プ ロ フ ィ ー ル
生年月日 | 1945年 |
住まい | 東北地方(宮城県) |
略 歴 | 中高大とミッションスクールに学ぶ (クリスチャンではありません) 専攻科目は経済学 1967年就職 2000年1月より第二の職場に勤務 2007年退職 現在に至る |
趣 味 | 音楽鑑賞 声楽をのぞくクラッシック ジャズ (とくにジャズピアノ) ラテン音楽全般 ファド シャンソン 映画音楽 映画 (と言っても、古い映画) スポーツ (アメリカンフットボール「見るだけ」、卓球) 古典落語 家庭菜園 |
小さいときの思い出
私の父は公務員、母は農業という家庭でした。 私の生まれた昭和20年といえば、日本が第二次世界大戦で敗れた年です。私が物心ついたときの社会は、本当になにもない社会でした。 小学校のときにはお弁当さえ持ってこられない児童も何人かおりました。 靴下やたび(足袋)などはほとんどなかったので、冬になればゴム長靴の中にわら(藁)を敷いて、素足のままで履いていました。 そんな時代でしたので、水仕事をする母親はどこの家(家庭という感覚もあまりなかった時代です)でも肌はひびやあかぎれだらけでした。 私の手にも雪焼けの後がいまだに残っています。 冬はいろりにまきや炭を入れて、すきま風だらけの家の中でじっとこたつにはいっていたものでした。 昔話や戦争で引き上げてきた人の話を聞きながら育ちました。 家庭電化製品ももちろんないので、ご飯はかまどで炊く、水は井戸からくんで運ぶ、洗濯は手仕事、なにからなにまで手でしなければならなかった時代でした。
農作業も機械はほとんどなく、すべてが手作業でしたから、昔の農家の人はみんな腰が曲がってしまったのです。 牛や馬を使って田畑を耕し、科学肥料がなかったので田畑には堆肥や糞尿を肥料としていました。 そのためお腹にはいつも寄生虫がいて、その寄生虫を駆除するために学校では定期的に虫下しを飲ませていました。
体にのみやしらみのいるのは当たり前、皮膚病も多かったです。 着ているものはお古やつぎはぎだらけのものでした。 母親が農作業をするときには、子供が遠くに行かないように帯で木や柱に結わえ付けられていたことを覚えています。 当時は家父長の力が強く、姑も力があったので(いまは逆かな)どこの家でも嫁は泣いていました。 もちろんだれよりも早く起きるのは母親(嫁)、一番遅く寝るのも母親(嫁)、母親はそんなに働いてもご飯も満足食べさせてもらえなかったことも珍しいことではありません。 と゜この家でも事情は似たり寄ったりだったと思います。
みなさんは、そのようなことを想像できますか。 テレビは、このときは世の中に存在していませんでしたし、ラジオのある家も珍しかった、そんな時代に私は幼い時を過ごしました。 もちろん、電気洗濯機、電気冷蔵庫もありませんでした。 あえて「電気」と付けました。 第二次大戦後、家庭にあった冷蔵庫は電気で冷やすのではなく、冷蔵庫の中に氷を入れて冷やしていました。
もちろんどこの家にも自動車はありませんでした。 あるのは馬や牛に引かせる荷馬車、リヤカー、それに自転車くらいな物でした。 自家用車が一般のサラリーマンにも購入できるようになったのは、昭和38年前後だったと思います。 それまでは車は庶民には手の届かない物だったのです。
子供たちは一人前の働き手として家事を手伝い、野良仕事もしたものです。 お使い、まき割り、風呂焚き、水くみ、雑巾がけ、田植え、稲刈り、畑仕事、山の下草刈り(これが一番きつかった)、その他いろいろなことをしました。 いまとなっては、遠い昔の思い出になりましたが。
物価が安かったので単純には比較できませんが、私の村(いまでは完全に仙台のベッドタウンになってしまいました)から仙台まで大人のJRの片道料金が20円(現在は230円)のとき、5円のお小遣いがもらえなくて、だだをこねて母親をずいぶんと困らせたものでした。 いまのような国民健康保険の制度もなかったので、病気になるとお医者さんに払うお金もなく、親は本当に恥ずかしい思いをしたそうです。
