| 1985年春 |
| 当時のFalconsは春に千葉のドランカー・エンジェルと東京のホワイト・ドルフィンズの2チームと定期戦を行っていた。ドランカー・エンジェルは明治大学OBで甲子園ボウルにも出場したQB桜田さんの所属するチームで、1年おきに静岡と千葉で試合を行っていた。また、ホワイト・ドルフィンズは日大桜ヶ丘高校OB中心のチームで、毎年春に行われる東海大学海洋学部のOB戦に合わせて、清水で試合を行っていた。 この年のドランカー・エンジェルスとの試合は千葉で行われた。当日は降りしきる雨の中観光バスをチャーターして朝早くから千葉県の筑波の近くに向かった。そう言えば行きのバスの中、同志社OBの川上は首都高を走っている時、東京タワーが見えたと大騒ぎをしていた(彼は関西出身で東京を通るのも初めてだった)。 試合は土砂降りの雨の中で行われ、確か6−0で負けてしまった。とにかくひどい雨で、パスを投げるのにも一苦労したことと、決まったと思ったTDパスをWRに入った鈴木貞さん(だったと思う。)がポロッと落としたのが印象に残っている。 ドランカー・エンジェルスとの試合の後は、親睦の意味を兼ねて毎年懇親会が行われており、この試合の後は、グランド横の公民館で親睦会が開かれた。ここですっかり出来あがってしまったFalconsの帰りのバスは、歌は出るは、服を脱ぐヤツは出るは大騒ぎだった(某大学キャプテンだった青木だったよね。洗濯屋の歌を歌いながら服を脱いでいったのは?)。ハチャメチャで楽しい遠征だった。 ホワイト・ドルフィンズとの試合はボロ負けだったと思う。当時QBに入っていた#9の方(井上さん?)はメチャクチャ足が速い上に、パスも上手くボロボロにやられてしまった。みんながフットボールを良く知っていて本当に強いチームだった。アメルカンフットボールマガジンの1978年4月号にホワイト・ドルフィンズの記事が載っており、77年のシーズンは関東社会人リーグでシルバースターに次ぐ2位だったということだから、8年後の85年も強くて当たり前だったかもしれない。 ホワイト・ドルフィンズにFalconsが初めて勝ったのは7年後の92年で、この時もやっと勝てたという状況だった。長い間プライベートでプレーをしているが、当時のホワイト・ドルフィンズ程強いチームには、未だお目にかかった事がない。 この2チームとの試合はその後もしばらく続いたが、ドランカー・エンジェルスはチームが2つに分かれ、その後定期戦は途絶えてしまった。また、ホワイト・ドルフィンズとの定期戦も、次第にホワイト・ドルフィンズのメンバーが少なくなり、距離的にも離れていることもあってか90年代に途絶えてしまった。 毎年春には楽しみにしていた、こういった遠くに離れたチームとの定期戦が途絶えてしまったのは寂しい限りである。 |
| 1986年冬 |
| 85年のオレンジリーグは富士宮スナークスのメンバーが足りなく、スクリーメージの形となり、前年に引き続き駿河ベイ・ウインズとの一騎打ちとなった。この試合、私はQBで出場したが、試合の方は僅少差で負けてしまったと記憶している。確か富士宮のグランドで行い、その日センターの青木が私より若いということが分かり、青木の言葉遣いが急に変わったというしょうもないこと位しか記憶にない(まったくつまんないことを良く覚えている)。 そして次の年の2月、私は再び名古屋へ転勤になってしまい、静岡を離れることになった。しかしながら、静岡県出身の私としては、やはり静岡にフランチャイズを置きたいという気持ちがあり、試合があれば静岡に戻るような状況で、古巣のホワイトベア−ズに戻った。 今度の職場はとんでもなく忙しい職場で、平日は夜12時前に終われば良い方、土日も出勤という状況だった。そんな中、日曜日だけは唯一午後から出勤という状況で、3月から始まったホワイトベア−ズの練習には何とか参加することが出来た。 日曜日は眠い目をこすりながら練習に行き、そのまま午後から会社へ出勤するという生活が続いた。職場の上司や先輩はみな同じ社宅に住んでおり、私の寮と同じ方面だったことから、帰りは私の車でということもたまにはあったが、車の中で上司に「汗臭い車だなあ、マッタク」と言われたのを思い出す。 今でこそ、笑い話の様に話す事が出来るが、「何でこんなに忙しい職場に来てしまったんだろう」と、当時は転勤を呪っていた。 |
