季刊午前26号(2002年5月)

    変わらず変化すること−『日本のルネッサンス人』考
                       

      ○

  我々は難破した。坐礁した船のなかから、水にぬれた、いくらかの品もの  
 を救い出し、浅瀬を渡り、眼前に展開する不毛の島の風景に、いま、われわ
 れは茫然と途方に暮れている。
        花田清輝『錯乱の論理』から「ロビンソン・クルウソオ」

 ある日の景色の変貌を僕らは忘れてしまい、また日々の景色のなかでは、その景色を記憶にとどめることができずにいるのだろうか。

      ○

 花田清輝の『日本のルネッサンス人』という本がある。書名通り日本の中世から近世、近代を生きた「ルネッサンス人」についての評論集である。これは靴である。はたしてスニーカーであるか、トレッキングシューズであるか。木靴あるいは石の靴かも知れない。しかし、もしかしたら羽根のはえた靴かも知れない。飛翔は同時に墜落を孕む。その繰り返しは「シジフォスの労働」なのだろうか。

      ○

 最終章からいきなり話に入る。この本の最終章「金いろの雲」で、花田は『洛中洛外図屏風』の金いろの雲に思いをはせる。

  金いろの雲は、一見、下界のさまざまな風俗の展望をさまたげているよう
 にみえながら、逆にそれらのものにむかって、われわれの視線をひきつける
 のである。

 風俗画としての『洛中洛外図屏風』を山水画と比較しながら、

  山水画は、遠心的に、そこからわれわれを永遠なるものや無限なるものを
 目指して飛翔させ、風俗画は、金いろの雲のおかげで、求心的に、そこにむ
 かって、絶えずうごいてやまないもののすがたを求めて、われわれを降下さ
 せるともいえよう。一方は、現世を離脱して、山高く、水清らかなるあたり
 で、悠々自適したいという願望のあらわれであり、他方は、現世に執着して、
 市井雑踏の巷に埋没し、群衆の生態にたいして飽くなき好奇心をいだいてい
 ることのあらわれである。

と、考察する。しかし、「まあ、そんなことよりも、ここで、まず、問題にしなければならないのは」と彼は韜晦しながら、次に雲の構造的意味を問う。雲に「区分」を見るのである。

  金いろの雲は(中略)、装飾するためというよりも、主として区分するた
 めに、盛んに使用されていたとみればみれないこともない。(中略)要する
 に、貴賤貧富のそれぞれの居所や日常のいとなみを、絵巻物の伝統にしたが
 い、金いろの雲によって、みごとに区分することができたためではあるまい
 か。

 区分するとは時代を渡るということと同義である。それなき区分は単なる閉塞である。また、区分はパースペクティブな視座を必要とするだろう。空間の全体があって構造としての区分が成立するのだ。つまり、時間を区分し、空間を区分するとは、時代を渡り空間を往来する感覚である。その越えていく地域に「金いろの雲」がある。
だが、僕らは『洛中洛外図屏風』を見るとき、遠巻きにそれを全体として観察するのだろうか。花田は区分の中に誘われるように侵入することを語る。

  われわれは、このおびただしい金いろの雲のむれが眼にはいらないかのよ
 うに、もっぱら活気溢れる街の景観だけに視線をそそぐ。

 そして、「混沌とした群衆のダイナミックなうごき」を見つめながら、

  要するに、金いろの雲の切れ目から浮かびあがってくるさまざまなイメー
 ジに心をうばわれ、誰も画面一杯にのさばり返っている金いろの雲そのもの
 を問題にしないのである。

