詩誌「パルナシウス」エッセー2003年

  雷峰夕照今昔記
              
 雷峰塔が倒壊したとき、魯迅は二つの文章を発表した。塔の倒壊に「快哉」と叫び、ついで、建設のための破壊について語ったのだ。
 中国江南の都市杭州は、その美しさが西施にたとえられた西湖で知られる。
周囲一五キロの湖には、南宋のころから「西湖十景」といわれる景勝地があった。そのひとつが「雷峰夕照」と名づけられた、夕日に照り映えた雷峰塔である。この塔は九七五年に呉越国の王によって建立された。その後、火災にあい、
八面五層(七重とも記されている)の塔は木材部分を消失し、レンガだけの裸の塔になった。図象や絵はがきに残っている雷峰塔は玉蜀黍のような姿である。
 しかし、塔は玉蜀黍のままであり続けることもできなかった。清朝末から中華民国の初期、人々の間で、雷峰塔のレンガは家内安全や養蚕に御利益があると盛んに伝えられたため徐々に盗まれていった。そして、一九二四年九月二十五日、ついに轟然と崩れ落ちてしまったのだ。「雷峰夕照」は名前だけになってしまった。
 さて、魯迅だが、彼は一九二四年十月二十八日に「雷峰塔の倒壊について」を発表している。「白蛇伝」の話を語り、相愛となって人間と結婚した白蛇を法海という僧が雷峰塔の地下に埋めてしまったことをよけいな世話と断言し、塔が倒れたことで白蛇が解放されたことを喜んでいる。一方、法海はよけいな世話を天帝にとがめられ、処分されようとしたところ、蟹の甲羅に逃げ込んでしまう。呉越地方にいるメス蟹にはその中に「蟹坊主」と呼ばれる部位があるらしい。魯迅はそれを甲羅に逃げ込んだ法海だと語る。塔が倒れて、白蛇は外に出られたが、蟹の種族が滅びない限り法海は外へは出られない、「いい気味だ」と書いている。辛亥革命後の思想の一端や気分が伝わってくる文章である。
 そして、二五年二月に「ふたたび雷峰塔の倒壊について」を発表する。魯迅は、「西湖十景」が欠けたことを愉快に思うと書く。景色の十景、菓子の十銘菓など、われわれは「十景病」を患っている。それが欠けるのは「いい薬」だと述べたあと、魯迅は破壊について言及する。「こうした自然におこる破壊では役に立たぬのだ」と続け、「風流人と信者と伝統主義者」は「うまい口実をつくって、もういちど十景をそろえるにちがいないのだ」と語る。さらに、魯迅は「破壊がなければ新しい建設はない」しかし、「破壊があっても新しい建設がかならずあるとは限らない」と書く。そして、レンガを盗む農民を卑近な小さな例と見て取りながら、私利私欲の「奴隷式の破壊作用」で「古い慣習」を繕っていては建設はおこらないと説く。この文章の後半は激烈になる。「毎日、中華民国の柱石を抜き取ろうとしている奴隷どもが、今日どれほどいることか!」と。もう農民の話ではない。「すべての言動や思想のなかに、それを私有の手段とする兆候をふくんでいるものは盗賊である。それを目先の小さな利益の手段とする兆候をふくんでいるものは奴隷である。その前にかかげられているのが、たといどんな立派な、美しい旗であろうとも。」と、魯迅は文章を結んでいる。ここには革命の夢と現実が、強い批判性と警鐘性を持って存在している。「瓦礫の野にいるのは悲しむべきことではない。瓦礫の野で古い慣習を繕うことこそ悲しむべきだ。」と書かれた魯迅の文章は、現在の社会情勢を考えたとき、奇異に思えるのだろうか、妥当と思えるのだろうか。
 その雷峰塔が二〇〇二年十一月に再建オープンされた。魯迅の言とは違う形でだが、十景は復活した。一角は公園となり、塔自体がどこまで往時の姿に復元されたかははっきりしない。むしろ、現代の雷峰塔を建立したと考えた方がいいのかもしれない。華美さと新しさがテーマパークのような印象を与えるのは、この国が歴史的建築物を再建保護するときによくあることのような気がする。ただ、新しく建設された塔の一階には、かつての塔の残った部分と地下宮殿(地宮)が、巨大なガラスに囲まれて保護されながら展示されている。遺跡となった塔を覆って、その上に新しい雷峰塔を建てる。いわば新しさと古さの二重構造を作り出している。唖然とした。古さを懐に納めた新しさとでも考えればいいのだろうか。エレベーターで登った最上階は、黄金ばりの天井に、これまた無数の黄金の仏が浮き出ていた。一瞬、目がくらんだ。この夏雷峰塔から見た西湖は、煙雨の中だった。

