龍の頂
龍の頂
雪の峠を登っている。
一面ただ真っ白だ。正面から吹雪を受けて足取りは重く、全身の骨が軋みを立てる。
辛うじて頭をめぐらすと雪の中に点々と黒い影が浮び上がる。それは槍を杖にした幽鬼のような兵士であり、前脚を蹴り立てて必死
に雪だまりから逃れようとする軍馬であり、谷底へ転がり落ちていく荷車であった。ひょうひょうと鳴る吹雪の中、声を嗄らして兵を
叱咤するが、もう大半は雪渓に転落してしまったようだ。
白銀の帳の中では目指す頂さえ定かではない。まだ半分も来ていないらしく登り道が延々と続いている。いや、そもそも登攀は始ま
っておらず、まだ麓の野営地にいたのではなかったか。自分は天幕で夜明けを待っているのではなかったか。
そんな疑問にうつらうつらしていいると、視界の中におぼろげな影が浮ぶ。透き通った女性が氷雪の向こうから呼んでいる。泣いて
いるようでもあり、嘲笑しているようでもある。いや、もっと違う何かの声だ……。
将軍はそこで目覚めた。天幕の間から洩れる微かな光からすると、夜明けはまだ遠いようだ。将軍は胸までかけた毛布を下ろすと
身を起こし、自らの夢に自問自答した。
自分には予知の力などないから不吉な前兆であるはずがない。そう考えると、いつも見る夢の繰り返しに過ぎないとわかった。たい
ていは砂塵と渇きに兵士ともども苦しめられるのだが、それが雪山だったのは、久しぶりに北へ還ったからであろう。それにしても夢
の中で合戦には遭遇せず、苦しい行軍ばかりなのはなぜだろうか。
将軍はあの面影が誰なのか、闇の中で記憶の糸を手繰った。顔すら定かではなくなった母や姉だろうか。陣営で初めて知った娼婦だ
ろうか。それとも青春の終わりに唯一互いを理解しあい、それゆえ敵として永訣を告げた、あの街の女性だろうか。だが、そのどれと
も違うように思えた。
思いめぐらすうちに目が冴えていった将軍は、冷たい外気を吸って気分を変えようと思った。立ち上がろうとすると、日誌を抱え
たまま横たわる年少の副官に触れた。微かな寝息に将軍は微笑み、静かに天幕を開いて外に出た。一瞬、星影が眠っている副官の上
に差し、白いうなじにかかる赤髪とほっそりした顎を照らし出した。
点々とかがり火に包まれた陣営は静まり返っていた。将軍は早春の霜柱を踏みながら西の柵まで歩いていく。柵の向こうには、今日
越えねばならぬ山稜が黒々とした姿を横たえている。
柵の手前に大柄な人陰がのっそりと立っていた。胸甲をまとい、手に槍を携えた騎士である。将軍が近づいた気配に騎士は振り向く
と黒髭をほころばせた。
「おう、貴公も目が覚めたか」
二十年来の戦友であった。おのれは歩兵、彼は騎兵を職としながらも、幾多の戦場で苦楽を共にし、今は共に将官としてこの戦いに
臨んでいた。
「まあな。夜明け前に出発する。眠り直す時間はなかろう」
「谷間の出口の様子はどうだ?」
「守備隊は健在だ。敵はこの数日、攻撃を手控えている」
「だがいつまで保つものか。迂回して回り込むのは、果たして正しかったかのう」
騎士はいつになく不服げだった。
「正面から押し返しても、連中は他の出口を目指すだけだ。そんなことを繰り返しても、結局は数で押し負けてしまう。だから餌に食
いついた敵を、一気に叩き潰すのだ。
それに谷間の出口は狭い。正面からの戦いでは騎兵を展開させるのは苦しい。斜面から攻め下る方が、貴公の騎兵隊も存分に槍を振
るえよう」
「峠を抜けられればの話だわい」
騎士は山頂のあたりを指差した。峠が分厚い雲に包まれていることが星明りの下でもよくわかる。
「あの分だと峠は存外と吹雪いている。下手をすれば敵を奇襲するどころか、兵士ともども遭難しかねんぞ」
「昼には晴れるはずだ」
騎士は得心がいかぬ様子で顎鬚に手をやった。
「何やら普通の雲とは思えぬ。俺の部下の中に、この近辺出身の兵がおる。そいつの話では、麓で戦いが起きる度に吹雪があの頂を覆