| 1986年春 |
| 忙しい名古屋の生活を送っている時に、Falconsから声がかかった。毎年春に行われているドランカー・エンジェルスとの定期戦を静岡でやるから来いというのだ。毎日、クソ忙しくて、フツフツしていた私は静岡に飛んで行った。前の年に雨の中で敗れたFalconsとしては地元静岡で雪辱を果たしたいところであったし、また、エンジェルスも連勝しようとバスを1台貸切り、大人数で乗り込んできた。
この試合の様子はエンジェルスの方がビデオに撮ってくれ、そのダビングしたものが手元にある。Falconsもこの試合は沢山のメンバーが集まりなかなかのものだった。特に岸山がガンガンに元気で、オフェンス・ディフェンスとも大活躍をしていた。今では少し枯れ加減だが、このビデオを見れば彼の凄さが分かると思う。
あとで聞くところによると、アリゾナ大かどこかでプレイしていたQBで、NFLにドラフトされたうんぬんという話だった。どこで、どう見つけてきて試合に参加させたのかは分からないが、やっぱり動きがちょっと違っていた。当たり前と言えば、当たり前だが。 ところで、この試合前の練習の時、肩が何となく痛かったのを覚えている。試合中は忘れてしまっていたが、練習の時はかなり痛かった。そして、この痛みが年を増す毎にだんだんと激しくなり、遠投力も落ちていった。思えば、この頃が私の肩のピークだった。 |
| 1986年秋 |
| この年の秋、私は再び転勤になってしまった。今度の転勤は東京都府中市。某電気メーカーに10ヶ月の期限付きの出向だった。転勤が決まり、ホワイトベアーズのメンバーにもそのことを話した。そして、転勤の準備をしている最中、会社に一本の電話があった。 「東京へ転勤と聞いたけど、ピンク・パンサーでやらない?」という電話だった。電話の主は法政大学のOBで数年間ホワイトベアーズでプレイした安池さんだった。安池さんは私よりも少し前に東京に転勤(?)し、RFL(リバーサイド・フットボールリーグ)のピンクパンサーで、確か1年前からプレイをしていた。 ピンクパンサーには法政OBのQB(名前は忘れてしまった)がいたのだが、転勤で異動してしまい、QBがいなくて困っていたところだった。ちょうどそんな時に私の異動の話を聞いて、安池さんが直ぐに電話をしてきたらしかった。安池さんの電話にふたつ返事で答え、東京の寮も決まる前からフットボールのチームだけは見つけることが出来た。 ピンクパンサーは法政ニ高が全国大会で準優勝をした時のOBが中心に作ったチームで、主力は私と同年代だった(27,8歳だったか)。前の年、RFLで初優勝を飾り、優勝キャップをみんなが持っていたのを思いだす。練習は多摩川のグランドで毎週日曜日に行っていたが、まあ、練習の嫌いなチームで、まともにメンバーが集まったことは無かった。訳の分からない東京の道を、地図を片手に車を運転し、やっと多摩川まで行ったのに数人しかいないということが、ざらだった。 私が東京に赴任したのは10月で、確かその頃にはリーグ戦が終わり、上位チームによる決勝トーナメントに入っていた。あまり記憶は無いのだが、準決勝の試合から出場し、その試合は負けてしまい(結構惜しい試合だった気がするが)、3位決定戦に出ることとなった。 3位決定戦の相手はウラワ−ズで、この試合は、終盤に私から安池さん(本職はCBだったが、WRもやっていた)にTDパスがとおり同点となった。そして、まあ、引分けでもいいかなんて思いながら最後に投げたパスがTDパスになり、劇的な幕切れとなった。 この試合では静岡Falconsで一緒にプレイしていたDEの森下が、東京にいるということで試合に呼んだが、二日酔いで全く役に立たなかった。いつも二日酔いでFalconsの練習に来ていた森下らしい話である。 この年のピンクパンサーの忘年会。渋谷のスナックかどこかでやったが、みんな朝まで飲むぞ〜。といって言っていたのに、一人帰り、二人帰り、最後は仕方無しにカプセルホテルに泊まった。パンサーの連中は、面白い連中が多かったけど、ひどくいい加減でもあった。 |
