| 1990年夏 |
| 1990年の夏、ホワイトベアーズの飲み会が名古屋城の北側の小さな店であった。この時僕は32歳。今考えるとまだまだ若かったのだが、当時のホワイトベアーズには若い連中が多く、何となく違和感を感じたのを覚えている。 この飲み会では若い連中が、まだまだ僕のクォーターバッキングの方が当時まだ若かった横井君のクォーターバッキングよりも良い、と言ってくれたりはした。しかし、嫁さんが病気をした事で結婚前に比べて遥かに練習に参加する回数が減ってしまったこともあって、「そろそろ若い連中の時代なのかなあ」と思ったりした。 そんな飲み会の後、シーズンが始まる秋に、僕は嫁さんの療養のため静岡市内にアパートを借りることとした。そして、名古屋への単身赴任の生活が始まった僕は、当然のことながら毎週末には静岡に帰る生活となり、実質的にホワイトベアーズでの活動は、この飲み会が最後となってしまった。 ホワイトベアーズには1980年から約10年間、転勤でチームを離れた事もあったが、お世話になった。チーム内には大学の派閥も無く自由で良い雰囲気のチームだった。 僕がチームを抜けた後、ホワイトベアーズは東海社会人リーグで活動していた。しかし、東海社会人リーグのチームが関西社会人リーグ(後のXリーグWest)へ徐々に移り、ホワイトベアーズも最終的に関西社会人リーグに参加することになった。しかし、ここで思うように白星を上げられなかったことから士気が低下し、昨年度(2001年度)ついに活動を休止してしまった。 監督の森さんがチームを作ったのは1975年。最初のユニフォームは確か、森さんの好きだったグリーンベイ・パッカーズと同じデザインだった。誰よりもフットボールを愛し、チームのために私財まで注ぎ込んでいた森さんにとって、ホワイトベアーズが活動を休止してしまったことはどんなに辛い事だろう。長い間チームをまとめてきた横井兄弟の気持ちも推し測ることが出来る。 1991年から僕はずっと静岡Falconsで活動している。このチームも1975年に創立し、ホワイトベアーズと同じ様に自由で、かつ、いろいろな年代のメンバーが集まっていて楽しい。でも僕にとってホワイトベアーズというチームも決して忘れることの出来ないチームだ。 チームを離れて10年も経ってしまった今、どんな事情があるかは知らない。でも、森さんが情熱を傾けて作ったチームをこのまま終わらせないで欲しい。もう一度みんなで集まってホワイトベアーズを復活させて欲しい。頑張れベアーズ! 2002.4.18 |
| 1991年冬・春 |
| 1991年のスーパーボウルはタンパ・スタジアムでのNYJとバッファローの試合だった。この試合は長野県の湯田中温泉のTVで観た。一緒に行った連中はSKIに出掛けたが、さすがにスーパーボウルを観ずにSKIをしようとは思わなかった。 この冬、AFCチャンピオンシップではRaidersがバッファローに歴史的敗退をした。実はこの試合も、翌週に行われたTV放送を長野県の志賀高原、高天原SKI場のホテルで観ていた。ということは、単身赴任をしながら、SKIだけはしっかり行っていたことになる。 この冬は、なんだかんだ言いながら、月に一度くらいはSKIに行っていたんじゃ無いかと思う。考えてみれば、病気療養中の嫁さんを、実家が近いからとはいえ放かっておき、自分の遊びのために静岡に帰らないんだから、薄情なダンナだ。 それでも、春になるそんな暢気なことはしていられなくなった。嫁さんの病気がなかなか良くならず、右肺の上半分を切除することとなったのだ。手術したのは確か春分の日の頃。5時間に及ぶ手術の後、麻酔から醒めた嫁さんは痛みで一晩中唸っていた。徹夜で付き添いをした翌日、嫁さんの実家に帰り、アサヒスーパードライを1本クウーッとやって、バタン・キューだったのを覚えている。 嫁さんは4月初めに退院し、単身赴任を開始した時に借りたNHK横の小さなアパートに戻った。名古屋と静岡の生活で、静岡には車を置く場所も無く、この春はフットボールの練習にもあまり参加した記憶が無い。近くの浅間神社への参道にある商店街を二人でよく散歩していたのを思い出す。 今考えてみると、一番大変だった時かもしれない。でも、6帖二間の小さなアパートで過ごす週末には、どこか侘しいようで、楽しいような、懐かしさがあった。なんとなく、“神田川”という曲みたいな生活だった。 2002.7.7 |