うのだそうだ。今夜も我らが陣を構えてから吹雪きはじめた。山を怒らせたのではないかと不安がっておる」
「妖魔の仕業とでも言うのかな」
「なに、物の怪ならこの槍で追い払ってやるわい。だが、相手が吹雪とあってはな。手で触れられぬ相手と相撲は取れぬ」
「触れられぬ相手、か……」
将軍はしばし沈黙していた。頂を闇黒に覆った雲は、星影を受けて次第に銀色に変じていく。騎士はため息をついた。
「美しいな。だが綺麗なだけに剣呑なものを孕んでおる。
や、どこへ行く?」
将軍は柵の外へ歩きはじめていた。
「思い出したことがあってな。いや、遠くへは行かぬ。護衛は無用だ」
騎士は山への道を辿っていく人影を不思議そうに見送った。
それは将軍が年端もいかない一兵卒の頃だった。
彼の属した小部隊は偵察行の帰途、狼騎兵に待ち伏せされた。包囲を切り抜けたものの執拗に追撃された彼らは一人また一人と討ち
取られ、山際へと追いつめられていった。
初めての敗走に動揺した彼が、どうしてそんな道を辿ったのかは記憶に無い。気がつけば彼一人、盾も弓も捨て剣に寄りかかって雪
渓を登っていた。無謀極まりない逃走路であったが、それがかえって送り狼どもの鼻をくらませたらしい。
ようやく山の峰に辿り着くと雪が降り始めていた。彼は乾いた岩の窪みに身を押し込み、外套で身を包んだ。不慣れな逃走に消耗し、
仲間を失って気力が萎えたこともあって、いつしか彼は眠り込んでしまった。
横風を受けて吹き込む雪が彼の身を押し包んでいった。なぜだか暖かく、それが死に至るものであったとしても、母の膝のように心
地よかった。
深い眠りから目覚めさせたのは、何者かの気配であった。
目を開くと最初に見えたのは、真っ青な瞳だった。彼は目をしばたき、少女が見下ろしているのに気づいた。
銀色の髪を肩のあたりで切り揃え、白銀のチュニックをまとっている。細く伸びた腕と脚は、雪よりも白く透き通っている。人間で
はないな。ぼんやりと彼は思った。俺が子供だから、こいつが子供に見えるんだ、きっと。
「見なさい」少女は谷間を指した。
吹雪の巻き上がった雪原に、点々と黒い影が散らばっている。ずいぶん遠くだが、それが敵味方の屍であることがはっきり見て取れ
た。
「お前たちはずっと、山の周りで殺し合ってきた。どちらも変転する定命の種族の癖に、互いを滅ぼすことに懸命だ。私は人も鬼も好
かない。変わりゆく者は好かない」
唇は動いていないのに、少女の声ははっきりと聞こえる。
疲れて考えるのが面倒になっていた彼は、ぼんやりと心に浮かぶままに答えた。
「そうだよ。俺も奴らも死んでいく。でも俺たちは死ぬことで、消えない何かを生み出す。奴らはそれが我慢できないんだ」
少女は冷ややかな笑みを浮かべた。
「私は知っている。お前たちは、抜け殻となった肉体から離れても谷間の周りを彷徨い、生きている仲間を食らおうとする。
生きていようと、死んでいようと、お前たちの心はどちらも闇のように黒い。だが私は白い。透き通るほど白い。そしてお前たちの
命を吹雪に埋めるのだ。逃しはしない」
「なるほど貴方は白い。けど、わからずやなのは鬼どもと同じだ」
少女は手を腰に置くと、いまいましげに彼をにらんだ。
「お前たちは泥の塊だ。私は混じりけの無い氷だ」
「氷はいつか溶けて流れる。川に注いで海に流れ込むのは、貴方も俺も同じさ」
青い瞳の中に、ちらりと金の光が走った。白いしなやかな指先を彼の顎に向ける。
「お前は鬼どもと違うようだ。私のところに来なさい」
触れてもいないのにその指先は冷たく、それでいて柔らかかった。彼は少女が外見通りに子供っぽいように感じ、少々からかいたく
なった。どの道生きて戻れぬのなら、せいぜい吹っかけてやろう。
「嫌だね。貴方の言う通りにはしないよ。それよりも俺を山から降ろしてくれ。陣営に戻るんだ」
少女は顔をしかめ、冷気が彼の首のあたりを締め上げる。
