1980年春
 大学を無事(?)4年で卒業した私は名古屋に就職することとなった。学生時代にフットボールを始め、ようやく面白くなってきたところで卒業。おまけに学生時代は大した成績も残せなかったことから、就職するとすぐに、社会人のチームを探した。

 4月のある日、名古屋工業大学で社会人のホワイトベアーズというチームが試合をするという情報を得てすぐに見に行った。試合終了後に入部させてもらおうと考えていたところ、トヨタ自動車の高田さんに、「うちのチームに来ないか」と言われ、何となくトヨタ自動車のチームに入ってしまった。
 当時トヨタ自動車は矢作川の河川敷で練習をしており、毎週名古屋の名東区から出かけていった。ポジションはCBで試合にも1試合でたが、どうもチームの雰囲気が肌に合わずに、結局ホワイトベアーズに入ることとした。

 ホワイトベアーズは森さんというフットボールに入れ込んだ人が作ったチームで、東海高校のOBが比較的多く、学生時代にフットボールをプレーしたことのない選手も多くいた。当時名古屋には名古屋学院のOBを中心とした名古屋フェニックス(現在のサイクロンズ)、愛知学院のOBを中心としたマイティマウス、東邦高校のOBを中心としたブルータス、東海スポーツ等があったが、特に、何処のOBが多いというわけではない、ホワイトベアーズというチームが自由な雰囲気で気に入った。ホワイトベアーズはハッキリ言って、そう強いチームではなかったが、森さんの人柄を反映してか、楽しく、伸び伸びとしたチームだった。この後、転勤であちこち異動したが、結局名古屋近辺にいる時はいつも、ホワイトベアーズでプレーをした。

 社会人になって環境が変わった中、日曜日になると朝の8時頃から出かけて行き、練習をした後はみんなで食事をし、寮に帰った後は、グデッとしながら、洗濯をし、1日が終わる。そんな生活も悪くはなかった。

 
1980年夏
 社会人になって最初の夏、私にとっては20年間もフットボールを続けることが出来ることとなる大きな出会いがあった。私の会社は夏と冬に異動があるが、この年の夏、私より2つ上の会社の先輩で加藤さんが転勤でやってきた。加藤さんは京都大学出身で、学生時代にはデッドリフト(正式な名前ではないかもしれない。ベンチプレスやスクワットで重さを競う競技)のチャンピオンになった人で、既成の服は着れないような体格の持ち主だった。

 加藤さんの転勤を期に、職場や寮の人達は健康志向になり、加藤さんと一緒にウエイトトレーニングに通うようになった。入社してまだ間もない加藤さんや私はそんなに忙しくはなく、週に2回、当時の職場の道向かいにあったダイエーで3時に腹ごしらえしては、愛知県体育館へ通った。さらに、週に1日は郵便貯金会館のプールへ通い、寮に帰れば、プロテインを牛乳に溶かして飲み、朝はヨーグルトを食べるという生活を続けた。これに加えて日曜日はフットボールの練習をしていたのだから、まったく健康的な生活だった。

 今でこそ、ウエイトトレーニングは重要視されているが、私が学生の頃、そうはウエイトトレーニングをやっておらず、加藤さんと通ったのが初めての本格的なウエイトトレーニングだった。加藤さんのトレーニングは学生時代の延長であり、若干内容は減っていたはずであったが、私にとってはとんでもないものだった。始めたばかりの頃は、トレーニングが終わって風呂に入っても、体を洗うのにも苦労するほど体が痛かった。しかしながら、この生活を続けることで、入社当時57kgしかなかった私の体重は1年足らずで62kgまで増加し、遠投力も飛躍的に伸びることになる。

 この後、転勤で加藤さんとは別の職場となったが、これをキッカケに私は自分でもウエイトトレーニングを続けるようになった。今では、週に1回行ければいい方だが、現在でも65kgの体重とベンチプレス80kgは何とか維持している。結局私が20年もフットボールを続けることが出来たのは、この時加藤さんに出会い、ウエイトトレーニングを始めたからだと思っている。