そんな母親は、昨年(2012年8月)に亡くなりまた。
米は完全配給制で、親戚に米を持っていくことも自由にはできませんでした。 仙台にいる叔母のところにわずかばかりの米を持っていくにも、駅で警官の目を盗みながらびくびくしながら持っていったものです。 見つかれば、取り上げられてしまうからです。
当時我が家でも鶏を飼っていましたが、卵は超高級品でちょっと風邪を引いたくらいでは食べさせてもらえませんでした。 よほどひどくならない限り、目の前にある卵は食べさせてもらえなかったのです。 それらは物々交換したり、貴重な現金収入の元になったのです。 これから書くことは信じてもらえないでしょうが、昭和20年の中頃はバナナ一本が40円前後していたように記憶しています。 一房ではなく、たった一本です。 大学卒の初任給は7~8千円くらいだったでしょうか。 病気になってバナナが食べられるということは、重病だったと言うことです。 いまの皆さんには想像もできないと思います。
そんな時代子供だからと言って甘やかさせることも少なく、自分のことは自分でしなければ、親さえも助けてくれる余裕がなかったのです。 子供は見よう見まねでいろいろのことをしたり、工夫しなければならなかったので、いやでも生活の知恵や日常の雑事を覚えなければならなかったのです。 そうしなければ生きていけなかった時代だったのです。 そのことがいま役に立っていることはいうまでもありません。
話は飛びますが、いまの子供はなにをしようとするわけでもなく、ときたまなにかしようとすると親が「してはいけません」と言って取り上げてしまい、代わりに勉強だけをさせてしまうから子供には日常生活の知恵がなくなってしまったのです。 当時はお金がなくてひもじい思いをしたり、お金がなくて恥ずかしい思いもたくさんしましたが、そのようなことが忍耐強さや思いやりを培ってくれたのだと確信しています。 私は忍耐力に欠けていたので、後年になってそのつけはいやというほど払わされました。
当時の思い出を書き出すときりがなくなってしまうのでこの辺にしておきますが、興味のある人は祖父母や年寄りに聞いてみるといいでしょう。 みなさんの親や祖父母がどんな生活をしてきたのか、知っておくことは大切なことですから。 そのような先人の苦労の上に、みなさんの物質的に豊かな生活が成り立っているのですから。
私 の こ と
急に書きづらくなりましたが、個人的なことを書きます。 私がどんな生き方をしてきたかを書くことによって、みなさんの参考になればいいと思うからです。
私の両親はなにごとも悲観的な見方をする人でした。 父母とも尋常小学校しかでていないので学門のないことは仕方がないのですが、私が父に教えられたことといえば、次のようなことが一番頭に残っています。 「世の中というものは、言っても、やっても無駄なのだ。 『長いものには巻かれろ』と言って、ただ黙って相手に従ってさえいればいいんだ。」と。 父は自ら選んで本当につらい生き方をしてたきのだなぁと思わずにはいられません。 もちろん育った時代背景が違うので、批判することは簡単ですが。 父には父でなければわからないなにかかがあったのでしょう。 でも、私が父のような生き方をしていたら、とうの昔に行き詰まっていたと思います。
母も嫁としゅうととの関係で苦労してきたので、なにごとにつけても自分を責めるばかりの人、死んだ子供の年ばかり数える人になってしまいました。 あるものではなくて、なくなったものばかり気をする人なのです。 なにか言われると「私だけが悪いんだ。 私さえ我慢すればいいんだ。」と、なにもかも自分ばかりを責めています。 足腰が弱ってきて、「どうしてこうなってしまったのだ」と嘆いてばかりいて、現実とうまくつきあうことができないのです。 私としてはそのような両親を見ることはつらいのですが、悲観的にしか考えない両親なのでなにを言っても、受け入れられないようです。 上手に年をとることがこんなに難しいことだとは、思いもよりませんでした。
