| 1976年春 |
| 1976年姫路工業大学に入学。入学の手続きと下宿探しのためオヤジと春休みに大学に行った時、グランドでアメリカンフットボールの練習をしているのを見て興味を覚えた。 入学後すぐに入部。当時の新入部員は私を入れて1年生4名。2年生1名。部員の総数も20人程度。当時は同好会であり、そう大した練習はしていないだろうと思って入部したが、これがとんでもない間違い。同好会ながら関西学生リーグの2部近畿学生リーグ(当時は1・2部制で、2部は近畿学生リーグと言い、3ブロックに分かれていた。)に所属し、秋のリーグ戦と春のトーナメントに参加していた。当時175cm、57kgの私は何も知らないままQBというポジションを与えられた。 思えば、入学手続きの時、アメリカンフットボールの練習を見たことが、フットボールクレージーへの第一歩だった。 |
| 1976年夏 |
| 夏の合宿は兵庫県の北部の神鍋高原だった(岡本屋さんにはお世話になりました)。高校時代はバスケット部で、炎天下で練習をやったことの無い私にとって、初めての夏合宿は地獄だった。 大体、ただでさえクソ暑いのに、防具をつけて練習するなんてのがキチガイじみている。現在はどんな練習なのかは知らないが、当時はとにかくよく走った。おまけに人数が少ないから、ダッシュにしろ、アジリティにしろ、すぐに順番が回ってくる。練習中には熱射病で倒れ、疲労から1週間下痢のしっ放しと、もう、ヘロヘロだった。1日2回の練習で、初日と最終日の移動日が1回の練習になることから、合宿は正味12回の練習があったが、もう初日から、卒業するまでにあと何回の夏合宿の練習があるのか数えたりしていた。 そんな夏合宿での唯一の楽しみは、ソックスの中に落とさない様に百円玉を入れておき、グランドから民宿までの帰り道にあった駄菓子屋でアイスキャンデーやジュースを買うことだった。 |
| 1976年秋 |
初めての秋のシーズン。QBを始めたばかりの私はずっとベンチで、同じ1年生で試合に出ている内藤、岩本、亀高が羨ましかった。1年生のシーズンで印象に残っているのは、当時4年生でキャプテンの井上さん(後に松下電工で活躍し、日本リーグのリーディングラッシャーにもなった)の足の速さ。当時はウイングIとウイングTの併用だったが、TBに入っていた井上さんのスイ-プ(当時「シャットアウト」と呼んでいた)はとにかく速かった。サードダウンロングの時に井上さんがオープンを走れば、半分以上ファーストダウンを取っていたような印象がある。また、当時5年生の西さんも速かった。HBからのダイブで一気にエンドゾーンというプレーも印象に残っている。 試合に初めて出たのは、京都工芸繊維大学との最終戦で、試合がほぼ決まってから経験を積むために出してもらった。1シリーズだけだったが、2度のダウン更新をいずれも右へのフラットパスでとり、最後は2年生のWR熊谷さんにパスを投げたが、わずかにオーバースローとなったのを覚えている。 |
| 1977年春 |
| 2年目となってフットボールがやっと分かってきて面白くなってきた。春の練習では体重も62kgに増え、シメシメと思っていたところ先輩に言われた「おい、太ったんじゃなくてムクンでいるんじゃないか」と。自分では太ったと思って喜んでいたが、先輩が皆口々に同じ事を言うので病院に行ってみた。結果は急性腎炎。運動禁止ばかりではなく、入院が必要と診断されてしまった。せっかくフットボールが面白くなってきたところだったが、実家に帰って入院することとした。 ところが、実家に戻り病院に行ったがベットが満杯。仕方無しに薬をもらって自宅療養となった。自宅療養期間中は薬の関係でとにかくトイレへ行ってばかりだった。おかげで1週間の間にムクミはとれ、体重は昨年の重さに戻ってしまった。1週間後に病院へ行くと血液検査も問題なく、入院の必要はないと診断され、結局学校に戻ることになった。 |
| 1978年秋 |
| 2年目のシーズンを病気療養で過ごした後、3年目の春からまた練習を再開した。私が病気の間に1年下の清水君をQBに育てていたが、私の復帰で彼はTEになることになった。QBをやる気になっている時に出鼻をくじいた形となってしまい、迷惑をかけてしまった。 1978年のシーズンはブロックの再編成が行われ、我々はとんでもないブロックに入ってしまった。対戦相手は、神戸学院、神戸大学、岡山大学、八代学院(今は神戸国際大学になったらしい)、英知大学で、この年に神戸学院は1部に昇格したし、神戸大学、岡山大学も後に1部に昇格した。当時からこの3大学は部員も多く、とにかく大変なブロックだった。 ところで、このシーズン、QBには1年先輩の藤原さんがおり、私は、「4年生の時1年間頑張れば良いんだな」位の軽い気持ちでいた。