と書く。この視線は『洛中洛外図屏風』の作者の視線と同化している。この屏風の場面を見る鑑賞者から、雲を書いた作者に変化して、花田のまなざしは部分と全体、諸相と空気を捉えていく。
 それまで灰色だった雲がどうして「金いろ」に変わったのかと問い、「中世の銀いろ」が「近世の金いろ」となる「一時期が嫌いではない」と語る。
区分している雲のむれが眼に入らないと書くとき、そこには今どきの言葉を使えばグローバリゼーションが当てはまる。と同時に、雲の区分があることによって切れ間から浮かびあがる場面が眼に入ると書くとき、そこはテリトリーの領域、つまりローカリゼーションへの、様々な階層や場所や人種などへの視線が動くのである。この絵の作者はそこを往き来すると花田は往き来しながら語る。「金いろの雲」は風俗にむかって「われわれの視線をひきつける」のである。
 一体僕らの置かれている「今」とは唐突に世界規模なのだろうか?雲のむれへの視線が場の視線へと繋がる位置に、僕らは立っているのではないのだろうか。目に入らない雲のむれとは雰囲気であり、そこに横行する言葉としてのグローバリゼーションとその気分と考えられる。そして、現にある、考察された金いろの雲は、局面と局面をつなぎとめるための同時代の空気であると考えることができるのだ。強く時代の混沌を映した場面を喚起する区分と接続の空気と考えられるのだ。ただし、『洛中洛外図屏風』にあっては雲は灰いろではなく金いろなのである。

     ○

 ここにさらに疑問が現れる。なぜ、花田の文章から僕がこの感想を持ったかという疑問である。花田の書いた「金いろの雲」から境界の問題にいき、その境界を単に区切られた場としてのみ考えることができずに、見える境界と消える境界や、場面という個別とその場面の配置された全体の問題などに関心がいくのかという問題である。
ひとつの感じ方がある。今福龍太が『荒野のロマネスク』の中で語る民族誌学、文化人類学の方法である。彼は「素朴な実証主義的科学性」による客観主義や科学主義に批判を加え、主体の科学ということをバルトを挙げながら語る。

  自らの個別性を主体の科学に捧げ、提供しつつ、しかもその科学が自己を
 還元することもないような、ある一般性に到達するようにしむけること。

「個別性」から「一般性」へと到る。こんなことが可能なのだろうか。今福龍太は続けて書く。

  そのための認識の出発点に、バルトは「不意にやってくる」ものごとへの
 関心を置こうとする。

出会うことに力点を置きながら、「冒険(=不意にやってくるもの)」という言葉を使って、今福は「民族誌的風景」の不意の訪れに「立ち向かい、かかわることになる民族誌的風景を存在させることができる」のは

  私たち一人一人の個別性だ。個別性の冒険に賭けることで、民族誌家は科
 学的客観の仮面をつけたリアリティーがおもむろに動揺をはじめ、輪郭を揺
 るがせ、やがてめくるめく運動に満ちた可能性の力が彼をめがけて流れ出す
 現場に立ち会うことができるようになる。フィールドのコミュニケーション
 は不意にやってくる。

と、私自身がその不意にやってくるものと向き合う個別の関係を世界との接触面としてとらえている。「偶然のように聴いた音」が「未知の世界を彼の前にひろげる」と書き、「無意識にものに触れたときの感触」が「やがて閃光のようなひらめきをともなった明晰な理解をもたらす」と書くのである。
 経験から新たな認識、理解に到る、この表現は、今福の著作の表題通りに、まさに「ロマネスク」である。それ自体をかつて経験したことで、新たなある「不意におとずれたもの」との接触を果たす。あるいは違った経験であるのに、自己が持つ個別のリアリティーにおいて「不意におとずれたもの」が存在を獲得する。
 身近なところで僕たちは実際に行っているのだ。何かを初めて食べたとき、かつて経験した自らの感覚を総動員して、何かに似ている点を見出そうとするだろう。ただ、そこに自己を素直に出会わせる方法が必要なのかもしれない。つまり、すべてを類似に落ち着けるわけにはいかないのである。「接続され変容する自己意識を内側から鍛え上げてゆく人々」の持つ「個別の思想」を感受する「個別の科学」の立場も鍛え上げられなければならないのだろう。
 その感性の在り方として今福はこうも書いている。

  目の前に現れる光景が一つの安定した像を結ぶことに限りなく抵抗し、自
 分と異文化とを分けへだてている(と彼に感じられている)境界線をできる
 だけ幅のあるあいまいな「場」のままにとどめておくことで、自己の身体に
 介入してくる「他者」の作用を認識の力として受容できるような感性が、い
 まあらゆるジャンルのエスノグラファーに求められているのだ。