      参考と引用 竹内好訳「魯迅文集3」(ちくま文庫)
             竹内実 「中国長江歴史の旅」(朝日新聞社)

(2003年12月パルナシウス133号)

詩誌「パルナシウス」エッセー2002年

   鐘−大鐘寺
          

 北京の北西、三環路と呼ばれる環状道路に沿って大鐘寺という寺がある。
大鐘寺は正式には覚生寺といい,清代雍正帝の時一七三三年に建てられた寺である。ここに永楽大鐘という巨大な鐘があることから、俗称大鐘寺と呼ばれるようになった。
 永楽大鐘とは、明の永楽年間、今から五〇〇年前に作られた鐘である。重さ四六・五トン、高さ六・七五メートル、直径三・三メートルという。北京にある有名な鐘楼、鼓楼が方形を積み上げた形をしているのとは違い、儀式的な感じを受ける上円下方形の鐘楼の中にこの大鐘はある。
 大鐘には百種類二十三万字もの経文が鋳出されている。そこに刻み込まれた文字には不朽であろうとする経文への意志と、音となって四方に広がるようにとの願いが込められているかのようである。残念ながら、この鐘の音は聞くことが出来なかったのだが、旧暦の晦日には鳴らされるらしい。音は五〇キロ先まで聞こえると言われている。外見の瑞々しいと形容できそうな生命感、形状のバランスのよさは音色のよさを想像させる。「鐘王」と呼ばれるにふさわしいのではないだろうか。
 ここでは鐘楼二階からつり下げられた大鐘を上から見ることが出来るようになっている。二元払って鐘楼二階に上がることが出来るのだ。その時、十枚の角銭を渡され、上から鐘の上部に空いた穴にその硬貨を投げ入れる。入れば到福となる。お賽銭を投げることはともかくとして、二階に上がると、精緻に、もしかしたら武骨にかもしれないが、作られた、鐘を釣り上げる柱組を見ることが出来て楽しい。井桁に組まれた巨大な柱が結びつけられた竜頭を支えている。いままで寺院の鐘を見たときに、その鐘にばかり目がいって、支えている支点に注意が向かわなかったが、鐘を上から見たことで、それを釣り下げる力学的な技術に驚いた。叩かれて揺れる所まで考えられているのだ。この重い物を、置くのではなく浮かすということに改めて感心した。
大鐘寺は六百個程の古い鐘が集められ古鐘博物館となっている。そんな鐘の、楽器としての洗練が編鐘と呼ばれる楽器かもしれない。
 大小たくさんの鐘を、音律を整えて二段に並べて釣るし、数人が撞木やばちで鐘を叩いて音を奏でる楽器が編鐘である。長さは一部屋を占めるほどになり、高さは二メートルをこえている。出土されたものにもよるが五オクターブを刻むものもあるらしい。この寺のなかに編鐘が展示されていた。
 五年ほど前、武漢の湖北省博物館で、一九七八年に曽候乙墓から発見された編鐘の演奏を聴いた。おそらく大鐘寺の編鐘はこれのレプリカだと思う。二四〇〇年前というから紀元前五世紀ごろの編鐘である。中国の春秋戦国時代であり、日本では縄文期になる。この楽器のやや扁平な鐘の形状を見ると、弥生期の銅鐸も音を出すもの、つまりは楽器として祭祀で使われていたとする説も頷ける。
音を出す装置は、それこそ単なる道具の状態も考えれば、人類の発生から存在したのではないかと思うのだが、当然のように権力の集中や集団の肥大化に伴って楽器として巨大化していったのであろう。音と同時に姿それ自体が祭器として権威の象徴として存在したのだと思う。その後、楽器は洗練に向かいながら小型化に進むと考えられるが、聖堂自体を楽器化したかのようなパイプオルガンや、からくり化で建物全体を音響にするカロヨンなども巨大化の極点を示しているという気がする。
 そして、編鐘も、中央の長い三枚屏風のような配置で聞く者を音で包み込み、琴や笛などと合わせて曲を演奏する音楽であると同時に、叩く鐘や叩く鐘の場所によって音を変化させる祭祀の道具として圧倒的な力を示したに違いない。惑星を音符化したケプラーを思うまでもなく、そのまま量的な力で、この音は世界を示し、静め、時には動じさせたのだろう。礼楽が秘の伝授であったことなども考えてしまう。
 大鐘寺では、CDを買った僕たちに服務員がサービスをして、第九のメロディを叩いてくれた。また、僕らにもばちを貸して、編鐘を叩かせてくれた。叩く部位で違う音を出す。反響と厚さの問題なのだろうが、空気の揺れを感じることが出来た。
今、部屋には、その時買った景泰藍の鐘が並ぶ編鐘のミニチュアがある。近くを歩くたびに、振動や風で音をたてている。とても心地良い音だ。そして、興味は人のたてる音である声に向かう。(2002年3月 126号)