| 1991年夏・秋 |
| この年の夏、僕は管理職になった。そして静岡への転勤。名古屋と静岡を往復する単身赴任生活は約半年で終わった。嫁さんは中々元気にはならなかったが、僕はまた、静岡Falconsの練習に顔を出すようになった。フットボールをやらないことで僕がイライラすることが分かって、嫁さんは僕がフットボールに行くのを許してくれたのだと思う。 この頃のことは中々思い出せずにいたが、手元に12月1日に浜岡総合グランドで行われたホワイトベアーズとの試合のビデオがあり、このビデオを観ているうちに当時のメンバーを思い出し、段々と記憶が蘇ってきた。静岡に戻って、僕はかなりまじめにフットボールに取り組んでいた。 ビデオは明治大OBの石井さんの知り合いが映してくれたもので、Falconsの試合には珍しくサイドラインに女性が多い。当時、石井さんが開いたDOTCOOLというショットバーに静岡Falconsの連中はよく集まり、酒を飲んではフットボールの話をしていた。そして、この試合にはまだ選手としても試合に出ていた石井さんの応援に、お店のお客さんや関係者の女性までが来ていたのだ。 試合を観ているとWRの藤本やCBの山田がいる。藤本は京都産業大学のOB、山田は中央大学のOBで当時のFalconsを良くまとめてくれた。彼らはその後2,3年の内にそれぞれ転勤になってしまい、残念だったのを覚えている。それにしても、藤本はこの試合、僕のロングパスをあと一歩のところでよく落としてくれた。 そしてこの試合ではBBSによく書き込んでくれる大根坊主さんの教え子飯田君がRB/Rとして良い動きを見せている。飯田君は今でも時々試合には顔を出すが、この頃はスピードとパワーを備えた素晴らしい選手だった。彼は和光大学だったと思ったが、恐らく関東の一部校に進んでいても活躍できたのではないかと思う。それほど運動能力が優れた選手だった。 もうひとつ思い出すと、当時山中さんという方が参加していた。山中さんは確か磐田から練習に参加しており、フットボールをやりたいという磐田南高校の3選手を連れて、毎週静岡にやってきた。当時の高校生はその後大学に進みフットボールに入ったが、ひとりは途中で止めてしまったようなことを聞く。彼らはその後どうなったのだろうか。 試合は今からおよそ12年前に行われたのだが、現在チームのマネージャーをしている鈴木富さんがセンターに入っている。そして、現在でもプレイしている岸山がCBに、岡本や大村さんがライン入リ元気に頑張っている。今はもうみんな40代(大村さんは50代)になってしまったが、僕も含めみんな元気にハツラツとプレイしている。当時33歳だった僕は、この後3年間位がQBとして一番いい時期だったのではないかと思う(この試合はあまり良い出来ではなかったが)。 2003.2.6 |
| 1992年冬・春 |
| 91年の夏に静岡に転勤になって以来、僕は静岡をずっと離れていない。今まであちこち転勤していたのだが、一箇所に留まったこの頃からの記憶は後先がかなり曖昧になっている。だから、我が家の10大ニュースと手帳、試合のビデオを観なければ何をやっていたのかよく思い出せないというのが実態だ。 92年の冬は相変わらずSKIに行っていた。会社の中で行われる全社SKI大会にも出掛けて行った。確かこの年は岐阜県にある朴の木SKI場で行われたと記憶している。スラロームに出る予定だったが、前日の雨でゲレンデが緩んでしまい危険だということで中止になって、何もせずに帰ってきたのは確かこのシーズンなのではないかと思う。 フットボールの方はと言えば、このシーズンは何故かビデオが沢山ある。春は4月29日にスルガベイ・ウインズ、6月7日に東京のホワイト・ドルフィンズと試合をした。この年の春はメンバーが多かった。 ウインズとの試合は三島高校のグランドで試合をした。