「まだ殺し合うつもりか。お前には、愛するものがないというのに。命を捨てても守るべきものなど、お前は最初から持っていない。
なのに、なぜ戦う」
「兵隊だからさ。戦うことを俺は誓ったんだ。それで充分さ。それに俺が戦いを止めたら、誰かが大事なものを無くすだろう」
「戦いより大事なものが現れたら、お前はどうする」
「大事なものが大事にする、何かのために戦うさ」
少女は彼の上にかがみこんだ。空の果てのような、海の底のような、青い瞳。
「来いよ。命ならくれてやる。だが魂はやらないぞ。魂は、永遠に俺たち自身のものだ。鬼どもと違うのはそれだけかもしれない。
だが、決して変えられない違いだ」
少女の唇が触れた額に、冷たい痛みが走った。
「人間の男、お前はつまらない奴だ。これ以上は相手にしても仕方がない」
少女は笑っていた。
「いつかまたお前と会うだろう。もしもその時、お前が永遠なるものを抱き続けていたならば、私もお前を受け容れよう。
だから覚えておきなさい、私の名を……」
ぼやけていく視界に最後に見えたものは、雪の上を足跡も残さず去っていく少女の姿だった。
気がつくと静まり返った雪原に横たわっていた。そのまま長い間、青く突き抜けた空を見上げていたような気がする。ようやく身を
起こすと、麓まで続く峠道がすぐ下に見えた。谷間の陣営に帰り着いた彼は、まる一月も行方不明になっていたことを知らされた。
生還したのは彼だけだった。
生き残った後ろめたさが彼の口を重くさせたが、上官や先輩たちはさして説明を求めなかった。北国の兵士たちには、それとなく
解っていたのかもしれない。
結局、誰にも語ることのないまま記憶はおぼろげなものとなっていった。そしていつしか吹雪に体力を消耗して見た幻だったのだと
納得し、記憶の片隅にしまいこんでしまった。
それが、これから越えるあの峠だったのだ。
何故あのことを忘れていたのだろうか。いや、忘れていたこと自体に何か意味があるようにも思えた。
あれが話に聞く雪精なのか、それとももっと微かで大きな存在なのか、わからない。確かなことは、彼女もまた自分を思い出し、
待ち構えているということだ。
将軍は山の頂をひたと見すえながら、雪の残る山道を登っていく。山頂の雲海は、夜中だというのに銀色に浮かび上がっている。
まぎれもなく雲それ自体が輝いているのだ。そして銀色の光の中、彼女が白い腕を差し伸べるのを将軍は確かに見たと思った。
将軍は笑みを浮かべた。そうか、私をまた試すつもりなのだな。いや、試されているのは貴方自身なのだ。なぜなら貴方もまた、
この世界では移ろいゆく存在に過ぎないからだ。
貴方はその運命に自分を委ねるべきか否か、揺らぎためらっている。そして結論を先送りして吹雪の中に逃げ込んでいる。私への敵
意で自らを支えている癖に、私が貴方を変えてしまうのではないか、貴方を連れ出すのではないかと、怯えつつも願っているのだ。
だが私は貴方を変えようとは思わない。それは私の戦いではなく、貴方の戦いなのだ。
雲の切れ間から雪が一筋流れてきた。雪片は肩のあたりを舞い、触れる間もなく消えた。しかし将軍の心に、それは確かにあった。
高慢そうに誘う白い腕は、しかし指先をおずおずと差し出していた。彼はその指先を握り返した。氷の爪先は魂の火に触れてはじけ、
きらめきながら虚空へ昇華した。
既に彼らは試し合う相手ではなく、共に運命に耐えて挑むものだった。永遠に続く一瞬、無限の合せ鏡となって向かい合った瞳の中
に、彼は世界の始めから抱かれてきた哀しみを見た。
人は命によって魂を灯す。魂を知らぬ貴方は、その心のありようを求めているのか。だが貴方は風にはなれぬ。私が峠を吹く風なの
だ。だから貴方はその心のまま、在るがままに在るがよい……
「司令官!」
声に振り向くと、副官が山道を駆け登って来るところだった。かなり登ったように思ったが、どうやら陣営からいくらも歩いてはい
なかったようだ。
「目覚めておられたか」
