「正しく判断する」というからには、そのまえに「正しく判断するため」の価値基準がなければならないからです。 価値基準はなにによって、決定されるのか。 合理主義においては、それは理性によって制約されるという矛盾に陥ると思うのですが。 おかしいでしょうか。 私も自信を持って言うことができないのです。 それは人間が生き甲斐を持って生きていくことのできる思想・考えによってしか、生きることを支えることができないと思うのです。 それは人間の本能ということです。

  だから理論的に考えても、人間のよって立つ基盤は理性ではなく感情(本能)にあるといっていいはずです。 感情とは理論的なものではなく、ときとしはまったく説明することのできないものなのです。 たとえば異性を好きになることに理屈は必要でしょうか。 多くの場合、理屈はいらないはずです。 好きだから、好きだ。 嫌いだから、嫌いだ。 なぜ好きなのか、なぜ嫌いなのかある程度は説明できても、根本的なところで説明できないのです。 ただそれだけで十分な理由なのです。 それが直感であり、自明ということではないでしょうか。  「人生意気に感ずる」ということもあります。 ここには理屈の入り込む余地はありません。 そして「好きだから好きだ」ということだけが、その人を支えてくれるのです。 そうとしか考えられないのです。

  近代合理主義は理屈に合わないことは軽視したり、甚だしいときは無視したりしますが、我々は理性では説明のできないことをもっともっと大切にすべきではないでしょうか。 自明とか、直感ということを大切に考えるべきだと思うのです。

  さて、ここからが本題なのです。 人間に本能的にそなわっている感情を意志の力でコントロールしようとすると、どうしても感情と意志が心の中で戦うことになります。 そして感情が勝つこともあれば、意志の力が勝つこともあります。 意志の強い人とは、意志の力で感情を説き伏せて、感情を意志に従わせることのできる人です。 ここで注意して欲しいのは、意志の力が感情を納得させると言っていないことです。 感情は意志を納得しているのではなく、仕方なしに従っているということです。 意志が感情に強制しているのです。 それこそが精神的葛藤のもととなってしまうのです。 ここで感情が納得していれば、問題はなにも起こらないし、その人が精神的に悩むこともないのです。 しかし通常の場合、感情が意志を納得することはむずかしいことなのです。 これは理屈ではありません。 

  感情が意志の力で押さえ込まれれば押さえ込まれるほど、精神は抑圧を感じるようになります。 そして知らず知らずのうちにふさぎ込んでいくようになってしまいます。 精神症になってしまうのです。 だから感情を意志の力でいつまでも押さえ込むことは、むずかしいことだし、やってはいけないことなのです。 自分の意志の力だけでなく、組織や、親の力で押さえ込まれることも同じことです。

  意志の強さは必要なのですが、強すぎたり、使い方を誤るととんでもないことになってしまうのです。 このことは「感情のはけ口を持っているか」にも書いたことです。 感情の発散のさせ方を知らないと、生き方が苦しくならざるを得ないのです。 憂さ晴らしはどんどんやりましょう。 ただし、方法を間違えて他人に迷惑を掛けないようにすることです。 そのための方法については、本がたくさんでていると思いますので、そちらを参考にしてください。 

  人それぞれに、憂さ晴らしの方法を身につけることが、とても重要なことなのです。 このことは感情の抑圧もいい加減にしないと、自分は意志の強い人間だといばってばかりいられなくなってしまいます。 他の人から見れば意志の強い立派な人に見えるでしょうが、本人にしてみればそれどころではないと思います。 感情の抑圧を解放することは、通常気分転換をするということです。

親しいひととの会話
ひとの悪口を言う
趣味に没頭する
スポーツで汗を流す
ぼんやりする
散歩する
とくに女性の場合は「食べる」こと (これが過食。拒食症の原因ではないでしょうか)
酒を飲む
賭け事をする
不倫に走る
麻薬を吸う
ショッピングをする
要は自分のしたいことをするという単純なことです

  人それぞれになんでもかまいませんから、憂さの晴らし方が必要なのです。 ときによっては自分の憂さを晴らすために、家族や親しい人に迷惑を掛けることがあるかも知れません。 それはお互い様なので、ある程度は大目に見てあげることが思いやりではないでしょうか。 とくに親子関係においては、子どもがなにか言い始めると親が親の権威を持ち出して、子どもになにも言わせないようにさせることも多いようですが、このようなことの積み重ねが子どもの自立心を根こそぎもぎ取ってしまうのだと、強調せざるを得ないのです。 

  子育てにおいて親は子供の不平不満を上手に吐き出させる技術を身につけておかなければならないのです。 子どもはきつくしかるだけ、上手に誉めることと同時に子どもの感情をためないようにさせることが必要なのです。 この点を、世の親には考えて欲しいのです。 感情のはけ口を失った子供は、切れたり、非行に走っても不思議はないのです。 自分が子どものときを思い出してみれば、分かってもらえるでしょう。 親も子供のときがあったのですから、そのときのことを思い出しながら子育てをすることが重要ではないでしょうか。

  子どもが非行に走ったり、心を病んでしまってからでは、取り返しがつかなくなります。 「うちの子だけは大丈夫」という考えが、一番危険なのです。 「うちの子供も」と考えることは、「転ばぬ先の杖」となります。

  とにかく、人間には理性のもととなる「自明、直感、感情」といったことが、とても重要なことなのです。 このことを軽視すると、痛い目に遭うと思います。 合理主義が大切なことは論を待たないのですが、その合理主義をなにが支えているのかということを考えてもいいのではないでしようか。 各人各様の考え方がありますが、私にはこのように思えるのです。 みなさまのご意見を聞かせていただければ、うれしく思います。

  私の考え方を見直す意味で、とくにみなさまのご批判をお待ちしております。 私の話が論理に掛けるところがありますが、人間とはもともと論理的な動物ではないということで、ご勘弁願います。

  もう一度繰り返しますと、感情はあまり押さえ込むなと言うことです。 あまりですよ。 まったく押さえ込まない人も困りものですから。 感情のままに振る舞うと、やりすぎると、相手に嫌われるだけですから。

悲しいときは悲しい
うれしいときはうれしい
寂しいときは寂しい
苦しいときは苦し
怒るべきときは怒楽しいときは楽しい
楽しいときは楽しい

  という自分の気持ちを素直に認めることです。 表現しないまでも、認めることが大切なのです、 意志の強いと言われるひとは、「悲しいと言うことは男らしくない」とかなんとか言って、悲しい自分の心を認めようとしない人もいるのです。 このようなことが危険なのです。

  自分の感情を上手にコントロールするテクニックを身につけた人と、そうでない人とでは、社会生活を送っていくうえで精神的負担は大きく違ってきます。 意志の強い人とは感情と意志のバランスの取り方の上手な人を言うのかも知れません。

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