
| 獅子の誕生 | |
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王制時代のアフガニスタンは、首都カブールを中心に近代化が進められていたものの、大半の地域は部族の長老が支配する伝統的な社会のままであった。近代化の恩恵を受けたのは特権階級だけで、国民の大半は土地をもたない貧しい小作農民であった。 しかし近代的教育を受けたアフガン人の中から、国家を近代化し社会の不公正を是正しようと考える者たちが現れた。こうして二つの潮流……社会主義とイスラム主義が台頭し、アフガニスタンを揺るがすことになる。だが時代は米ソが対立する冷戦のさなかであった。アフガニスタンの革命はソ連の思惑によって長い動乱を引き起こすに至ったのである。 | |
| 1952 | パンジシール渓谷ジュンガラック村に王国陸軍将校ドスト・モハマッドの三男として生まれる。本名アハマド・シャー。 地主階級であったドスト・モハマッドは敬虔なムスリムで、マスードも幼少期から大人と共にモスクでの礼拝に参加していたという。父親の転任に従ってアフガニスタン各地に居住したマスードは、多様な民族と文化が共存する祖国という終生の理想を育んだ。 |
| 1972 | カブール大学工学部建築学科に入学。イスラム青年運動に参加。 |
| 1973 | 国王ザヒル・シャー、甥ダウドのクーデタにより追われる。アフガニスタンはソ連の衛星国化し反対派の粛清とイスラムの抑圧が行われる。 学業を断念し帰郷。 |
| 1974 | 武力蜂起を企てて失敗、パキスタンに逃れる。 蜂起の失敗が、グルブディン・ヘクマティアルとの長年にわたる確執の原因となったと言われる。マスードはこの失敗により、民衆の支持抜きに革命は成らないという教訓を得たと述懐している。 ブルハヌディン・ラバニ(のち暫定政権大統領)のイスラム協会に参加。軍事知識の修得に努める。 この頃より同志名マスード(幸運なる者、の意)を名乗る。 |
| 1978 | ダウド大統領暗殺されアミン政権が発足。 28人の同志とパンジシール渓谷に帰還、5丁の自動小銃で反政府闘争を開始。 |
| 1979 | パンジシール渓谷から政府軍を駆逐、解放区を設立。カブールとソ連を結ぶ大動脈サラン・ハイウェイの襲撃を開始。 12月、十万のソ連軍がアフガニスタンに侵入、アミン議長を殺害しカルマル政権を発足させる。 アフガン戦争の開始。 |
| ソ連との戦い | |
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ソ連の侵攻に対して立ち上がったゲリラはムジャヒディン(聖戦士)と呼ばれたが、彼らはいくつもの党派に分かれていた。アフガニスタン国内の民族集団を基盤とする各派は、ソ連と戦う一方で対立する勢力と血みどろの抗争を繰り返した。マスードは同じアフガニスタン国民として人々が民族や宗派の違いを超えて結束し、外国に干渉されない自主独立の国家を作ることを目指し、ムジャヒディンの統一工作を続けた。 | |
| 1980 | ソ連軍パンジシール渓谷への第一次攻勢(兵力5千)、第二次攻勢(兵力1万)を撃退。 十万人を越えるソ連駐留軍の消費する莫大な補給物資は、サラン・ハイウェイからのトラック輸送に依存していた。パンジシールを拠点としたマスードは、戦争の全期間を通して千両を越える輸送車両をサラン峠で破壊し、ソ連軍を消耗させた。 このためソ連軍は執拗にパンジシール制圧を試みたが次々と撃退され、100万ドルの懸賞金をかけてもマスードを捕らえることはできなかった。亡命先から指示を出す他の指導者と異なり、国内にとどまって勇敢に戦い、私心なく人々に尽くすマスードは、ムジャヒディンの輝ける星として「パンジシールの獅子」と謳われるようになった。 |
| 1981 | ソ連軍第三次攻勢(兵力1万5千)、第四次攻勢(兵力1万5千)を撃退。 |
| 1982 | ソ連軍第五次攻勢(兵力3万)を撃退。 |
