苦労すればするほど、やさしくなれる

  相手のことを理解する上で重要かつ確実な方法は、相手の立場に立って考えるということは、だれでもが知っていることだと思います。 しかしながら相手の立場に立てと言われても、相手がなにを考えているのか全然分からないこともあるし、おおよそは分かってもやっぱり詳しいこととか、なぜそのように考えるようになったのかは分かりません。 相手の立場に立って考えなさいと言われても、自分がどれほど相手の立場になったつもりでいても、相手そのものにはなれないので難しいことなのです。 ここは正確に言えば、「相手の立場になったつもりで考える」しかないのです。

  悩み事などを相談すると、「おまえの気持ちはよく分かった」と言う人がいますが、そんなに簡単に他人の気持ちが分かるはずはないと思います。 なぜなら育った人的、物的な環境が違うからです。 似たような環境で育つことはあっても、同じ環境で育つことはないのです。 双子でも、友人が違えば同じ環境とは言えないのです。

  人の心とは理屈では理解しがたいものだと思っています。 でも正確には分からなくても、おおよそのところは予想できるものだと思います。 人の心を読んだり、相手の立場に立ってものごとを考える場合、人の心についての十分な理解が必要です。 人間理解がなくて、相手の立場に立つもなにもあったものではありません。 人間理解なくして相手の立場に立つことは、相手に対する侮辱であり、自分に対する裏切りでしょう。 では、どうしたら人の心の理解が可能になるのでしょうか。

  結論的なことを最初にいえば、世の中の経験のすべてを通して体に覚え込ませる以外に方法はないということです。 これでは抽象的で分からないはずですから、もう少し具体的に考えてみましょう。 若いときに苦労を知らないで育った人が、他人の苦しみや悩みが分かりにくいのは、自分が同じような境遇になったことがないために、相手の気持ちを考えようにも考えることができないのです。 同じような体験をした人だけが、その人の苦しみを理解してあげられるのです。 苦しんでいる人の気持ちが分かるからこそ、ときにはきつい言葉も言えるのです。 それはうわべだけでなく、心の底から相手の気持ちが理解でき、心の底から相手のことを心配するからきつい言葉も言えるのです。 自分が同じような経験をしているので、相手の苦しみを自分の苦しみとして理解できるからこそできることなのです。 

  うわべだけ飾っている人の言葉は、通り一遍の言葉であり、胸に響くことは難しいことです。 ひどいときには聞いている方が、むなしくさえなってしまうときもあります。

  ここで一言付け加えておくことは、なにもあえて苦しい境遇を経験しなさいといっているわけではありません。 経験しないで済むことなら、それに越したことはないのです。 ただ苦しい現実に直面したときには、逃げないで現実を直視しなさいと言っているのです。

  小さいときから親の言いつけをよく守り、親の言うなりになって育った人は、なにごとも親が解決してくれることが多いものですから、生きる苦しみや悩みを理解できない人が多くなりがちです。 もしこのホームページを見ていて、このことに思い当たる方がいるならば、いまのことをよく考えてみて欲しいのです。 自分は親の分身ではなかったかと。 極端な言い方をすれば、なにが苦しみで、なにが悩みなのかも分からないかも知れないし、仮に分かったとしても困っている人を、どう助けてあげればいいのかはまったく分からないと思います。 

  なにごとも親がかりで生きていると、どうしてこうなるのかは大きな問題なのであとで詳しく考えます。 ここでは、「自分の経験しないことは分からない」ということを知って欲しいのです。 この言葉は、なんどもでてきますから。 自分が分からないから相手の苦しみを慰めたり、助けてあげようと思っても、なにをしていいのか分からないのだということです。 これは冷たいとか、無関心ということとはちょっと違うことだと思います。 してあげたくてもできないのです。 気持ちがあっても行動に移せないのですから。 いまの若者に多く見られる現象だとも思っています

  喜怒哀楽の多くのことを経験していれば、それだけ人としての幅がでてきて、自分が生きることが楽になり、周囲からも信頼されることにもなります。 現実から逃げれば逃げるほど、生きることが苦しくなり、だれからも頼られることがなくなります。 楽に生きるためには苦しみを経験しなければならないのです。 この逆説は真実だと確信しています。 苦労すればするほどやさしくなれるとは書きましたが、なかには次のような人もでてきますので書き添えておきます。

  それは、自分が苦労するのは自分に責任があるのではなく(確かに自分に責任のないことで苦労することもありますが、ここではふれません)、社会が、相手が悪いからだと短絡的に考えて社会を呪い、社会や相手に報復を考える人ももいるということです。  報復を考えないまでも、厭世的な生き方となって自滅していく人が多いのは胸の痛むことです。 引きこもりは、その最たる例ではないでしょうか。 人それぞれの事情があるはずですが、こうなるのは考え方のどこかに誤りがあると言えます。

  さきに「苦労すればするほどやさしくなれる」と書きましたが、現実には苦労をしてもちっとも、やさしくなれない人も多いと反論されるでしょうから、反論される前に書いておくことがあります。 現実を見れば苦労の連続ばかりで、その苦労の原因を相手や社会のせいにして、文句を言ったり、社会に恨みを持つ人も多いのは事実です。 この恨みを晴らすために、相手かまわず殺人を犯してしまっている人がいることも、マスコミの報道を見ればいっぱいあります。 悲しいことです。

  そのような人は苦労したにもかかわらず、なぜやさしい人間にはなれなかったのでしょうか。 一言で言えば、苦労の動機が違うと言えるのではないでしょうか。 どう違うか。 苦労してやさしくなれる人は本当の自分を見つめ、自分を競争の中で捕らえず(他人との比較で考えず)、強い自分をつくろうとした人だと思うのです。 これに反して苦労してもやさしくなれない人は相手や社会を呪って、迷惑ばかりかけ本当の自分を見つめることから逃げ、他人や社会との比較の中だけで自分を考え、相手や社会に仕返しをしてやろうとすきかってなことを考えたのだと思います。 意識的にではなくても、そのような方法以外の方法は考えもつかなかったのだと思います。 すべては自己満足や報復のために苦労と努力を重ねた人ではないでしょうか。 そのような人が目的を果たしたとしても、やさしくなれるはずがありません。 

  なんのために自分は苦労をしなければならないのか、その意味を考えない人は苦労してもやさしくはれないのではないでしょうか。 苦労の原因を相手に求めたり、社会に責任を押しつけても、なにひとつ解決しないのです。 むしろ事態は悪くなって行くばかりだと思います。

  自分が苦労をして、はじめて他の人の心の痛みも分かるのです。 だから苦労をしてきた人の言葉には重みがあるのです。 苦労を逃げてきた人には、なぜ相手があんなことで苦しまなければならないのかさえ分からないのです。 だから苦労を知らない人は、他の人に思いやりをかけることができないのです。

  同じ苦労をするにしても、その動機が異なれば結果はこれほどまでに違ってくるのです。 あなたなら、どちらを選びますか。 

トップページへ戻る