露切橋
この街では
道はすべて闇へと向かっていて
歩みを進めてゆくほどに影を失ってしまう
だからもう何年ものあいだ
わたしは人に本当の姿を見せたことがない
平気で嘘をつく人を前にして
わたしは愛について語ったし
敵意をもつ人の横でも
笑顔を絶やすことはなかった
言葉によって
いままで満たされていたはずの空洞が
知らぬ間に大きくな
しだいにあたりを覆いつくすから
密度を増してゆく闇を
さらにきつく抱き寄せて
わたしは眠りにつくしかなかった
すべてを知ってはいけない
不明のものはそのままに
木陰に隠しておくべきなのだ
得体の知れぬ何かを
わたしは決して
知ろうとは思わない
自らを偽るとは
現実から目を背けること
死んでしまったことさえ忘れ去ること
降り注ぐひかりに溺れて
風の行方をかぎわける
たくさんの父と母が残してくれた
陰鬱なこまぎれの記憶から
解き放たれるために
こころを軽くするために橋をわたる
見知らぬ亡霊の
悲しげな視線にとまどいながら
それらを振り切って
逃げるように橋をわたる
露切橋のたもとにあるたばこ屋で
鷹揚に道を尋ねている紳士も
じつは ちょっとしたことに怯え
母の面影をいつも求めている人だ
その証拠に見たまえ
足の方の影が
すでに淡くなっている
どこにでもある
闇のなかの
声の届かない場所まで
本当の姿を見せぬまま
わたしは歩みを進めてゆく
閑空の高みに
熱い風がほどけるように
わたしのなかの夏がゆるみはじめる
遠くから聞こえる
頼りなげで
消え入るような声に似て
淡い影だけが
揺らぎながら残っている
南の島で
少女たちの背中に残された水着の跡も
その十字の結び目も
だいぶほころんできたころ
夏から逃れられない人々が
空から降りてくる
朝顔の濃い紫は
鬱血した露のしずくだ
おびただしい血のあいだに
しゃがみこんだまま
永い年月をつかって崩れてゆく父
曲がった背中から汗が噴き出している
きのう
散歩の途中ですれ違った禿げあがった男
かれの背広を脱がすのも
わずかに残っている灼けた風の匂いだ
汗のとおったシャツ越しの背中には
やはり
わたしと同じように傷があるはずだ
だが もう忘れよう
忘れてしまおう
表情をなくしてゆく父たちのように
わたしも記憶を消し去ってゆこう
カモメがくしゃみする海
底に眠る声が潮風に震えている
見上げれば
空の高さに驚く季節になっている