| 1983 | ソ連軍第六次攻勢を撃退。「国を解放したら、国民が信頼できる政治家にあとは任せて、大学で勉強しなおしたい」 ソ連軍と半年間の休戦を締結。 マスードが外部から得た援助は限られ、ほとんど敵から奪った武器で戦っていた。パキスタンを介したアメリカの軍事援助の大半はパシュトゥン族中心のヘクマティアル派(イスラム党)に供与されたが、ヘクマティアルはソ連のみならずマスード派への攻撃を繰り返していた。 ムジャヒディンの多くは麻薬栽培に手を出したが、マスードはパンジシール渓谷で採掘されるラピスラズリやエメラルドを資金源とした。 |
| 1984 | ソ連軍の第七次攻勢。戦略爆撃機40機が一週間にわたり渓谷を絨毯爆撃(衛星軌道から爆炎が確認されたという)、空前の兵力(兵力5万、装甲車輌500、戦闘ヘリ・ジェット戦闘機200)が侵攻するも半年後に渓谷を奪還。 |
| 1985 | ソ連軍第八次攻勢を撃退。 |
| 1986 | ソ連軍第九次攻勢を撃退。以後、ソ連軍はパンジシール制圧を事実上断念する。 マスードはばらばらに抵抗してきたムジャヒディンの連合戦線を組織する活動を続けた。ソ連軍の猛烈なパンジシール攻撃を支えたのは、周辺地区のムジャヒディンの支援であった。 マスードは抵抗のかたわら学校や病院を建設し民生に尽力した。彼は戦後の再建のために人材育成を重視し、教育の普及と女性の地位向上を目指した。自分の子供たちにも「兵士ではなく人々に奉仕する教師か医師になるように」と言っていた。 |
| 1988 | ソ連軍がアフガニスタンより撤退開始。カルマル失脚しナジブラ政権が発足。 タハール州都タロカンを解放。 |
| 1989 | ヘクマティアル派を中心とするムジャヒディン連合軍、カブール東方のジャララバードに総攻撃をかけるが大損害を喫して撃退される。 ジャララバード攻撃は、アメリカとパキスタンが現地指導者の反対を押しきって推し進めたと言われる。この敗戦により共産政権の早期崩壊の見込みは遠のいた。この敗戦はムジャヒディン各派の内紛を激化させ、内戦の遠因となる。また政府軍のウズベク人部隊を率いたアブドゥル・ラシッド・ドスタム将軍は、この戦いをきっかけに影響力を強める。 |
| 1991 | マスード派指揮官十数名がヘクマティアル派の襲撃で殺害される。 |
| 1992 | マスード、ドスタム将軍と結び北部の要衝マザリシャリフを解放。 ナジブラ政権崩壊。政府軍を吸収しカブールに入城。暫定政府国防相に就任。 |
| 大包囲網の中で | |
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マスードは自由選挙による民主的な政府の樹立を目指したが、タジク民族のラバニを首班とする暫定政権に多数派のパシュトゥン人は反発した。また国家再建のため経験豊富な旧政府の人材をマスードが受け容れたことも反発を強めた。とりわけウズベク人部隊を率いるドスタム将軍の処遇が火種となった。 暫定政権に対し最も強硬な態度を取ったのは、戦争中にマスードを度々攻撃したヘクマティアルだった。ヘクマティアルの背後には、アフガニスタンを間接支配しようとするパキスタンの思惑があった。 | |
| 1993 | ヘクマティアル派がマスードとドスタムの排除を要求してカブールを攻撃。ラバニ大統領は譲歩により鎮静化を図る。「誰もが椅子に座りたがっている時は、床に座っているべきだ」と国防相を辞任。ヘクマティアルが首相に就任。処遇に不満を持つドスタム将軍も暫定政権から離反し北部に割拠。 全権掌握を目指すヘクマティアル首相がドスタムやハザラ人勢力と組んで再度反乱、カブールを攻撃。 |
| 1994 | ヘクマティアル派、カブールを無差別砲撃。多数の市民が殺傷され市街は瓦礫と化す。ヘクマティアル派を市外に撃退。 泥沼の内戦でムジャヒディンの士気は荒廃し、掠奪や暴行が相次ぐ。またISI(パキスタン軍情報部)も治安撹乱工作を進めたと言われる。マスード自身、不正行為に加担した90名の指揮官を投獄したが、戦闘のため釈放せざるをえなかった。混乱の中で暫定政権は民衆の支持を失っていった。 パキスタンに支援された原理主義過激勢力タリバンが治安回復を掲げて決起。各地の武装勢力を制圧しアフガン南部を席捲。 「タリバン」とは神学生(タリブ)の複数形。パキスタンの宗教学校で教育を受けた、難民キャンプ出身の若者たちを中核とするパシュトゥン民族勢力であった。 タリバンは各地のムジャヒディンを次々と買収して武装解除し、抵抗する者には圧倒的な火力を浴びせて打ち破った。豊富な軍資金と武器弾薬の供給源がISIと密輸業者であることは初期から知られていた。 |
