ジョー・ネーマス

 私が大学でフットボールを始めた1976年、ジョー・ネーマスはニューヨーク・ジェッツで最後のシーズンを送っていた。1976年のシーズン、ジェッツは3勝11敗でAFC-Eastの4位(ちなみに最下位はバッファローで2勝12敗)、1970年代に入ってジェッツは7勝7敗のシーズンが2回あるだけで、この年まで勝ち越しのシーズンは無かった。

 当然のことながら、当時のTD誌にも弱いジェッツの話題が出てくることは少なく、フットボールをかじり始めたばかりの私にとってはネーマスを知る由もなかった。そんな私が何時の頃ネーマスを知ったのかあまり記憶に無い。ただ、両膝が悪くニー・ブレスをつけなければ歩くことも出来ないQBというのが最初の印象だった。

 フットボールを始めてから私も何回か膝を痛めた。今でも、フットボールをする時には両足にニー・ブレスを着けている。私はスーパースターでも何でも無い。それでも、右の膝にまだ残っているチタンのボルトのことを話したり、ニー・ブレスを装着する時「そう言えば、ネーマスも膝が悪かったよなあ」と思い出したりする。

 ネーマスはアラバマ大学で活躍した後、1965年に当時新興リーグだったAFLのニューヨーク・ジェッツに破格の契約金で入団した。入団すると直ぐに右膝の手術をしたのを皮きりに、引退するまでの13年間に合わせて4回も膝の手術をしている(大学時代は走ることもあったらしく、15のTDランを記録している)。そんな足の状態なのに、パスをインターセプトされた時には果敢にタックルに行き、それが原因で足を痛め手術したこともあるという。

 記録を見ると、ネーマスの記録はさほど良いものではない。スーパーボウルで優勝した次の年の1969年のシーズンにレイティング74.4だったのが最高で、13年間通算では53.0と低い。通算のパス成功率49.7%、パス獲得距離27663yd、TDパス173に対しインターセプト220と平凡な数字に見える。さらに、チームも67〜69年の3シーズン勝ち越しただけである。

 それでもネーマスがスーパースターだったのは、あのジェツ絶対不利とされた第3回スーパーボウルで、「ジェッツが勝つ。俺が保証する」と大見得を切って、実際にボルティモア・コルツを破ったからだろう。それにあの甘いマスクと女性を引き連れた派手な私生活。貧乏の中から這い上がった正にアメリカン・ドリームを絵に描いたような活躍がネーマスをスーパースターに押し上げたに違いない。

 そう言えば、1975年に天皇陛下が訪米され、ニュー・イングランド戦を観戦された時、ネーマスは4TDパスを投げた。ネーマスの活躍を見て陛下は「あの選手は誰ですか?」と質問をされた、というような記事を読んだことがある。やはり、スーパースターというのは、ここ一番での集中力が強く、決める時に決める力を持っているのだろう。

 残念なことにネーマスが活躍した頃、私はフットボールというスポーツそのものを知らなかった。そして残念なことに、そのプレイ振りもほとんど観た記憶が無い。あと10年早く生まれていたらネーマスの活躍に胸を躍らせ、ジェッツのファンになっていたかもしれない。

 ネーマスはいわゆる記録に残るプレイヤーではなく、記憶に残るプレイヤーだった。やはり記憶に残るためにはスーパーボウルに勝たなければいけない。アメリカでは勝利が全てだと感じる。

 2002.3.31