生きる力はどこから生まれるのか

 こんな大それた問いに対して私はどう答えればいいのか、あまり分かりません。 でも、このことはずっと気になっていました。 気になってはいましたが、命題が大きすぎるので先延ばししてきました。 やっぱり「先延ばしとその場しのぎ」のところで書いたように、頭の中からは消えることはありませんでした。 自分なりの考えを書かないわけには行かなくなりました。 しかしながらここにきても、なにを書くのかも定かではありません。 思いつくままに書くほかはなくなりました。
 昔から幾多の先人が求め続けたきた問いに対して、自分が書くこともはばかられるようにさえ思うのですが、

自明  …  なんらの証明を要せず、それ自信ですでに明白なこと (広辞苑)
自分の直感によってそれを明らかにすること (大漢和辞典の四番目の意味)
直感  … 説明や証明を経ないで、物事の真相を心でただちに感じること (広辞苑)
推理や説明なしに、直接感じること (漢語林)

 「自明」とは、日常生活で用いる「あたりまえ」と同じことでもあると思います。

   私たちは、なにかに感動するときには理由があるのでしょうか。 好き嫌いを突き詰めて考えてみると、そこには合理的な理由がどれほど見いだせるものでしょうか。 「好きだから好きだ、嫌いだから嫌いだ」、正直なところこれが答えではないでしょうか。 理屈では答にならないことが、答だと思うのは間違いでしょうか。 感動できるから感動する。 なぜ感動できるかに理由は必要なのでしょうか。 ある程度の理由をつけることはできますが、深い意味での理由をつけることはできないのではないでしょうか。 西洋の近代的合理主義と言われることを信奉する人々は、このような問いに対してなんと答えるのでしょうか。 私には答えられません。 答えようとすると嘘になりそうです。    

  なぜ答えられないかと言えば、人間の存在そのものが合理的ではないからではないでしょうか。 私には、ただそう思えるだけなのです。 だから、これ以上深く考えてみようとは思わないのです。 人間の心の底のそのまた奥底は分からない。 いくら考えても(私は大して考えていないのですが)分からないことは、考えなくてもいいと思います。 自分でそう納得していればの話ですが。 納得していない場合は、事情が違ってきます。 納得できない人は徹底的に考えて、そして超人ニーチェ(哲学者でニヒリズムの思想の持ち主と言われていますが、それ以上のことは知りません)のようになるかもしれませんし、ならないかもしれません。 納得するということも、合理的には説明の付かないことだと思います。 理解することは合理的に説明ができるでしょう。

  「直感によって裏打ちされた自明なこと」、これが生きる力の源だと思います。 だれがなんと言おうと、そう確信します。 そして、それだけで十分なのです。 十分だから、それ以上私にとっては考える必要はないのです。 このことは合理主義とはほど遠いのですが、そう確信します。 これが私にとっては、自明ということです。

 まさに私にとっては「good idea」なのです。 そう、私にとってです。 だから私以外の人には、その人なりの考え方があるはずです。

  直感というものがどのようにして形成されるのかは、私は知りませんし、知ったとしても私にはあまり意味がありません。 私には大した意味がないということでであって、他の人にはどのような意味を持つのかは私には関係のないことなのです。 直感は直感でしかないのです。 本能と同じように、それを論理的にどういじくりまわしても本能は本能で変わりようがないのです。 自分でもむちゃくちゃなこじつけのようにさえ思いますが、私にはそう思えるのです。

  「自明」とは、数学で言えば公理のようなものです。 公理とは「だれも証明できないが、すべての人が真理だと認めざるを得ないもの」なのです。 数学の場合は万人が真理と認めざるを得ないものなのですが、自明とは自分自身が真理と納得できればいいものだと思います。 みんなが認めなくても、自分が納得できればいいのです。 「それでは自分勝手ではないか」と反論されそうですが、どこかに書いたように自分勝手には責任もなければ、義務もないのです。 ここが違うのではないでしょうか。