風の強い日で、毎プレイごとにグランドからは砂煙が立ち上がっていた。最初からFalconsはウインズを圧倒した。それでも得点は、2Qに相手ファンブルからゴール前で得たチャンスに、八丁堀がエンドゾーンに飛び込んだ1本のみでトライ・フォー・ポイントも失敗してしまった。 1Qの最初にも敵陣10yd付近でターンオーバーから攻撃権を得たが、ここは3本パスを投げて1本も決まらず結局点を入れられなかった。この試合には新人のQBが来たことから、後半の途中から彼に代わり、僕はサイドラインに引っ込んだ。最初のチャンスでTDを上げていれば楽勝だったのだが、結局この試合は最後の最後でTDを奪われ6-6のドローに終わってしまった。
でも、よく考えるとこの頃既に肩を痛めていてパスはあまり飛ばなくなっていた。だから、少しでも早いタイミングで投げようとしていたのかもしれない。ただ、それならもっとスラント系のパスを投げればいいのに、中途半端の深さのパスを、これまた中途半端の深さのドロップバックから投げていた。もし、今の僕が外からこの頃の僕を観ていたら、中途半端すぎるとガンガンに叱るだろう。そんな情けないクォーターバッキングだった。 さて、もうひとつの試合、ホワイト・ドルフィンズとの試合は今でも想い出に残っている。毎年、毎年歯が立たなかったホワイト・ドルフィンズに、静岡Falconsはこの年初めて勝った。 試合内容はと言えば、終始押されっぱなしだった。ドルフィンズのQB井上氏は足も速く肩も強い。ゴール前に何度も攻められながらディフェンス陣が何とか踏ん張って前半を0-0で終了した。 後半になってもドルフィンズ優位は動かなかったが、ディフェンスの頑張りと清水君のパントで何とか凌いでいた。そして4Q、ゴール前からプレッシャーを受けながら投げたドルフィンズ井上氏のパスを敵陣15yd付近でFalconsディフェンスがインターセプトした(これは誰だったのだろう)。 試合を通じて最初で最後のチャンスだと、この時思ったのを今でも覚えている。1st down、まずTDパスを狙ったがオーバースローになった。2nd,3rd downをランで攻めたが5ydという嫌な距離が残った。ここで僕は右にセミスプリント気味に3歩下がり、右WR鈴木(貞)さんにショートポストを投げた(最初からショートパスとだったか、記憶に無いが)。 こいつが決まった。FDだ。最後はゴール前2ydくらいから3度RBに突っ込ませた。そして3度目にRB飯田が思いっきり高くダイブし、ついにTDをあげた。トライ・フォー・ポイントは右のダイブフェイクから、エンドゾーン右奥に走り込んだWRにパスを決めた。8-0、とりあえず1本獲られても負けない得点となった。 トライ・フォー・ポイントが決まった瞬間、僕はサイドラインに向かってさっさと帰っていた。多分この時は、嬉しさ半分、やれやれという気持ち半分だったのではないかと思う。ウィンズ戦に比べこの日はパスを多投した。15,6本は投げているだろう。その内決まったのは7,8本くらいではなかっただろうか。 単発でFDを取れるものの、中々シリーズとしては上手く組み立てられなかった。そんな状態だっただけに、最後のチャンスにTDを決められてホッとしていたに違いない。もちろん、嬉しかったに違いないが。 その後、Falconsはドルフィンズの攻撃をしのぎきり、結局8-0のままゲーム・オーバーとなった。こうして、初めて勝利を収めたホワイト・ドルフィンズとの対戦も、これ以降は無かったのではないかと思う。 翌年は清水まで来てもらったもののメンバーが足りず、こちらからメンバーを貸してスクリーメージのような形でやったのではなかっただろうか。かつて、1977年には関東社会人リーグでシルバースターにつぐ成績を収めたホワイト・ドルフィンズも、90年代中盤には活動を停止してしまったと記憶している。 2004.4.3 |
| 1992年夏・秋 |