丁寧な上官の問いかけに副官は身を硬くした。
「私は閣下の副官です。寝ている訳にはまいりません」
「山越えは楽ではありませんぞ。休める時に休まれよ」
「閣下の温情に甘えるつもりはありません。そもそも、護衛も連れず山に向かうのは不注意です」
副官は子供扱いされたことへの苛立ちと、将軍への心配が入り交じった複雑な表情を浮かべていた。その顔に一瞬あの面影が交錯し、
副官が少女時代をとうに過ぎていることに気づいた。ちらりと胸の底に疼くものを感じ、将軍は誰に聞かせるともなく呟いた。
「大事な何か……しかしその道を私は選ばない。それを守るのが私の道なのだ」将軍は弾かれたように笑った。
「何のことですか?」
副官は面食らっていた。彼女が仕えて五年になるが、師とも仰ぐこの人が初めて見せる振る舞いであった。
将軍は笑いを収めると山の方に目をこらした。峰を覆っていた銀色の雲は姿を消し、星が静かな影を落していた。
「道は開かれた。兵をただちに呼集。準備出来次第、出発する」
将軍はもう一度頂を見上げると、拳を立ててみせた。
翌日の早朝、将軍は副官を従えて敵情の視察に出た。さしたる苦労もなく峠を越えた軍団は山陰で野営し、夜明けから展開を始めて
いた。まだ陽光は谷間に届かず、敵陣は影の中に沈んでいる。
将軍は哨兵の立つ辺りで馬を止め、傍らの尊貴な副官に呼びかけた。
「殿下、昨夜は眠れましたかな。今日は頼みますぞ」
公女は今日、別働隊を率いて敵の退路を塞ぐことになっていた。将軍はこの戦いを終えて帰還したら、有無を言わさず公女を軍団司
令に栄転させるつもりであった。彼女は今の地位を居心地良く感じているようだが、翼の下に抱きかかえるのがいささか長すぎたよう
に思えた。
「ところで昨日の朝は、ずっと目覚めておられたのですか」
「はい。閣下が何かを呟いておられるようでしたから」
それは女性の名前らしかったが、彼女にはそこまで言いかねた。
「やれやれ。私を出し抜くとは末頼もしいことだ。
さて、時間が来たようだ。位置につかれるがよい」
公女は微かに頬を赤らめると馬首を返した。早朝の風になびく赤髪は、やがて別働隊の隊列の中に見えなくなった。
次々と兵が配置につき、攻撃の時が刻一刻と近づいていく。
最後の念を押すように谷間から山の頂へ、稜線から稜線へと視線をめぐらせた将軍は、視野の端に微かな雪煙が立ち昇るのに気づいた。
彼方の雪渓に立った雪の柱は、山の端を虹色に染め上げる朝日の中にゆらめいて消えた。
陽光が谷間に差し込むと同時に角笛が吹き鳴らされる。南を目指して一目散に渓谷を攻め下り、谷間の出口を塞ぐ砦の守備隊を叩き
潰さんと意気上がる鬼族の大群は、背後の斜面に兜や槍がきらめいているのを目にして慌てふためいた。谷底で連呼される雄叫びが悲
鳴に変わっていくのが、谷の上からもよく聞こえた。
将軍は手にした鞭を谷間へと振り下ろした。どろどろとドラムが鳴り、何千という槍が穂先をきらめかせて一斉に斜面を下る。騎兵
隊が地響きを立てて駆け降りていく。それは龍がゆっくり顎を閉じ、獲物を容赦無く噛み砕いていく様を思わせた。
戦いは短く決定的だった。弓弦の唸りや打ち合う刃の音は、陽光が谷間に行き渡る頃には全て止んだ。戦場はしばし静寂の時を迎え、
やがてあちこちから勝利の歌が聞こえ始めた。ひとしきり続いた凱歌は、やがて指揮官を讃える兵士たちの歓呼となり、ただ一つの叫
びとなって谷間に響いた。
「ムイラムバウセ(龍の牙)! ムイラムバウセ!」
その叫びは周囲の岩肌を震わせて木霊し、風に乗って雪の峠を渡り、それを耳にした女の玲瓏たる横顔に、ため息混じりの微笑みを
浮ばせたのだった。
統一王朝暦二一〇三年。この年、セルベス・セルトーグは北方戦役の功により元帥に列された。
(了)
初出 『ユルセルーム拾遺』(1996.12)
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