感情を言葉で表現できない

 「いまの若者は……」という言葉を使うと嫌がられることは承知の上で、「いまの若者は」と言わせてもらいます。 いまの若者は書くことは苦手ではなくても、話すことは苦手だとよく言われます。  書くことも苦手なようですね。 若者に限らずすべての年齢層において、会話する機会は少なくなってしまいました。 その原因はなによりもまず、ひとりでも生きていけるような錯覚に陥りやすい社会になったことがあげられます。 一昔前まであれば機械化があまり進まず、なにをするにしてもだれかと意志の疎通を図らなければなにごともやっていけない時代でした。 いまは機械化やOA化が進展し、共同作業をしなくても機械がやってくれるし、コンピューターや電子機器を扱うには会話はかえって邪魔者になってしまいました。 子供も外で遊ぶことがめっきりと少なくなり、コンピューターゲームのように感情もない機械と対面して遊ぶことが多くなりました。 

  世の中は、「無言の行者」が多くなりました。 電車の中で足を踏みつけても謝る人も少なくなり、謝ったとして言葉を発することなく頭を下げるだけ、道を尋ねても言葉はなくただ指を指すだけです。 学校で先生が「だれか分からない人はいませんか」と訊ねても生徒からの返答はなく、部下が上司に怒られたり、注意されたりしても「すみません」とか「これから注意します」という言葉もすくなくなりました。 家庭では一家団欒の時間もなく、親子がだまってテレビを見ているだけ。 たまに会話があっても、「勉強しなさい」とか、「テレビがうるさいからとめなさい」というようなことだけ。 家庭の中には家人と話すより、ペットに話しかけていることの方が多い人もいるかもしれません。 ペットは反発や反対はしませんから、心をいやしてくれると思っているかのようです。  返事をする方は言葉で返事をするのでなく、行動で返事をしているようです。 これが私の言う「無言の行者」という意味です。 本物の行者であれば心身の鍛練を積んでいるので、言葉がなくても分かり合えるかも知れませんが、我々のようなぼんくらが言葉ではなく行動で返事を返されても、分かりかねることが多いのです。 日本人の特徴の一つとして、言葉と言葉のあいだにある意味を考えなさいとか、行と行の間にある意味を読みとりなさいと言われることが多く、「あうんの呼吸」で分かり合えるものとされてきました。 ただし、近年の「あうんの呼吸」は昔とは意味が大きく変わってしまったようです。 と言うか、「あうんの呼吸」ということがなくなってきたというか、通用しなくなってきたと思います。

  話を本筋に戻しましょう。 日本人に言葉が少なくなった理由は、上記のほかに子供同士の接触が少なくなって、親と子とか、先生と生徒とか縦の関係が多くなってしまったことがあると言えます。 子供同士の横のつながりが希薄になった結果、同年齢の子供の心がまったく読めなくなってしまったのです。 子供らしい言葉がなくなり、へんに大人びた言葉を子供が使うようになったのには、このような背景があると思います。 感情の機微や言葉を覚えるときに、テレビや勉強ばかりさせられたので感受性がなくなり無表情な、しかも言葉のない子供ができあがってしまったのです。 一口で表現すれば、地域社会との結びつきがなくなってしまったのです。

  家庭では子供の選択権の多くを親(多くの場合は母親)に握られており、反発が出来ないことはもちろん、自分の意見を言うことさえ禁じられてしまっているのです。 感情が少なく、言葉(語彙)が少ない子供が大きくなっても、自分の感情を素直に表現するには相当の勇気が必要になりますが、そのような勇気についても教えてくれる人はいなくなたのです。 だから自分の感情を表現しようとすれば、いきおい突飛な行動によって表現するしか道がなくなるのです。 

  いまどきの子供はなにを考えているか分からないと言われますが、分からなくしてしまったのは子供を取り巻く環境、すなわち大人の責任ではありませんか。 このところを忘れて、大人たちの責任を棚に上げて、いくら原因を究明しようとしても、真の原因は分からないと思うのです。 決して子供自身に責任はないと言っているのではありません。 家庭環境が大きく作用しているのです。

  母親が幼稚園に通っている他人の子供を殺したことが、話題になりました。 週刊誌などでは「お受験ママ」などといっておもしろおかしく騒ぎ立てていますが、あの母親も自分の感情のコントロールの仕方をもう少し知っていたなら、自己主張の本当の意味を知っていたなら、あのような悲劇は起こらなかったと思います。 残念でたまりません。 決して人ごとではないのです。 心では分かっていても、そのことを言葉にしてだれかに聴いてもらわなければ、心は晴れることはないのです。 いまの社会で「憂さを晴らす場所がない」ことが問題なのです。  

  この問題はとても根の深い問題であり、第二次世界大戦後のすべてのことが絡み合った問題だといえます。 とても詳しく書いている余裕がありません。 我々一人ひとりが自分の考えを持ち、一人ひとりの価値観を変えることなしには解決不可能です。 社会としての価値観を変化させる努力を一人ひとりが求められている問題だと思います。  

  言わなくても分かる時代は過ぎ去ったのです。 いまは言っても分からない時代になってしまったのです。 なぜなら価値観があまりにも多様化してしまったからです。 自分のことしか考えない利己主義が幅を利かせすぎたからです。 正確に言えば、他人のことを考えないのではなく、考えようにも考えられないように育てられてしまったのだと言いたいのです。 このことはいくら言っても、言い足りないとさえ思っています。 最悪のケースだと思います。 自分の意見や考えを言わなければ、誤解されたり、問題意識のないやつだとしか言われない時代になったのです。 もっと自己主張しましょう。 自己主張の出来ない人は、つらい生き方をせざるを得なくなります。 恥ずかしがらないで、もっと会話をしましょう。 知らないひととも、すすんで話をする訓練を積みましょう。 なにごとも小さいことから始めてみましょう。

  自分の感情を素直に表現することが、どれほど大切なことかは、言いたいことが言えなくて悩んでいる自分の姿を考えてみれば、おわかりいただけると思います。 ただし、「言いたいこと」と「言うべきこと」は似ているようでも、根本的に違います。 言いたいことは感情にまかせたことであり、相手を納得させることは難しく、言うべきことは理論的なことであり、相手に反論の機会さえ与えないこともできるのです。 この両者をはっきり区別して考えれば、無用なトラブルを避けることができると思います。 

  自己主張も、これに負けず劣らず大切なことです。 とかく日本人は自己主張というと、その言葉だけで嫌うようですが、正しい自己主張の仕方をマスターすることは必要不可欠なことなのです。  自分の身を守るためには、自己主張は不可欠なのです。 不可欠なことを避けようとするから、悩まなくてはならないのです。 悩みを少なくしたいならば、ここを必ず読んでみてくださいね。 

  自分の感情を言葉で適切に表現できるようになるには、なにごとも経験して汗や恥をかいて覚えるしかないと思います。 現実から逃げているかぎりは、とこまでも生きることがつらくなるだけなのです。

  国語の読み書きの能力が、こんなところにも影響してくるのだと思います。

  現実と向き合うことにもつらさが伴いますが、現実から逃げていれば後になってもっとつらい生き方をしなければならなくなるのです。 このことだけは、絶対に忘れないで欲しいと思います。

  このページの最後に人使いの極意とも言うべき、有名な言葉を乗せておきます。 これは第二次世界大戦のときの海軍大将であった山本五十六の言葉です。

  「やって見せ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ」

  最後に、感情を言葉で表現するためには、言葉を覚えていなければならないのです。 いまの若者の多くは、日本語を知らないからよけい切れやすくなってしまったのではないでしょうか。

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