| 我が家では年末にその年の10大ニュースを決定する。1992年の10大ニュースを見るとBest5の5番目に3年振りのTDパスを決めたと書かれている。このパスは春のホワイト・ドルフィンズ戦でのTDパスだけだったのか、それとも他の試合でも投げていたのか。 この年の手帳を見ると、建築会社との打ち合わせが何回か入っている。10大ニュースのBest1には土地を購入し、マイホームの建築を開始したことも書かれていた。そういえば、マイホーム購入のためのローンの手続きやら、家の図面の打ち合わせやらで大変だった。それでも、そんな忙しさの中でも、当然のことながらフットボールだけは続けていた。 この秋に行われた試合のビデオが2試合分ある。1試合は甲府の小瀬競技場で行われたホットドッグ戦、もう1試合は浜岡総合グランドで行われたウインズ戦。ホットドッグ戦は11月22日に行われたのだが、寒い日だった記憶がある。そして、この試合での一番の思いでは、敵陣10yd付近、ワイド・オープンでパスをキャッチし、エンドゾーン手前でこけた櫻井のパスキャッチだ。
幸い、この時は大量リードを奪っており、特に問題は無かったが、みんなからブーブー言われていたのを思い出す。この試合は完勝だったが、ビデオを改めて観て、RB飯田のスピードと見事なカットバックが目に付いた。WRに入っていた#21の大東文化大OB内村もいいキャッチと素晴らしいランを見せてくれていた。それから、#86のTEも際どいパスをバシバシ捕ってくれていたが、彼は日体大OBの上松だったのか?ディフェンスでは、DT八木やLB八丁堀がまだまだ元気だったし、CB山田は鋭い突込みを見せていた。 それにしても、これだけ、面子が揃っていたのだから、この時の試合は楽だったなあと、今考えても思う。さらに、自分で言うのもなんだが、ランを中心にショートパス、スクリーンパス、ドロー、リバースと、プレイコールが抜群に良かった。 さて、もう一試合のウィンズ戦は今思い出しても腹が立つ。3Qに4th downから、WR#21内村への左ショートアウトでTDを上げた。PATは決められなかったが、そのまま6-0で追われるところまで追い込んだ。ところが、ラフィング・ザ・キッカーの反則で息を吹き返したウィンズにTDを奪われ、結局6-8で敗れてしまった。 今になってこんなことを言ってもしょうがないのだが、あの時はパンターがボールを持って走っており、ディフェンスはタックルに向った。その時にパンターは急にパントを蹴ったのだが、あの場合は明らかにパントが蹴られるケースではなかったから、たとえ蹴リ終った選手にディフェンスの選手が当たったとしても反則ではなかったはずだ。 あの反則を取ったのが、ファルコンズOBの高橋で、何であんな反則を取ってしまったのか。あの反則さえなければ、久々のウィンズ戦勝利だっただけに悔やまれて仕方ない。高橋の馬鹿者が、本当に。
ところで、この2試合の他にもう1試合、同じビデオに入っている試合がある。ウィンズ戦が行われたのが12月6日で、確か一週挟んだ12月20日に小宮山工業ユリシーズとの試合があった。しかし、僕はこの試合に出ていない。 実は、ユリシーズとの試合は11月頃に予定されていたのだがスケジュールが上手く立てられず、中止になっていた。それが、急きょ12月20日にグランドが確保できたため、実施することとなった。ところが、12月12日がファルコンズの忘年会でシーズンは終る予定だったため、翌週末に僕は志賀高原へのSKIを計画していた。 みんなからは、SKIを止めろ、ワイのワイの、という声が上がった。しかし、SKIに一緒に行くメンバーに対して申し訳が立たない。止む無くというか、忘年会で既にシーズンが終った気持ちになっていた僕は、迷わずにSKIを選んだ。 韮崎で行われたユリシーズ戦はみぞれ混じりの雨が降った中で行われた。試合には勝ったのだが、寒くてとても辛い試合だったらしい。昔の仲間が集まるとこの時のことを今でも言われる。「QBのくせにSKIへ行っちまって」と。 その度に僕は言い返してやる。「良かった、そんなに寒い中でフットボールやらなくて」と。 2007.6.9 |
| 1993年冬・春 |