 幅のある境界線というイメージが刺激的だ。越境と書くときの線的境界と違う、さらなる一つの領域性が感じられるのだ。
 そして僕らは今福が書いているようにリアリティーの「断片」に出会うのである。この「断片」は主体性との関係によってリアリティーの輝きを発する、リアルな「断片」となるのだ。

     ○

 僕らにとってグローバリゼーションという言葉は人類の夢の世界を表す言葉ではなかったのだろうか?
 僕らの持つねじれた感想は、語られるようなグローバリゼーションが、何だかとても地図の中心を一方に置いたかのような印象を与えることから来ている。そもそもグローバルがとても局地的グローバルではないかという気がするのだ。  つまり、ジョン・レノンの「イマジン」とは違うのだ。
 この国でいうところのグローバル・スタンダードはアメリカン・スタンダードである。グローバル自体が見いだせない国なのかもしれない。そんな時、網野善彦の日本地図をずらした視点を思い出す。日本海は湖のようなものであって、日本が孤立した島国であるとする通説は、かつての日本の有り様を考えた場合疑わしいと考える彼は、地図の中心にある日本をずらして、大陸を中心にしてみせる。すると、海岸線を伝わって大陸と日本の位置は極めて隣接していることに気づかされるのである。太平洋を囲む安全保障体制のグローバリゼーションが決してグローバルではないということは、視点の可能性として考えられなければならない。
 つまり、グローバルなものがグローバリゼーションといわれる言葉とは一致せずにあるという感じが、どこかでグローバリゼーションという言葉を空虚な響きにしているのかも知れない。そして一国の力関係のみが、まるで世界であるという在り方に不快な感じを持っているのかも知れない。このアメリカン・スタンダードは、僕らを「イマジン」の夢から遠ざけるのである。だが、ここにはまだ対抗するつもりになれば対抗しうる、意識のやり場があるのだ。
 ところが、別の見方も考えられる。そもそも個人という概念自体は対社会という構図を宿しているものではないだろうか。そう考えれば、対社会から同化しうる可能性の場所としての理想の社会を欲求するという道筋が考えられるのだが、ここが幻滅あるいは想像する力の後退によって閉ざされているのではないかという見方である。
 夢にさえあらかじめ疎外されている現状もしくはその疎外を嫌がる傾向が、同化の位置を卑近に安易に置こうとする欲求を生みだしているのではないかという気がする。あるべき社会を夢見る以前に、欲求が排泄される。人によっては欲求が消費される。消費を欲求するのではなく、すでに欲求を消費する。心地よさは飢餓感として先延ばしされる。そして、違和感も抜き差しならずに残る。その時、僕らはグローバリゼーションという言葉の空虚を呼吸しながらもナショナリズムに枕するのではないのだろうか。
 そのすり替えは、主体の停滞であるはずなのだ。だが、むしろこの地点で、幻想であるにも関わらず、おそらく主体の自己実現が感じられるのかも知れないのだ。とすれば、人は空虚を呼吸しても目覚めていなければならない。
 自らを疎外するグローバリゼーションに対抗しうるのはナショナリズムであるとする思いこみは、個別性とは別物である。そして、それは実は主体性から遠いものとして意識されるべきものであるはずなのだ。個別性は国家システムに収斂しない。しかし、主体性は自らの役割が与えられない苦痛に耐えることが出来ないものなのかもしれない。その時、与えられた役割が仮に悪であったとしても、人は自分の無用性から脱出するためには、そこに自己実現を賭けてしまうのかも知れない。主体性を国家主体性に結びつければ、ナショナリズムに短絡しうる。だが、その場合の主体性は吸い取られた主体性と言えるだろう。スタイナーが書いたように、人は「未来時制を分節できる能力をもつ」のであって、「前方を夢見る能力と必要をもつ」のだ。人は未来へと賭けられる。少なくとも過去に吸い取られる生き物ではないはずなのだ。
 さらに、個別性と伝統とは別物である。伝統が即個別のものではないように、また伝統を守ることが個別性ではないようにこの二つは別の位相である。
 個別のものとは、様々なシステムの中にあって個別性を発揮するのである。グローバリゼーションを統一の夢としてしまえば、統一の夢はすべからく侵略の悪夢を孕む。そして、仮にもし、グローバリズムの対抗としてナショナリズムをだすとしたら、それはグローバリズムにナショナリズムを敷衍するのと同様に、共に個別性からは遠い場所にあるだろう。その時の主体の相貌はどんなものなのだろうか?異形であろうか、それとも、見慣れた顔をしているのだろうか。
   