| 1987年春 |
| ピンクパンサーは春の東日本プライベート・フットボールトーナメント(正式名称は忘れた)に出場した。1回戦で江戸川フットボールリーグのスコルピオンと対戦したが完敗だったと思う。スコルピオンはその後かなり勝ち進んでおり、決してピンクパンサーが弱かった訳では無い。 この試合、試合開始3プレー目位、ブラストのハンドオフをした後だったのか、RBがプレーを間違えて仕方無しにボールをキープした時だったのかは忘れたが、CBのブリッツがあり、きつーいタックルを受けた。背中に激痛が走り息が出来ないほどだったが、他にQBはいなく、そのままプレーを続けた。さらに試合の中盤でパスプレーの時、同じ場所にもう一発痛いタックルを受けた。 結局試合終了までプレイは続けたが、寮に帰るまでの間痛みは収まらず(酒を飲んで麻痺したためか、少しは楽になったが)、帰ってからも寝返りも出来ない様な状態だった。翌日以降も痛みは収まらず、研修先の職場へ出勤しても凝ったような痛みが残った。あまりに痛いので職場の若い奴に背中を揉んでもらい「う〜ん、そこ、気持ちいい」なんて言ってたら、「背中、何かへこんでるよ」と言われた。仮にも研修中の身である。「何か、ヤバイかな」と思い、慌てて病院へ行った。 結果はあばら骨の付け根の部分3本の骨折だった。やっぱり痛かったはずである。それにしても研修中で骨折はまずい。ばれたら上司に何言われるか分かったもんじゃない。まあ、厳しいと言うかうるさい上司だったし。とにかく、ここは研修先のメンバーも含め、全員に口止めをし、結局は上司に黙って通した。最終的に痛みは1週間ほどで引き、今では研修中の笑い話のひとつになっているが、あの時はマジだった。 その後、名古屋へ戻り結婚した後も、酔っ払って自転車でコケ、眉毛の上を3針縫い夜中に救急病院に飛んで行くなど、フットボールに限らずケガはついて廻った。酔っ払ってコケた時は、単身赴任中で保険証のありかがわからずに嫁さんの実家に電話したのだが、何を言っているのかわからないような状態だったらしく、嫁さんの両親にまで笑われまくった。幸い救急病院の先生の裁縫が上手く、今では綺麗になっている。 |
| 1987年秋 |
| 87年の8月に名古屋へ戻った私は再びホワイトベア-スに加わった。職場は前と同じで相変わらず忙しかったが、転勤前にいた鬼のような上司(仕事以外ではとてもいい人だが)は少し前の7月に転勤になっており、東京に行く前に比べたら幾分楽になっていた。もっとも、仕事の内容が分かって来て、要領が良くなって来ていたのかもしれなかった。 この頃のことは、あまり記憶に無いのだが手元にある東海学生・社会人のメンバー表から記憶をたどってみた。この年の東海社会人はホワイトベアーズの他に、エンジェルス、ブルータス、三重ファイアーバードが参加しており、東海社会人でいつも上位を争っていたサイクロンズとトヨタ自動車は関西社会人に参加していた。 ちょっと前だったら、この4チームの中ではホワイトベアーズが優勝できていたと思うが、この頃エンジェルスがメンバーを集め力を蓄えてきていた。確かこのシーズンはエンジェルスが優勝し、ホワイトベアーズは2位か3位ではなかったかと思う。仕事も忙しく、QBも横井君にほとんど任せていたことから、どうもハッキリ覚えていない。 そんな記憶に無いシーズンだったが、このシーズンで何となく印象に残っているのは、東京のピンクパンサーにいた国分の弟のことだ。兄貴の方はピンクパンサーでRBをやっており、弟はホワイトベアーズでWRをやっていた。雨の中でボロ負けだったエンジェルスとの試合で、泥まみれになりながら国分に通したスラントインのパスのシーンを妙にハッキリ覚えている。稲枝公園サッカー場は雨が降ると泥だらけで、鶴舞公園と同様に田んぼのようなグランドだった。 