| 2008年の2月一杯で閉鎖になってしまったが、1993年当時、僕はセントラルフィットネスクラブ静岡に通っていた。社会人になって以来ウェートトレーニングはずっと続けており、この頃もフットボールとSKIのために、週に1,2回はトレーニングをしていた。 当時、ファルコンズのメンバーが多かったか少なかったかは定かではないが、この頃、クラブにお願いしてメンバー募集のチラシを掲示板に貼っていた。このチラシでメンバーが集まったかは覚えていないが、思わぬところから連絡が入った。
取材は昨年亡くなってしまった岡田さんが受け、担当の方が河川敷で練習の写真を撮ってくれた。担当の方が気を遣ってくれたのか、広報誌のトップは、ボールをキープして走っている僕の写真だった。何万戸の家庭に配られ、何人の人が観たのかも分からない。そのままごみ捨てに行ってしまったものもあるだろう。でも、僕はこの広報誌を未だに大事にとってある。 さて、この広報誌が出たのが確か4月の初め。この年の春は色んなことがあった。まず、4月にマイホームが完成し、しっかりと静岡に本拠地を構えることにした。当然のことながら、フットボールにも集中できる環境が揃った。 そんな矢先、5月の初めだった。御前崎市(旧浜岡町)の総合グランドで昔所属した名古屋ホワイトベアーズとの試合があった。この試合は両チーム一進一退の状態で、確かスコアレス・ドローだった記憶がある。問題は、試合終了の少し前に発生した。 誰かにハンドオフした後だったか、パスを投げた後だったか。ベアーズのLB松岡さんがアフター気味に右膝にタックルしてきた。完璧に靭帯に来たことが分かった。すぐさまサイドラインに出て、膝を冷やしたが、「これはまたやっちまったか」と観念した。相手が昔からの知り合いの松岡さんで、悪気があった訳ではなかったから仕方なかったが、まずいことになった。 静岡の済世会病院に救急で入ることをお願いし、石井さんのワゴンの後部座席に横たわりながら膝を冷やし続けた。当然のことながら嫁さんには、「ひょっとしたら手術で入院するかもしれないから、用意を頼む」と連絡した。 病院に着き、レントゲンの写真を撮ったが、とりあえず骨には異常なし。患部を色々と先生が診察してくれたが、結果的には大事に至らなかった。多分、怪我をした後にすぐ冷やし続けたことが良かったのだろう。色々と気を遣ってくれた周りの人たちのお陰だった。 そんな訳で、怪我も大したことは無く、車椅子で遊びながらチームメイトと談笑している所に、嫁さんと嫁さんの母さんが「お家の一大事」という感じでやってきた。「あっ、大丈夫だった。ちょっと冷やせばいいって」と、ニコニコ笑いながら車椅子で遊んでいた僕を見て、当然ことながら嫁さんは怒った。あわてて、入院の用意をしてきたらなんてことだと。 確かにそうだった。でもまあ、大事に至らなくて良かったというのが本音だっただろう。まさか、この5年後に本当に大変な目に遭うとは、この時誰も思わなかった。 2008.4.12 |
| 1993年春・夏 |
| 1993年春のシーズンの終わりは、この年もホワイト・ドルフィンズとの試合だった。この試合は18-8でファルコンズが快勝し、昨年に続いて連勝した。6月6日に行われたこの試合、僕はオンスーツだったものの、ずっとサイドラインだった。考えてみれば、浜岡のグランドで膝を故障したのが5月9日で、救急病院にまで運び込まれたような状況だったのだから、当然かもしれない。 この試合、メンバーの少なくなったホワイト・ドルフィンズには2,3人の黒人選手がいた。ヘルメットの中から覗く黒い肌と白い目は迫力があり、みんなビビッていた。タックルに行っても弾き飛ばされたり、引きずられていたが何とかこの黒人選手のランを止めていた。しかし、後半になると人数で大幅に勝るファルコンズとホワイト・ドルフィンズの疲労度は明らかに差があり、最後はファルコンズの元気さが目立った。 この試合では前半早々、QBに入った鈴木貞さんからパスを受けた岸山が約70ydを走りきり先制のTDを決めた。その後もCBに入った横山が2本のインターセプトを決めた他、まだ現役バリバリ状態の大東文化大OBの内村が、RBでオープンを走りまくっていた。 そんな中、DLでは明治OB石井さんと関学OB横田さんの2人が現役で頑張っていた。