  それなのに他人(親)が、相手(子供)に対して生き甲斐を押しつけようとするから、問題がややこしくなるのです。 生き甲斐は自分自身がいろいろの体験を通して身につけていくものであるべきなのに、自分以外の人から教えられた、あるいは押しつけられた生き甲斐を自分の生き甲斐にしようとするから、生きていてもなんとなく充実感がなくなってしまうのではないでしょうか。 他の人の生き甲斐を生きていては、生き甲斐を感じられなくて当然だと思います。 世の中は「生き甲斐論」で花盛りですが、他のひとの生き甲斐を自分の生き甲斐にしてはならないのです。 他の他の人の生き甲斐を自分なりにアレンジすればいいのです。 自分が納得できるようにアレンジすることが重要なことではないでしょうか。 コピーは通用しないのです。 人それぞれに生き甲斐があるのです。 地球上には、人間の数だけの生き甲斐があるのです。

  他の人がおもしろくなくても、自分がおもしろいと感じることができれば、人生はそれだけで十分なのです。 他の日とや社会に迷惑がかかっていない限り、自己責任において人生が楽しいと感じることができれば、OKなのです。 私は、そう信じています。 他の人の人生を生きてはなりません。 自分の人生を生きることです。 自分の人生が他の人と同じでなければならないということはないのです。 他の人の服を着ようとするから、なんとなく不自然さを感じてしまうのです。 

  私たちはともすると、難しい問題に対する答は難しいものと思い込んではいないでしょうか。 人生という不可解なことの答もまた難解なものと思い込んでいるような気がします。 私は人生は難しいものではないと言うつもりはありませんが、自分で考えているよりも難しいものではないのではないかと考えるときがあるのです。 ものは考えようで、考え方や見方を変えれば答も自ずから違ってくると思うのです。 難しい局面ではものの考え方や見方を変えにくくなるから、不必要に難しく見えてしまうのではないでしょうか。 そんなときに考え方や見方を変えることができれば、問題は自分が考えていたより難しくないかも知れません。 難しい問題に対する答があまりにも簡単なとき、我々はかえってとまどって「こんなに簡単なはずがない」と、自分の考え方を疑ってしまうこともあるのではないでしょうか。 そして、かえって考え込んでしまうかも知れません。 「一体なにが抜けているのだろう」と。

  この件に関して、私はとても興味深い思い出があります。 私が学生時代に聞いた先輩の話しです。 生涯忘れられないことです。それは明治36年5月に日光の華厳の滝で投身自殺した藤村操という人の話です。 その遺書の内容を書き記したものは、いまの持っています。 当時彼は18才でした。 いまの京都大学の哲学科の学生だったと思います。 彼の「厳頭之感」と言う遺書の中にでてくる言葉の一節で「万有の真相はただ一言にしてつくす、曰く(いわく)不可解」という一節です。 彼は人生を理解しがたいものと考えて悩み、そして死んでいったのだと思います。 そしてその言葉のすぐ後に「大いなる悲観は大いなる楽観に通ずる」とまで書き残しているのです。 頭では理解していたのですが、心が納得してくれなかったのだと思います。 生きることをしあわせにする鍵は、遠くにあるものではなく、毎日の生活の中にあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。 メーテルリンクの「幸福の青い鳥」は身近にいたのではないでしょうか。 私自身、大きなことを言うと笑われてしまいますが。 かくいう私も、それを探すためにこのホームページを作ったのですから。

  人生というものに対しても、次のようなことが言えるような気がします。 「自明、あたりまえ、当然」ということが月並みすぎて、かえって迷ってしまうのではないかと。

 生きる力などというものは、求めて得られるものなのでしょうか。 このようなものは、求めれば求めるほど遠くに行ってしまうものなのかも知れません。 なにかを、いろいろとやっている中に見つかるものではないでしょうか。

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