| 1995 | ヘクマティアル派・ドスタム派・ハザラ民族マザリ派の大連合がカブールを包囲、加えてタリバン軍が南から侵攻。これらを巧みな戦術で次々と撃破する。はじめて敗退したタリバン軍が矛先を転じたヘクマティアル派は崩壊、その兵力はタリバンに吸収される。西部の要衝ヘラートが陥落。 カブール市内のハザラ人居住区を拠点としたマザリ派が暫定政府を攻撃したことにより、激烈な市街戦が生起し、多数の市民が巻き添えとなった。このためマスード派はハザラ人を虐殺したとの非難を浴びたが、マスードが故意に市民の殺害を命じたと断定する根拠は乏しい。敗北したハザラ人勢力はタリバンに庇護を求めたが、指導者のマザリはタリバンのヘリコプターから空中に投棄された。 この頃、タリバンの最高指導者ムラー・ムハンマド・オマルは、カンダハルの聖所に安置されていた預言者ムハンマドの外套をまとい、「アミール・ウル・モミイーン(信徒の指導者)」を自称しアフガニスタンの首長であることを宣言した。これはマスードのみならず世界のイスラム教徒にとって、イスラムへの重大な侮辱と受け取られた。 |
| 1996 | ヘクマティアルが暫定政権への再合流を求める。多民族の協調を理想とするマスードは快諾するが、ヘクマティアル派指揮官が買収され防衛線崩壊。市民の被害を避けるためカブールを明け渡しパンジシール渓谷に撤収。 マスードは首都撤退に際し、国連機関に保護されていたナジブラ元大統領を車で脱出させようとしたが、ナジブラは同じパシュトゥンであるタリバンを宛てにしてカブールにとどまった。タリバンは国連機関に踏む込むとナジブラ兄弟を惨殺、死体を引きずり回した。 ヘクマティアルはタリバンに捕らえられたがオマルと旧知であったことから助命され、イランに亡命した。女婿が残党を連れてマスード派に投じたためその勢威は失墜したが、マスード死去の際には嬉々として吹聴しタリバンとの同盟を宣言した。 |
| 孤塁の獅子 | |
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カブールを占領したタリバンは、犯罪に厳しく対処し治安を回復させたため、当初は市民に歓迎された。しかしパシュトゥン農村地帯の慣習法をイスラム法と混同した、独自の宗教的見解(タリバン指導者の大半は無学で神学や法学の素養は無かったことが原因と言われる)を、北部の他民族や都市住民にまで強要するタリバンの政策は、次第に不満を高めていった。 ユノカル社の進める石油パイプライン敷設計画を支援していたアメリカ民主党政権は当初、タリバンがアフガン全土を支配することを歓迎していた。しかしタリバンの女性に対する差別的政策がリベラル派の非難を浴び、次第にタリバンへの態度を冷却化させていく。さらに反米テロの指導者ウサーマ・ビンラディンとタリバンの接近が、さらなる悲劇をもたらすことになる。 | |
| 1997 | マリクのクーデタによりドスタム将軍がマザリシャリフから追われる。マリクと結んだタリバン軍はマザリシャリフを占領、ヘラート州知事イスマイル・カーンを捕らえる。 パンジシール渓谷にタリバン軍が総攻撃を開始。マスードはカブールを衝いてタリバン軍を後退させ、さらにサラン峠のトンネルを爆破。北部のタリバン軍主力部隊はマザリシャリフに孤立する。 マリクはドスタム配下の司令官であったが、ドスタムが兄を殺したと疑い反乱した。 イスマイル・カーンは旧政府軍の軍人出身。「ヘラートの獅子」と呼ばれマスードと共に北部同盟の双璧と言われる。 マザリシャリフを制圧したタリバン軍、武装解除を強行してマリクの反撃を受け、大部分がハザラ族兵士に虐殺される。 ドスタム将軍、マリクを追放しマザリシャリフの実権を奪還。 