     ○

 花田の『日本のルネッサンス人』では冒頭と終章に「洛中洛外図屏風」をめぐるエッセイが配置されている。「金いろの雲」と群衆に着目して、時代の過渡期、花田の言葉を使えば「転形期」の混沌とした「無秩序として考えられた秩序」のダイナミズムを語った終章とつながるように、序章「眼下の眺め」は個人と集団をめぐる言葉で締めくくられる。
 画家の視点は遠巻きの遠近から市井の姿に入ってくると語りながら、一九七四年一月発表の序「眼下の眺め」と同年四月発表の終章「金いろの雲」は花田得意の呼応を見せる。「眼下の眺め」で、

  もはやかれらの「視点」は、塔の上にだけしばりつけられているわけには
 いかなかったのだ。(中略)上京一帯には、新築のバラック建ての町屋が建
 って、どんどん、横にひろがりはじめたのだ。

と、町の変化を語り、市民の生態への否応ない「洛中洛外図」作者の関心を書く。そして、町屋の軒を連ねた情景から、次のような言葉でこの章を結ぶのである。

  そこに「町衆」の連帯の一因を求めるひともあるが、如何なものか。近代
 における連帯とは、主体性のある個人の生誕を待って、はじめて成立するも
 のではなかろうか。

 花田の見果てぬ夢であろうか。「洛中洛外図」の画家たちの「同情」が「公家や武家よりも、はるかに当時の市民たちにそそがれていた」とする花田は市民のはつらつとした姿を認めながら、「近代の連帯」を「主体性のある個人」と結びつけようとする。近代のプロセスの実現を期待するのである。
これは、終章の「金いろの雲」のラスト部分に呼応する。

  集団は個人を圧迫するでもあろう。しかし、集団が、集団内部の矛盾を、
 一つ一つ解決していく過程において、はじめて個人の主体性は確立されてい
 くのではなかろうか。

 繰り返すが、一九七四年に書かれた文章である。さらに彼は同年九月に死去している。ここには、かつて『復興期の精神』で書かれた「群論」から続く、集団への夢、個人が確立されることへの夢が託されている。
 個人と集団を本来対立するものだと置いた時、花田の言い回しを使えば「対立のまま、統一し」ようとするのだ。集団内部の矛盾を解決しながら集団がより先鋭化されるという側面を語らずに、そこで、個人の主体性が確立されるのではないだろうかと説く還元的な発想が見て取れる。集団を集団の側から書きながら一気に個人の主体性に転換してみせる。
 つまりは、集団といっても個人の集まりであるとすれば、当然わたしもあなたも個人なのだ。続けて花田は書く。

  いかにも個人は、集団のなかにあって単純化されるでもあろう。だが、そ
 の単純化のなかには無限のゆたかさがあるのは、個人が、個人として切り離
 されているばあいには、ほとんど気づかない\気づくことさえためらってい
 る、みずからの正体が、集中的に表現されているからだ。