石井さんはこの頃すでに40を越していたのだろうか。横田さんも40歳近かったように思える。最近では静岡ファルコンズでも40歳を超えて現役を張っている選手が少なくないが、この頃は40歳まで現役を続けている選手は少なかった。 しかし、どうしてこんなに頑張っていたのかを考えて、理由が分かった。実は前年だったか、その前の年だったかは定かではないが、静岡大学の学生がフットボールをプレイしたいということでファルコンズに加わった。当初は3人くらいで、徐々に人数も増え、1993年の春には静大としてのチームも出来ていた。ただ、人数も少なく、練習もままならないことから、当時は毎週ファルコンズの練習に参加していた。 石井さんと横田さんは静大の監督とコーチを引き受けており、彼らに自分達のプレイする姿を見せたかったのではないかと思う。ビデオを見ると、サイドラインには白い練習用ジャージを着た選手が数多くいる。そんな中、最初からファルコンズに参加していたQBの荒垣(違ったかな)が試合がほぼ決まった終盤に試合に出てきて、頑張ってパスを投げていた。 サイドライン後方には、石井さんが当時経営していたDOTCOOLにやって来る女性達が応援に来ていた。静大生の参加でチームには若者が増え、ついでに静大生のマネージャーも加わった。さらに女性のギャラリーもいる(この中にNさんというかわいい子がひとりいた)。大所帯となったチームは盛り上がり、みんなが楽しそうにフットボールをしていた。 一方、ホワイト・ドルフィンズは翌年以降メンバーが集まらず、チームは消えていった(1992年冬・春に書いた内容は少々間違っていた)。プライベートのフットボールチームというのは、大学OBの若者達が集まって作り、一気に強豪になることがある。しかしながら、新陳代謝が上手く行われなかったチームは、やがてメンバーが減り、消えていく。 静岡ファルコンズも人数的に厳しい時期もあれば、この当時の様に盛り上がった時期もある。その後何度もメンバー不足に悩まされながらも、もう少しで35周年を迎える。静岡県内のチームが次々に消滅していった中で、これまでチームが存続できたのは、苦しい時も少人数で頑張ってきた、岡本、飯田、横山といったすでに40歳を越したベテラン選手とチームの総監督萩沢さんのお陰に違いない。 2008.4.14 |
| 1993年秋・冬 |
| 秋のシーズンになった。当時の手帳を確認すると、10月24日、11月7日、12月5日が試合と印してある。10月と11月の試合は多分スルガベイ・ウィンズと甲府チーフスが相手だったのではないかと思うのだが、まったく記憶にない。ただ、手帳の最後の方に、「今年もウィンズに勝てず」とあったから、オレンジリーグは1勝1敗の2位だったのではないだろうか。 12月5日に行われた試合は名古屋ブルータスとの練習試合だったのだが、この試合だけがビデオのお陰で記憶に残っている。名古屋学院大学で行われたこの試合の前、チームとしてやっと形が整ってきた静岡大学と名古屋学院との練習試合があった。静岡大学は試合には敗れたものの、かなり形になってきていた。 この日は朝から寒かった。名古屋学院のグランドは山間で寒く、さらにグランドはぬかるんでおり、あまり良い状態ではなかった。しかし、静大の試合が終った午後になると、日差しが差してきて若干暖かくなってきたように記憶している。さて、その試合内容だが、久し振りにビデオを観て、自分達のチームがどちらなのか分からない。 というのも、ブルータスのユニフォームが黒系で、ファルコンズのユニフォームも紺系だったので、我々は静大の白いユニフォームを借りたのか、各自が持ってきたとりあえず白のジャージにナンバーが入ったものを着ていたのだ。最初の内、どっちがファルコンズだろうと思って観ていたのだが、QBのコールとセンターの後ろにセットした姿勢で、白のユニフォームの#18が自分だと分かった。 僕は、センターの後ろにセットした時に、猫背になって低く構える。さらに、聞きなれた自分のコール。ユニフォームこそいつもと違うものの、まさしく自分だ。他のメンバーもいつもと違うユニフォームのナンバーで最初は誰だか分からなかった。