藺草 諸藤成信
風はそよとも吹かず、藺草の匂いだけが香しかった。人の顎あたりまで仲びた藺草は、深い緑の姿そのままに青い匂いを放ち、鼻孔の奥までしみていった。陽射しが背中に痛かった。髪の中から湧き出してくる汗が一筋、二筋と中村仁の眼鏡のレンズに伝ってきて視界がぼけた。地を這う湿気が体全体にまとわりついた。胸から腹にかけて気味が悪いほどに汗が流れた。野は朝の気配がなくなると真昼より暑いと感じるときがある。近頃、仁はそれを肌で知るようになつた。
冬ざれ 波佐間義之
鮮やかな紅色にほころんだ庭の薮椿の花が、あちこちで小刻みに揺れている。めじろだ。めじろはどこからともなく群れでやってきてはこんもりと茂みを増した小枝の先端に足をからめ、花の蜜を吸い求めている。蜜はめじろの好餌だ。
山東陽介はそんな光景を縁側からぼんやりと眺めながら、さきほどから煙草ばかりを吸つている。今朝ぱかりは新聞を手に取る気にもテレビに白を向ける気にもならない。
島へ吹く風 野見山潔子
タクシーを降りたとたん、剥き出しの肩に大粒の汗が吹き出した。むわっと肌にまとわりつく亜熱帯特有の熱気だ。涼子は目の前の船着き場へ駆け込もうとしたそのときになって、普段履きのサンダルで家を出てきたのに初めて気づいた。汗と埃で汚れた親指が、赤茶色の擦り切れたゴムの鼻緒からはみ出している。振り返ると、タクシーは排気ガスを残して走り去るところだった。