詩誌「パルナシウス」評論2000年

   子規を巡る
        

 百年間空しく瓦礫と共に埋められて光彩    
を放つを得ざりし者を蕪村とす。
       (正岡子規『俳人蕪村』)

 正岡子規は『俳人蕪村』において、当時、支配的で唯一のように評価されていた芭蕉に蕪村を対峙させる。そして蕪村の中に様々な美を見つけだしていく。彼は「文学の標準」を美の判断の基準と考え、「標準」の言葉化を図る。
 しかし、果たして「文学の標準」といったものがあるのだろうか。すべてに通用するものさしはあるのだろうか。子規は、「人々に答ふ」の中で「既に標準といふ、古の歌を評すると今の歌を評するとによりて相異なるべくもあらず、東洋の歌を評すると西洋の歌を評するとによりて相異なるべくもあらず。古今東西に通ずるとはこの事なり。千人万人の標準が一定せりなどといふにあらず」と記す。グローバリゼーションと受け取れるような「文学の標準」の規範性を告げるのだ。と同時に彼は、その標準の個別性を擁護するのである。普遍性と個別性を「標準」の持つ性格として記述しているのである。
 僕らは、この個別性を当然のこととして受け取っているのかもしれない。だが、子規は伝統との格闘の中で個の持つ「標準」を伝統の持つ「標準」に対峙させたのである。また、僕らは自分に問わなければならない。本当に個別性に根拠を持った価値評価をしているのだろうかと。さらにグローバリゼーションに関しては、僕らはそこまで世界基準を視野にいれているのだろうかと考えてしまう。むしろ文化相対主義の中で、当初から古今東西に通じる「標準」を諦めてしまうか、ある一元化した価値を世界基準と考えてしまい、「千人万人」を忘れてしまっているのではないだろうか。
 つまり、子規は、彼の時代の支配的価値に対して、見ることと言葉化することの情熱をぶつけているのである。この情熱が、人の目(支配的価値)で見て、アナロジーへと向かっていく態度を拒絶する。
見るとは対象の多様性を受け入れることである。子規の「写生」の重要な側面が、ここにあるのではないだろうか。主観を排すとは、既成を排すということではないのだろうか。ある既成の価値にのって見ることは多様性へと開かれてはいかない。刻々と移り変わる日射しによって対象が変わるように、見ることは対象の多様性へと開かれていくものなのだ。
 しかし、後年、僕らは近代化が進む中で、自己の複雑さと多様性を見いだしていく。当然、主観を排すの持つ意味は変わっていく。むしろわが内なる他者へのまなざしは、主観の排し難さを表現に刻みつけていくことになる。
『俳人蕪村』に話を戻す。この文章から推し量れば「芭蕉」という名は、ひとつのブランドになっていたようだ。子規はその支配的価値に蕪村を対峙させる。俳句という固有の形式について、その形式の内部から批判を加えることで、俳句というジャンルの近代化を図ろうとする。他の詩の形式を持ってくるのではなく、その独自性を際だたせる方法をとっている。そして、俳句の言葉の自由な広がり、様々な美の価値を示していく。
 子規は美を多面的なものと考えている。言葉を柔軟で自由なものと考えている。美しいと思った対象には必ず、その美の根拠がある。それは一義的なものではなく、様々な美の根拠を持っていると語っているようだ。その美は言葉化されることで批評となり「文学の標準」となる。彼は言葉化することに情熱を傾ける。言葉が示すものは限界である。だが、言葉そのものは多様な姿を示すことで表現の地平を広げていこうとするのである。言葉の示す限界は幾重にも層をなしながら、限界を拡大していく。だが、同時にそれは、語り得る境界の拡大でもあるのだ。一義的な価値は多義的な価値の前で、その限界を露呈する。この衝突が現在なのではないだろうか。
 動的で変異性を孕み、不定形でありながら、一回性のもので、不可逆的だが類似を繰り返すことが出来る状態がレアであり、現在である。現在とは伝統の集積であり、伝統とは一本の幹ではないのだ。経過する時の中で、伝統に対峙させた現在は、新たな伝統になったり、伝統の中に吸収されたり、弾かれてしまったりするだろう。すると、反復が生まれる。その反復は伝統の反復であるのか、永続的に現在を対峙させ続ける行為の反復なのか、ことは自らとの関係性の問題になる。つまり、態度である。新しさがすぐ定型となる繰り返しの中にあって、また、新しさがすぐ消費される状況にあって、関係の結び方が絶対性を獲得する。態度において、個人は、現在の中で個人として複製化を逃れているのであろう。 (2000年6月 パルナシウス119号)

