むなしくなると、なぜすべてがどうでもよくなるのか

 「むなしい」ということについては別のページに書きましたので、ここでは「むなしくなると、どうしてすべてのことがどうでもよくなってしまうのか」ということについて考えてみます。 むなしくなることは生きる希望をすべて断たれたと同じ状態であり、だれも、なにも受け入れてもらえないと感じてしまったことと以前書きました。 

  むなしくなるとは、自分がそうなった原因をつくった相手に対する無言で究極で、しかも捨て身の抗議なのです。 ことの善し悪しは別にして、相手がそのことに気がついて自分を受け入れてくれさえしたら、むなしさはいっぺんに消えてなくなるのです。 相手が自分の存在そのものを無視し続けたから、自分はどうすることもできなくなって自分自身の存在をも確認できなくなったのです。 むなしくなることによって、自分は言葉を発せずに相手に受け入れてもらおうとしているのです。 それがむなしさの正体ではないでしょうか。

  むなしくなった人は、本当にすべてをあきらめたわけではないのです。 あきらめきれないからこそ、むなしくなってしまったのです。 その証拠に、どうでもいいような無責任な生き方をしている人が「むなしさ」を感じたとはあまり聞いたことがありません。 そのような人の言う「むなしさ」とは、快楽に対するむなしさであり、ここで言う「むなしさ」とは別のものです。

  むなしくなることで自分の苦しみを訴えても受け入れてもらえなければ、そのあとに残るものは自己放棄しかなくなるのです。 それが社会にすねた生き方であり、反抗した生き方だと思い当たりました。 青少年が自暴自棄になって生きていることには、このようなことが含まれていると思います。

  生きる目標がなくなれば、快楽を求めて刹那的な生き方をすることも当然だと思います。 だれにどう思われようが、自分がどうなろうが、関係なくなります。 むなしい人は、相手の復讐することが唯一の目的になってしまいますから、自分がどうなろうと相手が苦しみさえすればいいのです。

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