 
1981年春
 私の母校では毎年5月の連休に新入部員の紹介を兼ねたOB戦が行われる。毎年若いOBと現役の間で試合を行っていたが、この年のOB戦はクラブ創立15周年ということで、イベントを行うことになった。内容はオール姫工大VSオール神戸大で、姫路市の手柄山にある陸上競技場で開催されることになった。大学から届いたOB戦の通知には選手として参加した場合は記念にユニフォームを配布するとあり、若手のOBたちはこぞって参加した。

 ところで、この年の神戸大学は1部2年目でかなり実力があるというもっぱらの評判だった。特にこの試合はオール神戸大といってもほとんどが現役であり、古いOBの間にはボロボロに負けてしまうのではないかと心配していた人もいたと試合後に聞いた。私は実のところ、そんなに完璧にやられるとは思っていなかった。

 というのも、我々がリーグ戦でいわゆる強豪校に歯が立たないのは、多分に部員数が少ない(20名前後)ことによるものであり、若いOBが集まり人数的に見劣りしなければ、そう簡単にやられるものかという思いがあった。

 当日の試合は姫工大のキックオフで開始され、私はCBとQBで先発した。予想したとおり、さすがに工大もメンバーが揃えばそれなりに力はあり、決して神戸大にひけをとるものではなかった。私自身はウエートトレーニングにより、現役時代よりもパスの力がついてきており、この試合はラインのプロテクションも良く、本当にパスが良く通った。

 試合は工大が先に点をあげた。私からWR露木へのコーナーパターンのTDパスによるもので、サイドラインぎりぎりのエンドゾーン内で露木がパスをキャッチした。私はアウトオブバウンズではないかな、と思ったがTDだった。確かPATは失敗し、神戸大学がその後TDをあげ(PAT成功)、前半は6−7で終わったと思う。私は後半は後輩に譲り、サイドラインから見ていた。工大の得点は露木のTDのみで、試合は結局6−21ぐらいで負けたと思うが、「メンバーさえ揃えばうちの大学もそんなに弱いことはないのにな」というのが感想だった。

 試合後にシャワー室で神戸大QBの上田君が私に声をかけ、「やー。前半が終了したときには正直ビビリましたよ」と言ったのを聞いた時は、「フッフッフッ...。」という気持ちだった。この上田君は4年生の時ライスボウルにも出場しており(昔のライスボウルは東西学生オールスター戦だった)、オプションもこなせば、パスも投げまくる素晴らしいQBだった。そんな彼に、こんな発言をさせただけでも何となく嬉しかった。

 この時以来、工大のフットボール部に大きなイベントはないが、確か来年は35周年である。部員も今では40名ぐらいに膨れ上がっており、コーチ陣もしっかりしている。来年のOB戦は2部昇格を祝う35周年イベントとなってもらいたいものだ。

 
1981年秋
 社会人になって2年目のシーズン。当時のホワイトベアーズは人数も少なく、はっきり言って弱かった。そんなシーズンの秋も深まった11月の試合。港区にある稲永公園サッカー場に集まったメンバーは10人。アメフトは基本的にラインが7名いれば試合はでき、10人でも試合はできる。しかしながら、10人で出ずっぱりはハッキリ言って辛い。11人で交代メンバー無しでもたまらんのに、10人では地獄である。その日は11月の初めだというのに真冬の様に寒い日で、しかも10人である。正直言って帰りたかったが、そうはいっても仕方なく、試合をすることになった。

 この試合、私は会社の同期で大学在学中にはボート部のキャプテンを務め、全日本のチャンピオンにもなったことのある藤垣を連れていった。彼はその頃まだ会社のボート部の現役で、身長185センチ位、体重は80kgを軽く超えていた。彼は一見、牛のような感じで(決して鈍いという訳ではない)、デーンとしていた。

 彼を見て、監督の森さんは「おい、あいつなんとかならんか」と私に言った(と、思う)。ここからは、ご想像のとおりである。とにかく何もしなくても、そこにセットするだけで良いからということで、藤垣は防具を身につけることになった。彼がフットボールの防具に身を包んだのはこの時が最初で最後である。オフェンス・ディフェンスともにラインに入り、特にディフェンスではNGに入った。彼は体がでかく、力もあり、いるだけでそれだけの価値はあった。試合は人数の割には善戦したが負けた。試合後の藤垣の感想は「何もよく分からなかったけど、とにかく痛かった」だったと思う。

