詩誌「火焔樹」エッセー1988年
崩壊をめぐる夢
1
「近代の文学者の念頭には、どこかに『滅亡』という文字が、或いは滅亡についてのおそれが、又滅亡への予感、滅亡者への哀感がこびりついているように思われる」と、敗戦との関係の中で、武田泰淳は言った。確かに、現在、崩壊を孕んでいる作品を見出すことは容易である。だが、より語られれば、語られるだけ、崩壊が、崩壊の夢に変わってしまうのは何故だろう。あるいは、崩壊を夢として捉えてしまうように、崩壊を語る作品が多いのは何故だろう。
2
ひとつの逆説がある。豊富に語られれば語られるだけ、語られたものは遠ざかってしまうという。そう、ブランショの「開示のいっさいは、なんらかの開示の不可能性のうちにある」という言葉でいけば、映像、文字、つまり言語として、まるで可能であるかのように崩壊が示されれば示される程、崩壊自体は夢として開示されずにとどまってしまうのである。別の言い方もできる。夢としての崩壊は、現実が崩壊してしまうかもしれないという恐怖をやわらげるのだ。
3
おそらく、崩壊が現実的重みを負うためには、強い実体感が必要とされる。強い実体感は喪失への恐怖を誘う。
竹宮恵子の漫画「イズァローン伝説」では、両性を持つティオキアという主人公が登場する。ティオキアは男と女、人と魔、人と自然という対立項を身につけている。もし、魔の王になってしまえば世界は巨大な滅に襲われるのだ。ティオキアが一方の実体を具現したとき、崩壊が起こるという図式である。結末はどうか。全てを体内に宿したまま、自らを結界に封じ込め、世界は崩壊から救われるのである。より強固な実体となって崩壊の夢から解放されたと見るべきなのか。あるひとつの実体にならないことによって、崩壊を夢で終わらせたと見るべきなのか。実体獲得をめぐる物語なのだ。だが、これはイズァローンという都市の伝説である。周囲が森に囲まれ、地下に廃墟のひろがる虚構の都市イズァローンの。
実体を得る事と崩壊をめぐる物語は、虚構の都市で伝説の形をとって語られてしまったのだ。そう、映像化されてしまったのだ。
4
崩壊の夢を夢見ることには、実体の希薄化がつきまとう。希薄な実体意識は崩壊を転移、変身と捉えるのだ。
主人公ヒューの夢と現実の往来を描いた内田善美「星の時計のLiddell」では、往来のうちについに現実は夢の側からの夢に変わる。ヒューは夢の世界に消え、現実は曖昧なものとして、単なる別の位相に置かれてしまう。確実な世界が存在しないのだ。喪失感もなく、実体を獲得したという意識はさらに、ない。残ったものは依拠する所のない眼差しかもしれない。崩壊も崩壊の夢も、現実も夢も、実世界も虚構世界も、等質に見えてしまう眼差しなのかもしれない。映像化されたものをみる眼球。砂漠に置かれた、森に忘れ去られた、海に浮かぶ、フリーウェイにころがる、そして、地球の影であるような眼球。いつか眼差しは遠くなっているのだ。
ところが、まるで捕虫網で、その眼球を捕らえた様な作品に出会った。
5
「海、海、海」
頭は響きと眩暈でいっぱいになって。ものを言いたい、呼びたいとさえ
思ったが、咽喉が声を通してくれなかった。
ル・クレジオの「海をみたことがなかった少年」という小説の主人公が、海に出会う場面である。少年は映像ではない海に触れ、言葉もなくす。真に実体に触れる。何故か、この場面が懐かしい。崩壊の夢ではない、喪失=崩壊の後を語っているのだ。少年の位置にある眼差しは、結界に入って地球を眺めるティオキアの視線ではなく、現実と夢を等質に捉えてしまう内田善美の視線でもないのだ。海という実体に正面直面した眼差しなのだ。そう、遠く風景を見るのではない、全身が風景を捉えて離さないのだ。教室という場から消えた彼が、逆に実体に出会う。現実から消えたヒューが夢の世界の住人になることと似ていて、こうも違った印象を与えるのは何故だろう。現実を希薄にするのではない、より確かな現実への強い志向性なのかもしれない。
あるいは、遠くから眺め崩壊のイメージを夢見る大人、常に崩壊を孕みながら夢として和らげる大人には、映像であり得ない実体は禁忌であるのかもしれない。
だが、個的死の先に全的死が予感されている現代にあって、風景の中に微少でも人が動いていてほしいと願うのは、おそらく崩壊の夢を見ることよりも明日へと引かれる思いなのだ。終末に到らない崩壊の夢は、いつまでもここちよく、しかし、それ自体が、突然の災厄にとって変わりうる現代にあっては。