知識のある人だけでなく、知恵のある人がもっと大切にされる世の中になって欲しい

   知識 → ある事項について知っていること。 また、その内容
   知恵 → ものごとの理を悟り、適切に処理する能力
                                        (広辞苑)

 いまの社会では知識が過大に評価され、知恵が軽視されていると感じるのは私だけでしょうか。 「知識と知恵」を広辞苑で引くと、上記のように載っていました。

 知識は「あることについて知っている」ということであり、、そのことに適切に対処できることとは違うのです。 知恵は「あることに関して、その知っていることを適切に応用できる。」ということなのです。 どんなに知識があっても、それに比例して知恵があるとは言い切れないのです。 両者の違いをよく理解していないから、社会で知識が偏重されてしまうのではないでしょうか。 学校や塾でどんなに知識を身につけても、その知識で現実を適切に判断することは危険が伴いすぎるのです。 知識を応用できないから、さまざまな起きなくてもいいような問題が起こるのだと思います。

 知識の豊富な人がいろいろなことを決定する過程において、現実をよく理解していないと(机上の論理だけで判断してしまうから)、よく考えればあり得ないようなことも頻繁に起きてしまうのだと思います。 知識は重要なものですが、それは理詰めの考え方ですから、想定外の事態が起きれば適切な対応ができなくなって当然なのです。

 いまの知識偏重の詰め込み教育の結果が、さまざまな問題を引き起こしているのではないでしょうか。 (もちろん、そうとばかり言い切れないことは承知しています。)  知識の豊富な人は立派な人であり、知識不足の人は人間として劣るという社会の常識(言い過ぎかもしれませんが)になってしまったのです。 本来、知識と知恵はあまり関連のないことだと思います。 「思っている」というよりは」そう、信じています。 知識のある人は立派な人だという思いこみがあるから、誤解も生じ、簡単に詐欺に引っかかってしまうのではないでしょうか。

 昔(主として第二次世界大戦前)は、ほとんどの人が貧しくて教育を受ける機会も少なく、高等教育を受けることができたのはほんの一握りの裕福な買いの子女だけでした。 しかし、そのよな初等教育(いまで言えば、小学校だけの教育)を受けて育った人の方が思いやりもあり、知恵はいまよりも格段にあたのです。

 なぜ、そうなったのか。

 それは、貧しい生活のなかでお互いに苦労を共にしたからだと信じます。 同じような環境、境遇のなかで苦楽を共にしたからだと言えます。 自分が苦労したから「相手もつらいだろう。」ということが自明のこととして納得できるから、相手をいたわることができたのです。 現代社会は経済的に豊かになり、「ともに○○する」という機会が少なくなり、子供の遊びと言えばテレビゲームだけになってしまったから、相手の苦労を理解できず、思いやれなくなったのです。

 知識(あえて学歴と言わせてもらいます)があまりなくても、社会的に認められるような社会が実現すれば、私たちの暮らしは精神的に豊かになれると思います。 ドイツの「マイスター制度」のように、職人が社会のなかで認められることが必要ではないでしょうか。

 知恵のある人とは、現実の問題に適切に対処できる人ですから、そのような人が増えればお互いにトラブルも減り、社会は必ずや住みやすくなると言えます。

 問題は、どうすれば知恵のある人になれるかと言うことです。 この一言のために「もっと楽に生きてみないか」というサイトを作ったのですから。

 それには現実から逃げないで、、傷つきながら、経験を通して生き方を身につけていくしかないのです。 このことに関しては「学問に王道がない」ように、「人生にも王道はない」のです。 それ以外にないのです。 人生は回り道だらけなのです。 しかし、いまの社会では幼いときから知識習得のための勉強とゲームにばかり熱中しているから、現実のなかで生き方を身につけたくてもつけようもないのです。 現実とバーチャルな世界の区別すらできないようになってきたのです。 こ(れについては、別に書きます。)  

 それに輪をかけているのが、過保護な親たちです。 過保護な親たち、モンスターペアレントは子供を立派に育てようとして、逆に現実に打たれ弱い大人を作り出しているのです。 何よりも必要なことは、いい意味でも、悪い意味でも汗と涙を流して、失敗を重ねながら生き方を身につけていくしかないのです。 そうすることでしか、知恵のある人間にはなれないのです。 どんなに他人から教えられ、本を読んでも、それだけでは知恵はつかないのです。 ひとりひとりが体験を通さなければ、知恵が身に付くことはないのです。 いまはあまり言わなくなりましたが「インテリ(高学歴の人)は弱い」と言われたのは、そのためです。

 もっと知恵が尊ばれる社会にしていく必要があるのです。 知識の必要な人は、それなりに勉強すればいいのです。 だれもかれもが、社会に出てほとんど必要としないような知識を身につける必要はないと思います。 必要最小限(なにが必要最小限かは、問題のあるところですが)の知識は必要ですが。 知恵はすべての人にとって必要なことですから、学校・家庭そして社会では知恵を実践を通して学ばさせることがなにより大切だと思います。

 知恵が身に付けば、自信も自然についてきます。 いまの社会では知識はあっても知恵があまり身に付いていないから、自信も身に付かないのではないでしょうか。 知識だけが肥大化してしまっているから、知恵のなさを隠すためにより攻撃的にならざるを得ないのではないでしょうか。 「攻撃は最大の防御なり」というように、いつも相手を攻撃していれば、そのような人は一見自信と見識のある人と勘違いされるからです。 本当は、勇気のなさ、知恵のなさを隠すために攻撃的になっているのですが、本人の気がつかないのです。

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