 このシーズンはメンバーが集まらず、学生時代はQBしかやったことがなかった私が、攻守に出ずっぱりの時もあった。それも、ひどい時には、QBとMLBで。QBとOLBはオフェンス、ディフェンスで大体真中のチョット後ろにセットすることから、試合の最後の方になるとオフェンスだったか、ディフェンスだったか訳がわからなくなってしまうこともあった。今考えてみれば、本当に元気だった。

 
1982年夏
 この年の8月。私は転勤で大垣勤務となった。大垣は岐阜県の西に位置している。当時ホワイト・ベアーズの練習は名古屋市の中心部白川公園で行っていた。それまでは、名東区の寮から約30分で練習に行けたのが、転勤後は片道1時間半の距離となってしまった。今の静岡Falconsでは浜松から静岡まで練習に来ているメンバーもいるが、大垣から名古屋も同じ様な距離だ。当時は若かったから苦にならなかったものの、Falconsの中には40歳になっても浜松から毎週のように静岡まで練習にきているオジさんもおり恐れ入る。

 この年のことははっきり覚えていないが、この頃のメンバーに今村君という印象深いRBがいた。彼は確か福井県の武生市の造り酒屋のせがれで、高校卒業後に名古屋に出てきて、ホワイトベア−ズに参加した。彼は高校時代当然のことながらフットボールをプレーしたことはなかったが、半年も練習するうちにあっという間に上手くなった。半年と言っても週に1回の練習だ。たった、20回かそこらの練習でRB、DB(LBだったかもしれない)を立派にプレーするようになった。

 大学時代に練習は良くサボったが、試合になると活躍した選手で露木という選手のことを書いたが、今村君は彼にも優るほどフットボールのセンスのある選手で攻守に活躍した。彼はその後、84年頃に家を継ぐために福井へ帰っていったが、あの頃のことを思い出すといつも頭に浮かぶ選手である。その後、時々彼のことは思い出すが、消息は知らない。今は、いいお父さんになって酒を造っているのだろうか?

 
1983年秋
 82年から83年にかけては、なぜか新入部員が多かった。それも関東・関西の一部リーグ出身者が数多く入ってきた。法政大学出身でTDオールジャパンのタックル松本、明治大学ガード青山、慶応大学タックル北浦、セーフティ菅谷、神戸大学レシーバー佐渡、大阪体育大学ラインバッカー水野とそうそうたるメンバーが入ってきた。さらに、二部出身の経験者も入ってきてベアーズの戦力は一気に充実した。

 秋のリーグ戦、マイティーマウスとの初戦不戦勝の後、この年はフェニックス(現サイクロンズ)戦まで、全勝で進んだ。特に、それまで勝つことのできなかったトヨタ自動車には20−8と完勝だった。この試合はオフェンス・ディフェンスともトヨタ自動車を圧倒したゲームだった。

 フェニックスとの対戦も、フェニックス先制の後逆転に次ぐ逆転だったが、最終的にはTD1本差位で負けてしまい、この年2位となった。この試合は今考えても十分に勝つことのできる試合であり、負けてしまったことが今でも悔しい。

 この年の最終戦はブルー・エンジェルス(現いそのエンジェルス)戦で、名古屋市の稲永グランドで行われた。試合のどの辺だったか忘れたが、サイドラインに出た後、タックルを左膝に受け負傷した。プレーは完全に終わっており、完全なアフターでむちゃくちゃ腹が立った。あの時にタックルに来たエンジェルスの髭面は忘れない。ケガをした時は大したことはないと思ったのだが、その次のプレーでパスを投げようとした時、左足で踏ん張ることが出来ず、ことの重大さを実感した。

 おかげで、帰りは車のクラッチを踏めずに、高速道路を使って大垣まで帰った。翌日病院へ行くと靱帯損傷で、左膝を固定された。当時、寮のトイレは和式で両手と右足の3点支持。風呂も左足を上げて入らざるをえず、全く大変だった。

