思いやりとはどんなことか
知 恵 → | 知識を現実に応用できる力 |
思いやり → | 気のつくこと |
思慮 | |
時分の身に比べて人の身についておもうこと | |
相手の立場や気持ちを理解しようとする心 | |
同情 |
思いやりは、相手があってはじめて成立する概念です。 複雑な人間関係のなかで、自然に生まれてくるものなのです。 思いやりは意識的にというより、自然に育つものだと思います。 意識的な思いやりは、なんとなくわざとらしさがあってよそよそしさを感じさせますから、直感的に分かると思います。 自分の頭の中だけで考えた思いやりは、正確には思いやりとは言えないように思います。 生活のなかから自然に生まれてこそ、思いやりだと思います。 どんなに「自分には思いやりがある」と考えていても、それを実践できなければ、思いやりという概念を持っているだけ自分を苦しめてしまいます。
なぜなら、自分には思いやりがあるのに実践できないとなれば、そんな自分が惨めになり、自分を嫌うことになってしまうからです。 「知らぬが仏」ということわざもあるように、思いやりと言うことを知らなければ、実践しようとしまいと思い悩むことはないからです。 この意味では、無知は困りものですが、救いの一種でもあると思います。 なまじ知ってしまったために、よけいな悩みを背負わなければならなくなるからです。 だからといって、知らない方がよかったのかと言えば、そんなことはないはずです。
人はなんでもはじめは概念として知識を得、そして悩み、考えながら成長していくのだと思うからです。 だれでも悩みは抱えたくありませんが、悩みや苦しみも人生には必要なものなのです。 悩みや苦しみといった人生にはマイナスなことがあるからこそ、生き甲斐もあるのです。 このことは、口が酸っぱくなるくらい書いてきました。
思いやりは持ちたいと思って持てるものでもなければ、どんなに本を読んでも読んだだけでは持てないのです。 行動することによってのみ、思いやりは育つのです。
思いやりが希薄になってきた理由として、教育としつけの問題があることは否めませんが、それに負けず劣らず大きな理由は経済的に豊かになったことがあげられます。 「衣食足って礼節を忘る」といいますが、経済的に豊かになったことが他人との関わりを持たないで一人でも生きていけると錯覚したことがあげられます。 このことも、何度も書いてきました。
喜怒哀楽や苦労、喜びをともに味わう機会が少なくなってきたことが、思いやりが希薄になってきたことの最大の要因です。 相手の苦労、つらさを自分も身にしみているなら、いま社会で起きているような事件を起こすことはできないと信じます。 「気まま、わがまま」が、思いやりを駆逐してしまったのです。
思いやりは、汗と涙と挫折の中で育つものだと思っています。