季刊午前27号(2002年9月)

   北京古観象台
                 

 突然、北京の話である。気になっていた場所があった。建国門という外国大使館などが集まっている一角がある。北京駅から近いと言えば近いのだが、地下鉄「建国門」駅の近くに古観象台という世界最古の天文台がある。
 天文台といっても、いわば天文機器博物館である。元の時代に創建された天文台が明の時代に移設され、現在の天文台の前身が出来たらしい。建国門立体交差を車で行くときに煉瓦積みの台が目に入る。高さ17.8メートルのその台の上には8つの銅製の天文機器が展示されている。その機器は煉瓦積みの台の下から見ると空に向かっている半身だけが見える。今では機器だけが、自身で天体を観測しているような姿である。
 しかし、その造形は美しい。星を観測した機器がすでに観察される美しさを備えてしまっているのだ。
 元の時代から明、清代。近古という時代区分があるが、日本の援用している西洋的な枠組みで言えば、中世から近世さらには近代にむけて、この天文台は何を見てきたのであろうか。

      ○

 煉瓦造りの台上にある8つの銅製の天文機器に話を戻す。8つの機器は赤道経緯儀、黄道経緯儀、天体儀、紀限儀、地平経儀、象限儀、地平経緯儀、き衡撫辰儀である。すべて清代の制作物らしいが台座や柱は殷周代の青銅器を連想させるような彫塑がなされている。また、柱には太湖石を模したような捻れた細工が施されている機器もある。
 細工の基本は竜である。竜が柱を支えている。あるいは空へと駆け上がろうとし、あるいは空で二頭の竜が対面している。機器自体を背にのせている竜もいる。天象を司る竜の姿が、天文のまず見つめる対象としてあるのだ。中国では竜は皇帝のシンボルである。それは皇帝の力でもある。
 つまり竜を見る皇帝は、天象を伝授される者なのである。すべからく権力は権威を見いだし、その権威によって認可された自らを権威として相手に知らしめる。天象はなかでも秘匿の力である。

     ○

 竜の示す距離感は何だろう。僕は竜を翔る動作として感じる。上空と地上を翔る自在さ。あるいは雲の流動を先走る自在さ。降る感覚と昇る感覚の両方を持つ。地上を這うものであり、水棲の鰐の変異でもあるものが宙に見出された解放性。変化そのものであり、変化の兆しを渡るものである。
 上海の豫園という庭園にも粘土と瓦で出来た竜がいる。その竜の開いた口元に蛙が配置されている。この蛙、竜の涎を待っているのだ。この発想のダイナミズムは楽しい。竜に虎も勇壮だが、竜に蛙は諧謔である。蛙に意味を取れば風刺にもなり、共存の姿にもなる。巨大と微少のバランスを感じ取ることもできる。そして、この蛙も実は古くから人にとっては神的存在でもあるのだ。
 蛙は変貌する。おたまじゃくしから画期的変態をする。また、雨を感知する。水は神的である。治水と洪水の双方を竜が担ったように、蛙は雨の恵みを告げる。また、季節を呼ぶ。
 近年トンパ文字で脚光を浴びている中国雲南省の少数民族、納西族の民族衣装は蛙に北斗七星の意匠である。地上と空、水、季節、昼夜が混淆としてデザイン化されている。
 竜であり蛙である、そこに生きる力を貯えた生き物は、変化するただ中で、どちらも越境するように空間に配置される。

   ○

 ところで、古観象台の8つの天文機器から何を見ることができるのだろうか。観察するとは、観察されるものと観察するものを分けることではないのかもしれない。観察はすでに、自らがその時代の中にいることを見つめることなのかも知れない。観察対象は観察する主体でもあるのだ。観察の関係とは行き来する流動性である。まなざしの緊張感から離れて、時代のただ中に変異し続ける関係のずれが、実はリアルな日常なのかもしれない。あるいは、日常をリアルに光らせるものの一つかもしれない。古色蒼然とした昔から、当座は常に新鮮なのだ。

    ○

冒険に行こう

旋回するバス停は緑地
砂漠に変える
夜毎のカエルの鳴き声も
思い出の一つに
加えながら

ねえ
冒険に行こう

雨季の風に
前髪なびかせ
変異する脱・ボクよ
耳も鼻も目も口も
皮膚まで独自に

ほら
冒険に行こう

空の密度は
そのまま空虚だ
間隙はみんな
ボクらの移動の空白だ
だから まさに
その いまへと

冒険に行こう

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