 一番困ったのは、このシーズンのSKIをどうするかだった。入社以来始めたSKIに冬の間ははまっており、この年の年末も八方尾根に行く予定になっていた。怪我をしたのが11月の初旬。左膝の固定が解けたのが12月初旬。左足はやっと曲げ始めたばかりで、しゃがむことも出来ずにどうしようかと思ったが、結局ニーブレスとテーピングでSKIに出かけた。このシーズンはこの後も度々SKIに出かけた。今考えれば全くの無茶でとてもできないことだが、まだまだ元気な25歳だった。

 
1984年夏

 この年の8月私は静岡へ転勤となった。元々静岡県出身(御前崎の近くの田舎だが)の私は、学生時代から将来は静岡に帰ってフットボールを続けたいと思っており、タッチダウン誌に載っていた静岡オレンジリーグの連絡先をずっと持っていた。当時のオレンジリーグは静岡Falcons、静岡シーザー、駿河ベイウインズ、富士宮スナークスの4チームで構成されており、転勤で静岡市勤務となった私は、すぐさま静岡Falconsに連絡を入れた。当時26歳の私はもう年寄りの部類かなと思って電話したが、なんてことは無い、一番若いくらいであり、「なんて年寄りだらけのチームなんだ」と思った(今のFalconsに比べたらはるかに平均年齢の若いチームだったが)。

 9月の練習当日。田町のグランドで最初に出会ったのは同じ年にFalconsに入った栗原だった(彼は翌年、NECFalconsに入り、RBとして活躍した)。車の中で「何処へ行けばいいのかな」と思いながら、寝そべっていると「Falconsの方ですか」と彼の方から声を掛けてきた。私は車のシートにユニフォームをかぶせてあり、これでフットボール関係者と彼は判断したらしかった。この後二人で練習場所を見つけ、練習に参加したのだが、なぜか、この栗原との出会いがしっかりと思い出に残っている。

 この年、静岡Falconsには岸山も入った。同じ年に入って今だに一緒にプレーしているのは岸山だけである。今でこそ、渋くなってきた岸山だったが、当時はとても格好良く(今も格好いいが)、同じ会社で一緒に入った伊藤君とともに、試合には女性の応援も連れてきて、とてもうらやましかったのを覚えている。

 
1984年秋

 Falconsでの最初の試合は宿敵ウインズとの試合だった。静岡では1980年から県内4チームでオレンジ・リーグを開催していたが、この年までFalconsは優勝したことがなかった。1984年は富士宮スナークスと静岡シーザーの2チームが休部状態となり、実質的にはFalconsとウインズの一騎打ちとなった(と聞いている)。

 この試合は、QB鈴木貞さんのランとパスで1Qにあげた2本のTDを守りきり、14−0でFalconsが完勝した。この年のFalconsには休部状態となったシーザーからのメンバーと、私をはじめ数人の新メンバーが加わり、戦力的には大幅にアップした(ようだった)。この試合はビデオに撮ってあり、見直してみても、新しいメンバーがたくさん入っている。この中でもCB岸山は鋭いランカバーを見せていたし、シーザーからFalconsに移った山本さんは攻守にハツラツとしていた。

 また、今はもう50歳を超してしまった萩沢さんも、当時はRBとして元気に走り回っており、小田巻さん、小野寺さんといった懐かしいメンバーも元気にプレーしている(おっと、トミさんがタックルに入ってましたね)。もっと驚くのは、この中の私をはじめ、岸山、岡本、大村さんはまだ現役を続けていることだ(最近大村さん見かけませんけど)。当時のビデオを見ると4人ともいい動きをしてる。「俺もまだいい動きしてたよなあ」と改めて感じる。

 私は新品の8番のユニフォームを着てOLBで出場していたが、いい突っ込みをした時もあれば、綺麗にブロックされたりとムラの多いディフェンスをしていた。この試合をはじめ、卒業してからは色々なポジションをしており、ディフェンスをプレーすることは、この後にQBとしてプレーをするのにも役立った。アメリカの子供達は小さい頃からフットボールに触れており、学校に入ってプレーをする前に、遊びの中で色々なポジションをプレーすることで、知らない間にフットボールのセンスに磨きがかかるのだろうなと、つくづく思う。

 少しでも多くの人がフットボールというものに触れる機会を増やし、日本のフットボールの底辺を増やすためにも、大学やXリーグのチームだけでなく、各地のプライベートチームにも頑張って欲しいと思う(少し大げさかもしれないが)。