しかし、ビデオで遠くから映していても癖は出るものだ。WRに入った岸山、櫻井、横山は走り方で分かった。RBの曽根も一発で分かった。その他ラインの連中も仕草や癖で段々と分かってくる。チームメートとはこんなもんなんだなと、改めて実感。 試合の方は、パスプロが良かったこともあって僕のパスはバシバシ決まっていた。20本近く投げておそらく半分以上は決まっていただろう。TDパスも2本。レシーバーのドロップがなければもう1本位TDパスを追加で来ていたかもしれないくらい、良い出来だった。ドロップバックが速く、一歩前に踏み込んでコントロールの良いパスをタイミング良く投げ込んでいた。 久し振りに自分のクォーターバッキングを観て、こんなにドロップバックが速かったのかと感心した。パッシングフォームはお世辞にもきれいとは言えない。しかし、両手でしっかりとボールを持ち、速いリリースからパスを投げていた。加えて、左右にロールアウトしてからのパスもコントロールが良く、度々ロングゲインにつながるパスを決めていた。 あの時のヘルメット越しに観た景色は、何となくまだ残っている。特に、ど真ん中のパスを落とした櫻井のシーン。確か、頭に来てすぐにレシーバーを横山に代え、彼にTDパスを通した。前年秋のホットドック戦でも櫻井は正面のパスを落とした。スラントインのようなパスは囲まれていても捕ったが、簡単なパスでマークが外れているような時に彼はよく落とした。まあ、今となっては笑い話だが。 試合の方は、ディフェンスも相手を完璧に止め20-0で完勝。貸切のバスの中で、帰りは大宴会になったのを記憶している。特に、普段はなかなか日曜日に休めず、仕事が宴会の取り仕切り屋だった木下さんが、楽しそうに大騒ぎしていたのが印象深い。 この年の冬に八方、岩岳へSKIに行った帰りの車で会社の先輩に、「ここのところフットボールをやっていて楽しい。ディフェンスが良く見え、プレイコールも相手の裏をかける」といった内容の話をしたのを覚えている。大学でフットボールを始めて17年も経っていたが、この試合が一番良いクォーターバッキングだったかもしれない。この位相手を読めるように、もう10年早くなっていたら、ファルコンズはウィンズにもっと勝てたかもしれない。 2008.4.15 |
| 1994年春・夏 |
| HPを開始したのが2000年。この頃、1994年といえばちょっと前のことで、HISTORYなんてすぐに書けると思っていた。ところが、2010年の今思い出そうとしても、この頃のことを中々思い出せない。今回もまた手帳を確認してみると、5月22日に三保で東海大学海洋学部と、29日に浜岡でホワイト・ベアーズと、そして、6月5日に三保でホワイト・ドルフィンズと対戦という、3週連続の試合日程が組まれていた。
海洋学部との試合に関する記憶は何もないのだが、我が家の10大ニュース何となく薄〜い記憶をたどってみると、ホワイト・ベアーズ戦に関する記憶がよみがえって来た。試合前の26日から28日にかけ、僕は嫁さんと京都・奈良に旅行に出かけた。奈良の天気は良かったのだが、京都は雨にたたられた。試合当日の朝7時半までに試合をやるかどうかの連絡をすることになっていたが、27日の夜の時点でグランドの管理者と相談して試合の中止を決めた。 ところが、この連絡が上手く行き届かず、ホワイト・ベアーズの数人とファルコンズの木下さんは浜岡に行ってしまった。雨は土曜日には上がり、グランドコンディションは上々。なのに、なぜ試合をやらないのかと彼らは思いながら、集まった人たちでフットボールを使って遊んだという。この判断は誤りだったな。旅行中から帰った土曜日が慌ただしくなりそうだったので金曜日にグランド管理者に連絡したのが悪かった。この時は、本当にみんなに申し訳なかった。 そんな訳で、この春から夏にかけてのシーズンは、1試合やったかどうかというところだ。 さて、僕の会社は7月1日が異動の時期。この夏、静岡に来て3年目を迎えていた僕は、次の異動がどこになるのか気になっていた。前年の夏にほぼ決まりかけていた岡崎への転勤を免れたものの、今年はそうはいくまい。 