小さい頃の私はいくじがなく、いじめられても仕返しもできない人間でした。 しかし昔は外で遊ぶしかなかったので、それでいやなことを発散させていたのだと思います。 いま思うのですが、いい意味で反発心を持てるかどうかは親の育て方に追うところが多いと思います。
小学校の頃夏休みの宿題をためてしまい、母親と近所に住む親戚に手伝ってもらったことが、私の依存心や依頼心を強くしてしまったのではないかと思います。 親が子供を突き放して育てることがどんなに難しいことか、人の親になって分かるようになりました。 突き放して育てることと、愛情が欠けていることとは、まったく違うことだと思います。 愛情があればこそ、ときには突き放す必要もあるのです。
中高大一貫教育のミッション系の学校に通わせてもらいました。 貧乏だったのに両親は相当無理をして、通わせてくれたのです。 これにはいまでも感謝しています。 そこにはいわゆる両家の子供(男子学生のみ)が多く、お金持ちの子供が多かったから、私のような貧乏の家庭の子供には劣等感を持つような場面が多くありました。 毎日礼拝があり、賛美歌を歌い、聖書を読み、説教を聞くという生活でしたから、私の人格形成には多大の影響があったことは言うまでもありません。
成績は中頃で可もなければ不可もない生徒でした。 なにかしたり、忘れ物をして怒られたり廊下に立たされたりすれば落ち込んでばかりいました。 だからと言って、そんな態度を改めるような努力をする人間ではありませんでした。 授業中は分からないことが多く、「自分に指名されなければいい」と、そけだけを考えていたように思います。
大学では経済学を専攻しました。 大学ではずいぶんと勉強しました。 でも学門はしたけれども、社会勉強がおろそかになったようです。 実社会にでて感じたことは、学校の授業で習ったことよりもクラブ活動で身につけたことが役に立っていることです。 いろいろな社会問題や世界情勢について、部室で授業をさぼってまで討論したことが思い出されます。 私が学生の頃は学生運動が激しく、社会を憂れい学生運動に飛び込み退学になった人も大勢いました。 当時の私は理屈は語っていましたが、学生運動に飛び込む勇気もありませんでした。
私の依頼心の強さは、どうもこのころから強くなったように思います。 なにか責任ある立場を任されても、「そのうちだれかがやってくれる。 だれかが助けてくれる。」と考えて、小さなことを軽視していました。 その積み重ねが大きくなって、自分一人ではどうにもならなくなって助けてもらう。 次にも同じことの繰り返しでした。 就職してからも似たり寄ったりで、中間報告はしない、間違えば知らないふりをする、同じミスをしても原因を究明しない(反省しない)、ミスを深刻に考えない、そんなことの多い生活態度でした。 よく言えば極楽とんぼ、事実を言えば無責任の極みだったのです。 そんなことでしたから、当然会社に行くのがつらくなる。 つらくなっても生活態度を変えようとしない。 いま考えれば、はずかしい限りです。
会社に入ってからも理論的に考えることや、ものごとに優先順位をつけることが苦手で、いつも相手の言いなりになるような人間でした。 この態度はずいぶんと長く続けてしまいました。 そのことが生きることをどんなにつらくしていたのか、いま考えると背筋が寒くなります。
そしてそんなつらさから逃げるために、パチンコや麻雀ばかりしていました。 週の半ばでも夜中に一時二時までは当たり前、翌日は眠い目をこすりながらの出勤ですから仕事に身かが多くなっても不思議はありません。 そんな自分を見つめることが怖くて、ますます遊びに流れてしまいました。 今考えると「なんと無駄な人生を送っていたのだろう」と思いますが、当時はそのようには考えることもできませんでした。
まだまだ書くべきことは多いのですが、これくらいにしておきます。
こんな生き方をしてきたからこそ、言いたいことがいっぱいあるのです。
(2007年5月)