 集団に向かう際の否定的動機が語られる。それは「個人が、個人として切り離された」無関係という関係への危惧である。常に連帯の不可能は個に差し返されてきた。その度に、例えば共生と言葉を変え、置かれた期待の度合いを変え、強度を変え、しかし、僕らは夢を見る。最小単位から想像できる最大の単位まで。一対一の関係から、集団性まで。向き合える他者から絶対他者という発想まで。つまり、切り離された個人では生き得ない、集団があってこそ個人は「無限のゆたかさ」を生きると花田は書いているのだ。
 個人は別の個人のまなざしによって「みずからの正体」に気づく。「集中的に」みずからを「表現する」とは、結局、他者の問題に出会うことになるのだ。僕らは僕の顔を君の顔によって見るのである。
 そして、「集団が、集団内部の矛盾」を解決する「過程」にあって、「個人の主体性」は確立されると述べる時、この個人も集団も「過程」として動的なのである。システムは改変する。「過程」の重要性とリセットの可能性に注目すれば、システムとは換わるべきシステムなのだ。
 先に引用した今福龍太の「荒野のロマネスク」に、「構造」と「プロセス」「過程」との関係の逆転を企図した表記がある。

  明確な「フォルム」をもって提示された「構造」と比べたとき、「プロセ
 ス」とは一種の「過程」としての道筋にすぎず、それは「構造」にたいする
 因果的な連鎖を示すものとして最終的には何らかのかたちで「構造」の示す
  フォルムの世界に還元することができてしまうからである。こうして、「存
 在」は「過程」を支配し、「あること」は「なること」の優位にたち、「現在
 性(アクチュアリティー)」は「可能性(ポシビリティー)」を抑圧すること
 になった。

と、「構造」の持つ抑圧を語りながら、今福は「リアルな科学」が対象とする「マテリアルな世界」に対する「素朴な実在論」の限界を指摘し、民族学的な「オカルト科学」という語句を使って、その「オカルト科学」がテリトリーとするのは「マテリアルなオブジェの世界」にはない、

 「プロセス」「属性」「アクション」「関係性」といった、それ自体リアル
 な科学からは対象物と見なされないようなもの、すなわちリアルなものの派
 生物としてしかリアリティーを持ちえないと思われていたようなものの領域
 において力強く遂行されることになるのだ。

と書くのである。実存性といえないだろうか。未分化からの「アクション」が、リアリティーを獲得していく。そこで生み出される「関係性」はリアルであり、「プロセス」は開かれていく。
 彼は、ここに民族誌の未来を見るが、これは、つまりは文化の有り様であり、また文化自体を問い直す文学の有り様でもあるのだ。あるいはいきいきとした芸術の孕む可動性かもしれない。
 かつて今福は、『野生のテクノロジー』で、単に現代文明に対するカウンター・カルチャーとしての野生(未開)という捉え方や現代文明を止揚するための野生(未開)という観点に異論を唱え、その文明自体をダイナミズムとして捉える多様性を語っていた。
 それは先に僕が述べた中心をずらすという範囲に止まらずに、様々な中心を同時に存在させる多声性や場的感性といった把握になる。そして、その地点とは実は極めて個的な経験の衝突なのではないだろうか。バルトが『読書の快楽』で書いたように、つまりは「私にとってはこれだ」ということだ。「この《私にとって》は、主観的でも、実存的でもなく、ニーチェ的だ(実際、いつも同じ質問だ。これは私にとって何であるか・・・》)」ということになるのではないだろうか。「私にとってはこれだ」が「これは私にとってなんであるか」に移行する主体の世界との往還なのだ。バルトは快楽と悦楽との間で消えゆく主体の移行について書いているのだが、それは先に引用した「不意にやってくるもの」との快感に近いと思う。
 だが、花田は、レトリックを使って、主体の確立と個人の持つ個別性に集団の夢も乗せようとしたのだ。ここには歴史の転回点のひとつとしての一九七二年から一九七三年が横たわる。大塚英志が『彼女たちの「連合赤軍」』において力業でサブカルチャーの台頭と大量消費時代を「連合赤軍」の問題と結びつけて論じた際のこの年号が、やはり横たわっているのであろう。