そう言えば、メンバー表のエンジェルスのQBに#12伊藤という名前が載っているが、この頃は#3梶川君がQBを努め、伊藤君を見ることはほとんど無かった。伊藤君は確か滋賀の虎姫高校かどこかでQBをプレイしていて、高校卒業後にエンジェルスを作ったと記憶している(日大に誘われたようなことも言っていた)。 ホワイトベアーズに入ったばかりの頃、エンジェルスはまだ出来たばかりで、ハッキリいってカッコばかりのチームという感じだったが(すいません、そう感じてました)、伊藤君はパスが上手かったのを覚えている。最初の2、3年は彼を見たが、段々と仕事が忙しくなったらしく、徐々に顔を見なくなった。87年のメンバー表にも名前は載っていたが、秋のシーズン中に一度も顔を見ることはなかった。 気さくで、明るく、そして上手なQBで、チームは違ったが、彼のことが何となく気に入っていた。彼は今どうしているのだろうか。確かあの頃はホテルマンだったと思うが。 |
| 1988年春 |
| 88年春(だったと思うが)、西日本社会人フットボールトーナメントの1回戦でエンジェルスに勝ったホワイトベアーズは、2回戦の相手関西リーグのシルバータイガーズ(当時桃山学院のOBが中心のチームで、当時、確か関西社会人の一部だったと思う)と長居陸上競技場で対戦した。 長居陸上競技場は人工芝で、試合前にシューズをどうするかで考えてしまった。今まで天然芝の上でプレイしたことはあるが、人工芝の上で試合をやるのは初めてである。噂ではスニーカーが良いとか、ジョギングシューズが良いだとか、チームの中でも色んな意見が飛び交った。結果として私は名東区にあるディスカウントショップで、韓国製の裏に小さいボツボツのあるゴム底のシューズを2000円くらいで買った。どうせ、人工芝の上でやることは無いだろうと、目一杯安いヤツにした。
試合は予想通りボロ負けだった。ベアーズに戻ってきたばかりでQBは横井君が先発したが、途中から私がリリーフした。パスが1,2本通った記憶はあるが良く覚えていない。それよりも、やたらとストップが効き、こけると腕に火傷をする人工芝がこの時嫌いになった事の方が記憶に残っている。人工芝は見る人と管理する人のためのものであって、決してプレイヤーのためではないと感じた。 この試合で、ベアーズに何処かで見たことがある選手がいた。なぜ、記憶にあったかというと、前年の春ピンクパンサーにいた時、春のトーナメントで対戦したスコルピオンにいた選手だったからだ。スクリーメージについた時、QBからLBの顔は見ることができる。スコルピオンのLBだった選手は堀君という選手で、日体大のヘルメットをかぶった上手い選手だったことから、顔まで良く覚えていた。まさか、転勤して、同じチームでプレイするとは思わなかった。 プライベートでフットボールをやりながら、あちこちのチームを渡り歩くと、いろんな選手に再会することがある。これも、長い間フットボールをプレイしていて面白い所だ。 |
| 1988年夏 |
88年初夏、ついに年貢の納め時が来た。と言うか、自分で決めた訳だが、30歳を迎え、ついに結婚することになった。相手はもちろん今の嫁さん。 結婚式は静岡駅前の旧日興会館で、6月4日に行った。何を隠そう、88年6月4日。8×8=64でゴロも良かったこともありこの日を選んだ。お日柄も良かったはずだが、やっぱり、8×8=64というのが気に入った。何といっても結婚記念日を覚えやすい。 当日は大学時代のフットボール部の同期だけでなく、2次会には静岡Falconsのメンバーにも来てもらった。この中で、披露宴に出席していただいたFalcons監督萩沢さんの一言が、結婚後もフットボールを続ける上で非常に重要な一言になった。 披露宴の中で萩沢さんは「結婚してからも、是非フットボールを続けて下さい」と言ってくれた。当然、酔っ払いだらけの披露宴の中で異論は出るはずも無く、私はこれからもフットボールを続けることが、大勢の前で承認されたものと勝手に理解した。今でもフットボールの練習に行く時、嫁さんは時々嫌そうな顔をすることもある。