6月24日の金曜日に受けた内示は東京への転勤だった。会社を離れ、ある社団法人への出向。西の方角と相性の悪い嫁さんは、東京への転勤を喜んだ。僕も、期限付きの東京勤めは何となく嬉しかった。会社に入ったばかりの頃、遊びたいがゆえに異動の希望先はいつも東京か長野だった。結婚をしてしまったが、単身赴任で東京に勤務するというのは、毎週静岡に帰ってきてフットボールも出来る訳だし、そんなに悪いことではなかった。 引き継ぎで東京に出掛けた僕は、前任者からすぐに東京中心部の地図を買うように言われ、勧められるままに1冊のポケット地図を買った。地図を買って最初にやったことといえば、アメリカンフットボールの用具やグッズを扱っていそうな店を記入したことだった。どこに行っても、フットボール中心の生活だった。 2010.7.19 |
| 1994年秋・冬 |
| 東京に赴任しても、僕は毎週必ず静岡に帰ってきた。それはフットボールを続けるためであって、決して嫁さんに毎週会いたかったからではない。というような気が、今考えるとする。36歳になっていた僕にとって、これから先いつまでフットボールをプレイできるか分からない。そう思うと、毎週帰ってこない訳にはいかなかった。 そんな矢先、チーム内でユニフォームを変えようという話が持ち上がった。静岡ファルコンズはチームが出来て以来、グレーのパンツに紺のジャージでヘルメットはSilverだった。ちょうどダラスのアウェー用のいでたちと同じだった。このユニフォームは派手さはないものの、気に入っていた。しかし、誰が言い出したのか、NYGのユニフォームと同じユニフォームにしようということになった。 QBクラブで注文し、NFLと同じ生地のものだという。あまり記憶にはないがかなり高かったように思う。36歳だった僕はこの時考えた。この先いつまで出来るか分からないし、QBには横浜国大でエースQBだった鈴木太一が入って来た。当時一部だった横国で活躍した彼の右腕から繰り出されるパスは素晴らしく、僕がQBを務める時代も終わりかなと思っっていた。 ユニフォームの話は、そんな想いを抱いている時に持ち上がった。太一は僕が当時付けていた#8を欲しいと言った。僕は喜んで彼に#8を譲った。他のメンバーから何を言われようと、僕は新しいユニフォームを作らなかった。これから先、試合に出なくても良いから練習に参加できればいい。そんな気持ちだった。ところが太一は仕事が忙しく、練習にもあまり参加できない。練習では僕がQBを務めることが多く、秋のリーグ戦も僕がQBとしてチームを引っ張ることになった。 この年のリーグ戦は、スルガベイ・ウインズ、甲府シティ・チーフス、小宮山工業・ユリシーズの4チームで行われたか、あるいはもう1チーム、ホットドックが入った5チームで行われたか。4チームだったような気もするが、定かではない。確かこの年もウインズに勝つことが出来ずに、2位に終わったと記憶している。
この頃は、WRやRBに入った飯田慶直(写真手前)が大活躍していた。彼は和光大OBで、高校時代は嫁さんの後輩に当たる。RBに入ればホールを抜けるスピードが凄い上にスピンムーブが上手く、たびたびロングゲインを重ねていた。WRに入ってもキャッチングが上手く、さらにラン・アフター・キャッチが出来た。彼はディフェンスに入っても、LBのポジションから敵のボールキャリアにハードタックルを浴びせた。彼はファルコンズのオフェンス、ディフェンスの要として働いていた。 彼がいた頃、和光大は3部だったと思うのだが、飯田は1部でも十分に通用するパワーとスピードを兼ね備えていた。彼は前の東京農大HCだった大根坊主さんに大学時代フットボールを教わっている。大根坊主さんに聞くと、彼は素晴らしいプレイヤーだったと話していた。 世の中には、彼の様に、たまたま1部のチームにいなかったことから話題にもならなかったが、実力的には1部で通用する選手が幾らでもいると思う。そんな選手達が、いまはXリーグで活躍している。彼が社会人のチームで活躍する姿を見たかった。きっと、大活躍したに違いない。 2010.7.24 |