     ○

 先程、僕は、個人という概念自体が対社会という構図を宿しているのではないかと書いたが、一体、いつの間に僕らは、集団は個人を圧迫するものだと思いなしたのだろうか。いや、僕らではなく単に、僕の思いなのだろうか。いつからか個人と社会とを対立的に捉えてきたのではないだろうか。
 集団と個人を対概念として捉えること自体の中に、対立する概念によって世界を把握していこうとする言葉の性質があると思う。さらに、一なるものへと達成されていくことを是とする価値観があるのではないだろうか。
 集団の交易する場を「公共性」として捉える考え方がある。間主体性の場を集団単位へと拡大していけば、他者性を共存させる発想として「公」空間は当然前提されるべきである。しかし、あくまでも「公共性」を集団内部のレベルに留まらせた場合、その「公共性」とは実は村掟の実行空間にすり替わる。そこでは、自覚的にか無自覚的にかは別として、主体性は集団の目的へと奉仕させられる。
 仮に対立するものと捉えたとしても、『日本のルネッサンス人』の「古沼抄」では、個人と集団の関係を前衛性の問題として考えているようだ。

  転形期を生きた人々は、多かれ少なかれ、いずれも、「すすきにまじる芦
 の一むら」といったような\あるいはまた、「芦間にまじるすすき一むら」
 といったような違和感にたえずなやまされていたのではあるまいか。

と、違和感に触れながら、花田は連歌を語り、「いまは集団によって個性を圧迫する表現形式であるというので、棄てて顧みられないのが残念でたまらない」として、共同制作や集団制作のよろこびに言及するのである。現在はむしろ連歌は形式として試みられる傾向にある。しかし、花田は文学運動としての共同制作をこの当時考えていたようである。これは彼の夢の形式なのかもしれない。
 この「古沼抄」では「古沼の浅きかたより野となりて」という一句を引きながら「転形期の風景」が記述されている。

  まず、古沼がある。古沼のまわりには芦の群落がある。つぎに、芦間にま
 じるすすき一もと\または一むらがあらわれる。いつの間にか原野のけはい
 がただよいはじめたのだ。それから、すすきにまじる芦の一むらが続き、や
 がて古沼の影響は、まったく消えさり、最後には、風がふくたびに、いっせ
 いに波たち騒ぐ、ぼうぼうたるすすきの群落になる。繰り返していう。これ
 が、転形期の風景である。

 花田にとってはこれは「転形期」を生きる共同制作へのイメージであったのだろうが、同時に違和感を抱えながら生き抜く指針でもある。ただ、ここにある前衛性はやはり後衛を導くものとして作用している。つまりは、それが語られている文学運動であり、前衛の条件なのだ。あくまでも主体は違和感の中を歩き始める。それは、集団によって拡がりを獲得しながら移行する。そして風景は変わるのである。しかしながら、ここで問われるのはすすきであり、やはり集団の質になるだろう。なぜなら、民主的であることの基本とは、集団の選択自体を受け入れながら、それを問い直すことであるはずだからだ。

  文学運動のばあいは、まず因習にとらわれない個人というものがあって、
 それらの個人によって、一つの集団が形成される。

 しかし、その集団を支持するものは何者なのか。これが極めて個人の主体性を震えさせる。僕らはむしろ、その震えにあるよりも、凍てつく精神を溶かす地点に前衛性を見つめるべきなのかもしれない。花田清輝から示唆される力として。
 だが、その困難な状況もすでに語られている。集団を支持する何者かの問題は、集団化を可能とする何者かの存在と同時にある。大量消費時代は前衛性と商品化とを等質に実行しようとする。仮に、それが質の向上を必要条件としても価値は流通の数によって判断される。あらかじめ、より多くの消費者を持ち、それが取りも直さずよりグローバルであるとして、あらかじめ要請されるのだ。
 もちろん、ミニコミ誌に代表される別のコミューン的流れもあることを見落としてはいけないのだが、商品として飲み込まれていく前衛性、この場合の前衛性は適度な新鮮さと言い換えることができると思うのだが、ある多大な支持によって容認される前衛性について花田は終章の「金いろの雲」最終部で書く。

  そして、狩野派は、(中略)独自の初期風俗画の一ジャンルをうみだした
 のである。しかし、江戸時代にはいると共に、依然として、『洛中洛外図』
 は、永徳の亜流によって制作され続けたが、そこでは、もはや天正期風俗画
 にあったような創造的熱気はうしなわれている。むろん、そこでもまた、都
 の生産面の風俗がまるで閑却されているわけではないが、それよりも、むし
 ろ、消費面のそれが強調されているのが目立つ。

