知識(学歴)があっても、あまりしあわせを感じられないのはなぜだろう

 いまの教育現場は「知識を身につけることがすべてだ」と言わんばかりですね。 有名校(どんな学校なのやら)に入学し、有名大学に入学し、有名な会社に入社することがしあわせだと考える人も多いようですね。 そのためには、子供が幼稚園に入園するまえから「お受験」と称するきちがいざたが平然とまかり通るのです。 知識さえあれば、しあわせは保証されるとでも思っているようですね。 人間、お金と知識さえあれば、しあわせは保証されるのでしょうか。

 知識とは論理的なことであって、それは体を動かさなくても頭の中だけで対処、組み立て可能な世界なのです。 教室や塾のなかで習得できることなのです。 「ああすれば、こうなる」という、理屈、理論で対処できるのが知識だと思います。

 しかし、知恵は理屈や理論とは別次元のことなのです。 両者をごっちゃにしてしまうから、問題がとんでもない方向に行ってしまうのではないでしょうか。

 しかし、現実は自分の思い通りになることはめったにないのが普通なのです。 ここに現実と知識により得たこととのギャップが生じるのです。 現実は理屈で考えるほど、単純ではないのです。 理屈では考えられもしないようなことが日常茶飯事に起きるのが、現実の姿なのです。

 頭でしかものを考えられないような教育を受けた人が、いままでの知識では考えられもしないようなことに直面したらどうするでしょうか。

自分にはできそうもないと簡単に諦める
どうしたらいいか分からないけれども、いままでの知識を総動員してやってみる
現実が間違っている、あるいは現実が悪いという

 知識重視の教育を受ければ、ものごとは理屈や論理的に考えれば解決できると考えるのは自然の成り行きです。 そのような人が、複雑怪奇な現実を自分の持っている限られた知識でみようとすれば、現実をねじ曲げて、現実を自分の考えに合わせざるを得なくなります。 世の中には、自分たちの限られた知識では理解できないことがあまりにも多いのですが、知識絶対主義の人から見れば自分の知識が現実を理解するのに役に立たないと思うことは、自分の存在そのものを否定することにつながります。

  知識さえあればどんなことでも解決できると信じている人にとって、その知識が現実に対して無力だと認めることは大変むずかしいことなのです。 知識偏重の人は管理人の思い過ごしかも知れませんが、謙虚さや思いやりに欠けることが多いようです。 思いやりや共感するなどと言うことがなくても、世の中は知識だけで渡っていけると考えているからではないでしょうか。 

 自分の知識にあることと現実が違う場合、知識が間違っていたのか、それとも自分には知識が不足しているかと考えれば、そこには努力や謙虚さが生まれて自分を向上させることができます。 しかし、そのようなことを認める勇気のないことにとっては、間違っているのは現実であるという傲慢さが生まれ、人間成長の機会が失われるとともに、自分を反社会的な人間にしてしまう危険性が極めて高くなるのです。

 世の中には、自分の知らないことの方が圧倒的に多いのです。 自分には分からないことがあるという謙虚な心を持つことができた人にだけ、しあわせはほほえむのだと信じます。 そのような謙虚な心を持つことができた人だけが、知らないことを知ることができるようになるのです。 そして、ますます謙虚さを深め、人間として成長でき社会から信頼されるようになるのです。 自信のある人が謙虚なのには、こうした理由があると思います。

 知識を重視しすぎて、知恵や思いやりを軽視すればするほど、自分の生き方は苦しくなる一方なのです。 このことは、私たち一人一人の身の周りや、毎日マスコミをにぎわしている三面記事を読めば分かるのではないでしょうか。

 言葉を換えれば、自分のことだけを考えれば考えるほど、あるいは自分だけの身を守ろうとすればするほど、生きることが苦しくなってしまうと言うことです。 大切なことは、自分の身を守ると同時に、相手の立場をも考えることなのですが、このバランスは知識で絶対に身につけることは不可能なのです。 知恵は現実の生活を通して、恥をかき、汗を流し。涙を流しながらしか身につけることができないのです。

 汗と涙、共感、そして恥などを知らない知識ほど、恐ろしいものはないのです。

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