しかし、あの言葉を覚えているのか、どうせ言っても無駄だとあきらめているのか、幸いなことに私はフットボールを続けている。 話を結婚式当時に戻そう。新婚旅行はアメリカ西海岸とハワイだった。嫁さんは学生時代にアメリカに2度行っており、もう一度行きたがっていた。私の頭の中には、当然のことながら、当時LAにフランチャイズをおいていたRaidersのことがあり、話は直ぐにまとまった。 この頃はモンタナの活躍でSFの人気が非常に高かった時期で、ついついモンタナのTシャツも買ってしまったが、しっかりRaidersのスタジャンを購入した。嫁さんには、無理やりラムズ(当時はLAラムズ)の子供用スタジャンとダラスのエースRBハーシェル・ウォーカーのTシャツを買わせた。ラムズはそこそこ勝つものの、スーパーを制するチームになるなんて、この時は思ってもみなかった。 何処で買ったのかはあまり記憶に無いが、多分ファーマーズ・マーケットの中にあったスポーツショップだったと思う。日本のように買ったものを綺麗に包んでくれる訳ではなく、その日はスタジャンとTシャツ、その他を大きな透明のビニール袋の中に入れ、サンタクロースの様にかついで、LAの街の中を歩き回った。 あの頃買ったスタジャンは、まだ現役である。モンタナのTシャツとウォーカーのTシャツは今でも夏の室内着として毎年登場する。嫁さんのTシャツのプリントはしっかりしているが、私のTシャツのプリントはボロボロである。あれからもうすぐ13年になる。ラムズはスーパーを制し、Raidersは未だにスーパーにも出場していない。 2001.5.30 |
| 1988年秋 |
| 結婚して初めての秋のシーズン。相変わらず仕事は忙しく、その日のうちに家に帰ればいい様な日々が続いた。フットボールは続けていたが、9月の下旬に大きな事件が起こった。嫁さんが病気に掛かってしまい入院が必要になってしまったのだ。 実家を離れて見も知らぬ土地に来た嫁さんにとって、毎日遅く帰って来て、日曜日にはフットボールに行ってしまう私はどんなに写っていただろう。病気にさせたのは自分の責任ではなかったかと思う。今考えると、自分勝手で本当に申し訳無いことをしてしまったと反省している(それでもフットボールを続けているということは、懲りていないとも言えるが)。 結局嫁さんは実家のある静岡で入院することとなり、私はいきなり単身赴任の状況になってしまった。毎週、静岡にある嫁さんの実家に帰ることになったが、それに伴い名古屋でのフットボールはできなくなってしまった。ところが、毎週嫁さんの実家から病院へ面会に行ったとしても、どうしても時間は余ってしまう。そんなことから、再び静岡Falconsでプレイを続けることとなった。 この頃のFalconsはメンバーが少なく大変な時期だったと思う。確か、静岡に帰って来て始めて練習を見に行こうと萩沢さんに電話をしたら、「東海大学海洋学部と試合をするから、大学のグランドに来てくれ」と言われた。とりあえず、見学をするつもりだったが、一応防具は持ってグランドに出掛けた。 当日グランドに行って見るとびっくり。メンバーが10人しかいなく、しかもQBが来ていない。当然のことながら「QBをやれ」ということになり、いきなり試合に出ることになった。入院の準備やら何やらでしばらく練習を休んでいたが、仕方無しに両面で試合に出た。得点は覚えていないが試合には勝った(TDパスも投げたような記憶がある)。 このシーズンは結局Falconsで過ごしたが、余り記憶に無い。嫁さんの見舞いの思い出が多く、フットボールの記憶はこの試合のことだけである。ひょっとするとこの記憶も、翌年春の記憶だったかもしれないほど曖昧だ。 嫁さんの実家では男の子がいなかったことから、酒を飲む相手が出来たとオヤジさんには喜ばれたりしたが、嫁さんを病気にしてしまって本当に申し訳無かった。そう思いながらもこの秋はずっとフットボールを続けたし、冬にはSKIまで行ってしまっていた私はとんでもないヤツだったに違いない。 今でも恐妻家で、嫁さんには頭が上がらないというのは、この時に始まった。そして、この状態は一生続くものと思っている。それでも、嫁さんにとってはお釣りが来るくらいだろう。 2001.6.23 |