この年、アメリカの圧力でスーダンを追われた過激派指導者ウサーマ・ビンラディンがタリバンの庇護下に入る。彼は対ソ戦争に参加したアラブ人義勇兵(アラブ・アフガン)であり、彼の下には過激派や義勇兵が集まった。これがアル・カーイダだとされる。これ以後、タリバンの政策は対外的にも強硬なものとなっていく。アメリカはラディン引き渡しを求め、国連に働きかけて経済制裁を加える。 各地の軍閥を吸収し総兵力6万人に達したタリバンに対し、マスードの兵力は2万人を下回った。しかし北部で中核戦力を失ったタリバンは、強制徴募を繰り返してパシュトゥン人からも不評を被り、パキスタン兵やアラブ・アフガンへの依存を深めていった。 |
| 1998 | ドスタム、ハリリらとアフガニスタン救国統一戦線(北部同盟)を結成、総司令官に就任。 タリバン軍、北部の大都市マザリシャリフを占領。ドスタム将軍は国外に逃亡し、国内で抵抗を続けるのはマスード派のみとなる。 アフガン北東部に大地震。パンジシール渓谷も大きな被害を受ける。被災民救援に奔走。 マザリシャリフを占領したタリバンは、前年の報復としてハザラ族住民を虐殺。以後も繰り返しハザラ人を虐殺した。またタリバン兵士がイラン外交官を殺害したことにより、イランとの関係は最悪となる。 この頃、タリバンの最高指導者ムハンマド・オマルの投降要求を拒否。「あなたが国民の支持を得ているというなら選挙をしよう。あなたが支持されているなら私は従う」。 一連の奇襲攻撃により北東部国境地域を奪還、北部の要衝タロカンを奪還。 米国議会外交委員会に書簡を送る。 マスードはタリバンを、パキスタンの傀儡勢力とみなしていた。祖国の独立を求める彼にとって、タリバンへの降服は問題外であった。北部同盟とタリバンは和平交渉を繰り返したが、いかなる譲歩も拒否するタリバンによってその都度打ち切られている。 マスードはイスマイル・カーンとタリバン兵捕虜の交換を提案したが交渉は不調に終わる。 |
| 1999 | タロカン、パンジシールに迫るタリバン軍を撃退。 タリバン軍、焦土戦術を取りシュマリ平原の農村を破壊。90万人の難民がマスードの支配地域に逃れる。 |
| 2000 | イスマイル・カーンがカブールの牢獄より脱出。 トルコに亡命していたドスタムとマリクが和解する。 タリバン軍の新たな攻勢によりタロカンから撤退。最大の窮地に立つ。 タリバン軍にはビンラディンのアル・カーイダ部隊の他、パキスタン正規軍2個旅団が加わっていた。マスードはパキスタン兵捕虜や偽装車輌の詳細な情報を国連に報告している。数十日間の攻防でマスードは敵に2000名以上の損害を与えたが弾薬の欠乏により撤退を余儀なくされた。 マスード派の支援者はイランやインドだが、その援助は微々たるものであった。相変わらず宝石採掘を資金源とする彼らの装備は非常に劣弱であった。 |
| 最後の戦い | |
| 2001 | 4月、 欧州議会を訪れ人道的支援を要請。「私たちが戦いを止めればテロリズムは世界に広がっていくだろう」「欧米諸国に物乞いはしない。決めるのはあなた方だ」。 アフガニスタンに帰還したドスタム、イスマイル・カーンらと総反撃を準備。 9月9日、レポーターを装ったテロリストの自爆攻撃により死去。 9月11日、アメリカ同時多発テロ。米国政府はウサーマ・ビンラディンの犯行と断定。 9月16日、故郷ジュンガラック村を望む丘に埋葬される。葬儀には数万の民衆が参列。 9月25日、生前の計画に従い北部同盟の総反撃が開始される。 10月5日、アメリカ軍の航空攻撃が開始される。 11月10日、北部同盟軍マザリシャリフを奪還。 11月12日、北部同盟軍ヘラート、バーミヤンを奪還。 11月13日、北部同盟軍カブールに入城。 12月8日、タリバン最後の拠点カンダハルが明け渡される。タリバン政権の消滅。 12月22日、アフガニスタン暫定統治機構発足。発足式典会場にはマスードの遺影が大きく掲げられた。 マスードは暫定政権より「アフガニスタン国家英雄」の称号を追贈されている。 マスードの墓所は「殉教者の長の丘」と呼ばれ今も参詣者が絶えない。民衆の中には墓参によって病疾が癒されたと信じる者もいるという。 |