 複製技術の時代を生きる僕らにとって、これは当然の状況なのだと考えられる。さらに、ジャンルの達成は、むしろ短いスパンで加速的にすすむ商品化で、なおざりにされていく。例外なくいっさいは消費財としてあることを要求されているのだ。だが、それを批判しながらも生きるためには、あるいは容認しながら生きるためには何が必要なのだろうか。
 この時、現在を常に「転形期」という時空間として認識する花田のまなざしが煌めくのである。第二評論集『復興期の精神』からこの『日本のルネッサンス人』に至るまで、時代を復興期さらに変わろうとし続ける「転形期」として考え続けた花田は、その時間、空間の中で開かれていこうとする「生産面」に期待を失わない。ウンベルト・エーコは「開かれ」について『開かれた作品』の中で次のように記述する。

  多様な方法で理解され、様々な相補的解答を促すその言述がもつ可能性こ
 そ、物語作品の〈開かれ〉と定義しうるものなのである。

 ロラン・バルトの「書きうるテクスト」あるいは「読みうるテクスト」から「書きうるテクスト」への価値転換と同義的な意味だと考えられる。これは、さらにエーコが書くように「解釈者の中に意識的自由行為を助長させ、彼を無尽蔵の関係からなる網目の能動的中心として措定しようとする」はずである。この解釈者を揺さぶる精神の運動が「転形期」の生産者の精神の運動である。エーコは「開かれ」を擁護し、「不変」との差異を語る。

  仮定系を有機的条件において保持することと、それをまったく不変のまま
 保持することとの間には、ある種の差異が介在する。我々が思惟する存在と
 して存続するためのもう一つの条件は、まさに我々の知性と感性を発展させ、
 あらゆる習得経験が我々の仮定系を豊かにし、修正することができるように
 することである。

 その「有機的条件」へと賭けられていく行為を、花田は個人主義を超える主体性として語る。如拙の「瓢鮎図」から、地震を静めるためにナマズを瓢箪で押さえようとする行為について花田は「ナマズ考」という一章で考察する。

  地震のさい、竹藪のなかで瓢箪の酒をのんでいるようなやつよりも、竹藪
 から飛び出して、瓢箪でナマズを押さえつけようとするやつのほうが、まだ
 しも見どころがあるようにおもわれる。たとえ瓢箪でナマズを押さえるよう
 な行為がシジフォスの労働のようなものであるにせよ、なにかそこには、個
 人主義の限界を突破しようとする、あたらしいうごきがみとめられるのでは
 あるまいか。(中略)
  不可能の可能性を信じて、瓢箪でナマズを押さえつけようとする騒々しい
 男のなりふりかまわぬ無分別な行動をせせら笑おうとはさらさらおもわない。
 くりかえしていうが、そこには、個人主義の枠のなかにおさまりきれない、 
 やむにやまれぬ何かがある。

 そして、この絵を正長の土一揆前夜という時期と結びつけながら、花田は農民の爆発寸前の姿を描いたのではないだろうかと結論づけるのである。
 引用中の「シジフォスの労働」という言葉は花田が多用した言葉である。夢の時間を現実主義と接触させる時、持続する抵抗の時間が生まれる。ここには不断に訪れる原点という発想が見て取れる。原点を現在性の中に見いだしていく。つまりは不断に継続される反抗が語られる。
 前述の「ナマズ考」に見られる行為や、「転形期」の移行する風景を語る「古沼抄」、「カラスとサギ」などに記された連歌を通しての個人と集団の問題、集団を生成し再構築される運動と捉える視点、あるいは、仮借なく訪れる消費化とそれによる価値判断のただ中にある主体性などを語るとき、花田清輝は不動ではない原点を前提する。
 
     ○

 花田は「本阿弥光悦」の章で、光悦が、「本阿弥家中心のものの見かたから離脱」し、「転形期を生きたものの危機感」にささえられた批評眼を持ち、「転形期に特有の普遍的性格」をみとめながら、「誰よりもはげしく現在を\いや、より正確にいえば、未来を生きていた」と書く。そして、花田は「原点」についての考察を続けるのである。