そして迎えた秋の公式戦の初戦、英知大学との試合前に、いきなり藤原さんから「今シーズンはお前がリードしろ。俺はバックアップはするから」とに言われた。あまりに突然だったのと緊張で私は胃の中の物を吐き出してしまった(緊張のあまり吐いたのは後にも先にもこの時だけである。よっぽど緊張したんだと思う)。 試合の方は8−6で勝った。しかし、どんな内容だったかは覚えていない。今でもそうだが、スターターとしてキックオフを待つ瞬間の緊張感はたまらない。我々のチームは少人数だったし、当然のことながらプレーコールは全てQB任せ。外で見ていてアドバイスしてくれるコーチ、スタッフもいなかった。試合中パスが通らなければ悩むし、プレーが通らなければ悩む。結局、オフェンスが進まなかったら、全責任を感じてしまった。TDをとった時は嬉しいよりもホッとしたものだった。私はそんなに上手なQBではなかったし、みんなに迷惑をかけたのではないかと思う。 最終的に、このシーズンの結果は2勝3敗だった。この年で印象に残っているのは、英知大学か八代学院との試合。試合終了間際、ここでFDをとらなければ、もう一度相手に攻撃権を与えてしまうという3rdダウンのシチュエーション。左のTEに入っていた岩本にアウトのパスが通り、FD獲得。勝利が決定したと思った時、TE岩本のニコッと笑った顔を今でも思い出す。あの時は岩本の顔を見て、本当にホッとしたのを覚えている。嬉しかった....。 |
| 1979年秋 |
| あっと言う間に最終学年になってしまった。実質的には2年の時休部に近かったが、選手登録はしており学生最後の年となってしまった。 この年の我々のブロックは神戸学院の1部昇格に伴い2部降格となった甲南大が加わり、これまた大変なブロックだった。この年は力をつけてきた八代学院にも負けてしまい、1勝4敗という散々な成績で終わってしまった。特に甲南大学、神戸大学(この年に神戸大学は一部に昇格した)にはボロ負けをしてしまった。 私が入部した頃から、関西ではアメリカンフットボール部が各大学に出来、その中でも大阪、神戸に近い大学は大量の部員とスタッフを揃えることで、短期間にメキメキ強くなっていった。逆に我々の大学の様な単科大学で小規模な大学は、何処も部員不足に悩まされていた。こういった状況と大学数が増えたことから後に関西学生リーグは3部制に移行していった。 この年の思い出はあまり無い。とにかく、甲南大学、神戸大学には歯も立たなかった。QBの私には辛く、長いシーズンだった。サイドラインに並んだとき、その部員の数とスタッフの数を比べた時に、ある程度勝敗は見えてしまう。フットボールは知性と体力のスポーツだと思っている。基本的に60人のチームに対して、30人以上いれば、練習と戦略で勝つことは可能だと思う。 しかし、20人前後では、2プラトンを敷けないこと(オフェンス・ディフェンス両方への出場による体力面)、練習に制限があること(オフェンス・ディフェンスフルメンバーでの練習ができない)、選手層の薄さ(ケガ人が出た場合のバックアップとの力の差)等、どうしても辛い面がある。小さなチームで戦ってきた選手達は皆(特にラインメン)、「片面だけでプレーできたらナア」と一度は思ったことだろう。言い訳になってしまうが、11人でオフェンス・ディフェンスに分かれてプレーするアメリカンフットボールにとって、20人と30人の差は大きい。 さて、1979年の秋で、学生時代のシーズンは終わってしまったが、私の在学中、我々のチームにも良い選手が沢山いた。同期でTE・Sの岩本はキャッチング、走力、体力それから「勘」に優れており(とにかく麻雀が強かった)、一部でも十分に通用したと思う。ただ、時々彼が「あっ」と言ったときは大体ファンブルをした時で、同期の内藤はいつも「岩本の『あっ』と言う声がするとぞっとした」と言っていた。 1年先輩の小林さんは2年生の時どうしてもフットボールをやりたくて我々と一緒に入部した。RBをやりたがっていたが、1年目はGでプレーし、2年目と3年目にRBとしてプレーした。小林さんはスピードはあまり無かったが、HBやFBのポジションから、上手く穴を見つけてカットバックし、ロングゲインを重ねた。ちょうどその当時、世間では「花の応援団」というマンガが流行っており、その中で何時も2回生の小林君という登場人物が応援団の中で先輩にいじめられていた。小林さんも入部したときは丁度2回生で、よく先輩にからかわれていたのを思い出す。 1年後輩のWR西岡は体も小さくパスはポロポロ落とすし、最初の頃は大丈夫かと思っていたが、練習を一生懸命して3年間の間に本当にキャッチングが上手くなった(難しいパスを捕って、簡単なパスをポロっとやったりしたが)。 卒業後20年経って振り返ってみると、たったの4年間ではあったが、何も世間のことは考えずにフットボールに打ち込むことができた、楽しい4年間だった。 |