| 1989年春 |
年末に嫁さんは退院し、自宅療養した後、確か5月位に名古屋に戻ってきた。それに伴って再びホワイトベアーズの練習に参加した。ただ、嫁さんが病み上がりだったこともあり、この頃はそんなに精力的にフットボールをできる状態ではなかった。 その所為かもしれないが、この頃の記憶はあまりハッキリしない。手元にある1989年東海学生・社会人ROSTERにある大阪府立大学出身の山本君というWRの名前を見て、大体どんな活動をしていたのか思い出した。春の印象に残っているのはトヨタ自動車との試合だ。 この年の春、当時関西社会人リーグに行っていたトヨタから練習試合を申し込まれ、我々はトヨタスポーツセンターまで出かけた。トヨタは春の調整のつもりで我々を相手に選んだのだと思う。前の年のベアーズがどんな成績だったか記憶に無いが、そんなに強くは無かったと思う。試合に出掛ける時、私も「まあ、トヨタには勝てないだろうな」なんて思っていた。 ところがこの試合、やたらと私のパスは良く決まった。特に山本君にはパスが良く通り(彼のナイスキャッチに助けられたパスもあったと思うが)、オフェンスがガンガン進む。そして、山本君へのTDパス含め、2、3本のTDパスを決めたような記憶がある。こうなるとベアーズには勢いがあり、途中から出たQB横井君のパスも良く決まり、試合はベアーズの快勝だった。 私達は試合後に一緒に試合のビデオを見せてもらう予定だった。しかし、トヨタは急きょミーティングをやることとなり、結局このビデオは見ずに終わってしまった。トヨタとしては軽い調整のつもりで望んだのが、思わぬ敗戦にかなりナーバスになっているようだった。そりゃあそうだろう。私だってまさか勝つとは思っていなかったんだから。 他にもいろいろなことがあったのかもしれないが、思い出すことができるのはこの試合だけだ。当時、まだ仕事も忙しく、嫁さんも病み上がりと、廻りを取り巻く状況がかなり悪く、オチオチとフットボールをやっている状況ではなかった。フットボールを続けられただけでも幸せだったかもしれない。 2002.2.27 |
| 1989年秋・冬 |
| どういう訳かこの頃の記憶はほとんど無い。嫁さんが名古屋に戻ってきたもののあまり調子が良くなく、フットボールにもあまり参加していなかったのではないかと思う。 当然のことながらQBがいつも練習に参加出来ないと迷惑を掛けてしまう。ホワイトベアーズでDEのポジションに入りプレイし始めたのはこの頃からではなかったかと思う。たしかこのシーズンは、ほとんど試合にも出なかったかもしれない。 手元に当時の手帳でもあれば何をやっていたのか想像がつくというものだが、手帳も無ければ写真も無い。仕事は忙しかったはずだし、きっとつまらない日々を送っていたに違いない。この頃、私のフットボール人生にとっては冬の時代だった。 ただ、フットボールに対する情熱だけは失ってなかったはずだ。会社の連中とSKIに行き、近くの女性を家まで送って帰る途中、車を運転しながら「僕は30歳までフットボールを続けてきた。30歳になったらフットボールから引退するかなと思っていたが、今も続けている。今度は35歳までを目標に続けたい。そして、35歳でまだプレイ出来る様だったら、次は40歳までを目標にしたい」というような事を喋った記憶がある。 そう言えば、NHK-BSの受信機を購入したのは89年のことだった。当時無料放送だったBSでNFLの放送があることを知ったのは前の年で、89年シーズンは居ても立ってもいられずに購入してしまった。 当時のNFL中継は3時間枠で全プレイを放送してくれた。スタジオも手作りという感じで素朴な感じがしたし、大塚アナウンサーと後藤定夫さんのお笑いコンビの中継を観るのが楽しみだった。久し振りにみるNFLの放送はとても新鮮で楽しかったという記憶がある。 2002.3.22 |