  過去から未来にむかってながれる時間の縦軸のどこに自分が位置している
 か、日本から世界にむかってひろがる空間の横軸のどこに自分が位置してい
 るかを、かれは、かれなりに感じとっていたのである。つまり、それらの二
 つの軸の交錯するところに、かれは、おのれの「原点」を求めていたのだ。

 この位置はすべてに先だって先行的に存在するグローバリゼーションやローカリゼーションではないのである。遍在する地点の持つ普遍的な価値なのだ。

  かつてわたしは、「アクチュアリティ」を論じて、現在の偶然性を手がか
 りにして、過去の必然性と未来の可能性とを弁証法的に統一することがわた
 しの願いだといったことがあるが、どうやらわたしは、「原点」というもの
 を、つねに現在に見いだしてきたらしいのだ。したがって、なにかを想像し
 ようとするばあい、「原点」を\みずからの位置を、できるだけ的確にとら
 えることからはじめなければならないとはおもうが、「原点」に帰るといっ
 たようなことは考えたことがないのだ。

 最後の評論集『日本のルネッサンス人』は『復興期の精神』に呼応し、円環しているのかもしれないが、決して原点に帰るわけではないのだ。「転形期」として認識される現在における「復興期の精神」を考察し、生きているのである。
 現在とは積み残された課題と積み上げていく課題の集積場であり、見果てぬ夢への通路である。だが、ひとつひとつのリアリティーが僕らの居場所の証明なのだ。
 一九八〇年に行われたアドルノ賞という賞の授与記念講演でハーバーマスは近代から現代にわたる現代性「モデルネ」について語っている。

  今やモデルン[現代的]とは、時代精神がアクチュアリティへとたえざる
 内発的な自己革新をするさまを表現へと客観化するものを意味するようにな
 った。(中略)それは、次の新しい様式によってたえず追い越され、評価を
 落とされていくにはちがいない。とはいえ、(中略)真にモデルン[現代的]

 なものは、古典的なものとある種の秘密のつながりを保持しているのである。
 (中略)それは、過去においてアクチュアルであったものが持っている本源
 的な実質のしからしむるところなのである。このように今日アクチュアルで
 あるものが明日には昨日のアクチュアリティに転換する様は、消耗であるが、
 また同時にそれは生産的でもある。つまり、ヤウスが言っているように、自
 らの古典性を作りあげるものは現代性をおいて他にはないのだから。
   J・ハーバーマス「近代 未完のプロジェクト」三島憲一訳(岩波現代文庫)

 着地点なき彷徨としてこれを考えるか。つまり、ハーバーマスの言う「アヴァンギャルドは、(中略)そのつどもう過去にすぎないとして主観的に決めつけた過去を産み落としていくような、そうしたアクチュアリティである」ことをアクチュアリティそれ自体の創造と見るか、不毛な営為と見るか。あるいは「モダニズムは、たえず自己自身を否定する運動であり、オクタビオ・パスによれば「真の現在への憧れ」であり、まさにそれこそが「モダニズムの最良の詩人たちの秘密のテーマ」なのである」ということを強度として耐えていくことができるのか、構築の放棄として脆弱さを感じ取るのか。
 ただ、ここには強い言葉がある。アヴァンギャルド芸術の時間意識についてハーバーマスはこう語る。

  アヴァンギャルド芸術に表明されている時間意識が、徹頭徹尾、反歴史的
 であるというわけではない。ただ、偽りの規範性に対抗しているだけである。
 つまり、模範を模倣すれば事足れりと考えるような歴史理解に由来する偽り
 の規範性に逆らうのである。

 花田清輝がそのレトリックを駆使して、歴史の中に現在という「転形期」を見た営みこそがまさに、このアヴァンギャルドの精神ではないだろうか。僕らは自ずからなる現在の中に自ずからなる時間を決して模倣できないのだ。
 むしろ、精神は肉体と分離しながらも、肉体のある場、精神の動く場にあって時空共に「転形期」を生き抜くのだ。

   

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