   現代詩の未来
              
    1
 面白い表題の本がある。石井辰彦の「現代詩としての短歌」という本なのだが、ここでは現代詩という言葉は現代の詩という意味として使われている。この表題を見た時、納得するまでに一瞬の間があった。現代詩という言葉が、ジャンルとしての『現代詩』ではなく現代の詩としての現代詩という言葉だと理解するまでの間があったのだ。この本の表題に倣えば「現代詩としての『現代詩』」という言い方が出来るのかも知れない。
 現代詩という言葉を聞いた時に感じた懐かしさのようなもの。それは、現代の詩という状況の中で、かつて『現代詩』として語られていたものが、拡大する「現代詩」の一部になってしまったという感覚によっているのかも知れない。
    2
「近代の詩的革命の歴史は、アナロジーとイロニーの対話の歴史であった。前者は近代性を否定し、後者はアナロジーを否定した。近代詩とは、近代世界の批判であり、同時に自分自身の批判であった」
 O・パスの「泥の子供たち」中の言葉である。詩の歴史性を考えた場合、アナロジーによる世界との親和は、転回点としてイロニーによるアナロジー批判を生み出す。近代はそれ自体の中に近代批判を孕むものであり、文化はアドルノが言うように「潜在的に批判的なものとしてのみ真である」と考えれば、詩が踏み出したアナロジーからの脱出は、当然、歴史性と文化批判を表現の核に持ったと言える。
 それは誘惑と禁欲の戦いだったのかも知れない。表現は常に親しんだものからの誘惑と、それへの禁欲を拒否の戦いとして持ったのではないかと考えられる。言葉を使うことでの日常言語とのズレは宿命的に口語の可能性と不可能性を体現しただろう。詩が展開として獲得しようとした物語性は、異化された物語として連続より切断に表現の拡大を見出そうとしただろう。また、熱情は、加担してしまった歴史への反省から、留保と冷静を併せ持つ事になっただろう。しかも、生き得る時間の一回性は、喪失された一回性の中で複製に耐え、より差異を拡大させることにオリジナルの快感を見出そうとした。つまり制度と制度化への抗いであった。
個人対社会という近代の図式は実際的には集団対社会の内容を含みながら、世界としての社会への親和から離れていった。そもそも、前提であるかのように存在する個人対社会とは、人を世界の中でしか存在し得ないものと考えた時に同時に成立した図式である。その個人は実はさらに分断されていく。
 ブレヒトの演劇論集に「演劇は世界を変革できるか」というものがある。この問いは世界ビジョンを巡る戦いである。ところが、「われわれ」はいつか「わたし」になり、世界の中でしか生き得ない自己は外部への強い欲求を持ちながら、外在し得ない自己の中で、世界の意味を組み換えるあらゆる解釈に向かおうとしたのかも知れない。探求から解釈への流れが用意された。当然、この解釈は認識に結びついている。しかし、真実はすでに失われているのである。
 笠井潔の小説「サマーアポカリプス」の主人公矢吹駆の「悪の根拠は、私への度し難い執着にあった。私と他者が、私と世界が親和しえないならば、他者の方に、世界の方に消えてもらわなければならない」という言葉を思い出す。悪の根拠である、この衝動を、表現に移し換える行為が、同時に表現の場を支えたのではないか。「われわれ」が「わたし」に解体されそうな予感の中で、変革は振幅する。世界に亀裂を入れるといった、連続に対しての切断を企図するのである。
 ところが、近代の批判が生み出した風景は、批判の連続の中で着地点を喪失したと言えるだろう。イロニーの繰り返しに耐えることを求められたのだ。進歩への信頼を取り去った近代が今まさに現代なのである。ここでは精神は強い着地への欲求にとらわれるのではないだろうか。変化を欲求するのではなく、変化が訪れるものとしてある今の空気の中で、人は見知らぬゴドーを待つのではなく、捉えることが出来るゴドーの姿を期待する。着地の夢はポストモダンが産み落とした時代の子である。これは悪であるか。悪の根拠を度し難い私への執着とすれば、執着を持った大いなる無私が、「わたし」の孤独の次の段階を呼んでいる。
 詩は保守化すべくして、保守化する。現代詩は『現代詩』を忘れ去ることによって、詩の存続を図ろうとしているのかも知れない。その背景は集団的無意識の了解であり、その先は見えないのである。

                  (2000年10月 パルナシウス120号)

甚・文に戻る