デュール派の姿
ユルセルーム文明にとって不倶戴天の敵は、言うまでもなくデュール派とその同盟者グドルである。統一王朝を崩壊に追いやった彼らへの荷担は、ユルセルームの大半の社会において、許し難い反逆と考えられている。
それではデュール派の「悪」とは、いかなるものなのであろうか。ストラディウムをはじめとする統一王朝の文明は、いかなる原理を敵視しているのであろうか。
神々の大戦
そもそもユルセルームの神話に絶対悪というものは存在しない。
ユルセルームの創世神話の中で「悪」を担ったのは“裁断者”デュール神であった。しかしこの神格は同時に変化や創造の神性であり、人間族を作り出したのもデュールであることを忘れてはならない。
六柱のスィーラがデュールを放逐するに至った「神々の大戦」は、キリスト教におけるサタンの反逆とは性格を異にしている。デュールは他の六柱と対等の存在であり、最も力ある神格ですらあった。神々に排斥こそされたが、優劣つけ難いデュール神の行いは、絶対神に対する「反逆」や「罪」とは同列に扱うことはできない。この神話を、破壊と創造が循環する世界の転変の比喩と解釈することも可能であり、デュールそれ自体を悪神として嫌忌するのは早計と言わねばならない。
このことはスィーラ古聖教の神殿で、デュールもまた七柱の神格の一つとして祭られていることにも示されている。むやみに頼るべきではないが、軽んじてもならない、畏敬すべき神格と受け取られているのである。
スィーラ古聖教におけるデュール神の位置は“頂の”エスティリオによる「与えられた完全ではない創造力、独創力を持て余し、かつ、ややもすれば混沌へと還っていく神性」という言葉に示されている。
その創造力の過剰な奔出が生み出したのがデュール派なのだ。
デュラ
デュラは不死身のフェルダノン、ユレーグの統治する専制国家である。
デュールのその身を裂いて生み出したとされ、また「変転の力によって生み出されながら自らはそれを拒んだ」存在である。ユレーグはデュールの持つ破壊的な一面を突出させた男性格の存在だが、その実相が語られたことは無く、非人格的な印象すら与える。ユレーグは野望を持つ専制君主というよりも、それ自体が一つの運命に駆られた、災厄のごときものであるのかもしれない。
デュラの基盤であるデュール新教は、デュールを唯一絶対の存在とし、ユレーグをその顕現として絶対的な服従を誓う。それは単純明快な原理であり、ゆえに妥協や交渉の余地の全くない狭量なものである。その教義はまた、人間の内面にまで服従を強要するものであり、デュール新教は精神の内面的自由は許さない。
デュラを支配する半神ユレーグの意思は、人智を超えた絶対的なものとされ、ヒエラルキーを通して下達された命令を疑ったり反駁することは許されない。命令と服従こそ絶対なのである。つまりデュラという国家は「法」ではなく「命令」によって統治されているのである。その限りで上位者は下位者に対し、ユレーグの分身として絶対の権力を振るうことになる。
そしてこの命令は暴力と不可分のものである。この暴力による威嚇は、デュラの住民の大多数をなす鬼族の精神構造にきわめて適合しているのだ。
このようなデュラの社会が生み出す人間像は、大旗戦争におけるデュラの将軍に見ることができる。
ひたすらに破壊と殺戮を追求し、混沌の力により異形と化したドゥクゼ・バイアーと、冷徹非情な女軍師ファイウェノールは、極めて対照的な性格である。しかし彼らは人間的な感情の欠落で共通している。彼らにとって兵士や被支配者とはデュラの世界観を実現するための道具であり、同情や憐憫など持ちようがないのだ。彼らにとって重要なのはユレーグの命令を完遂すること、それだけである。
これをストラディウムの人間的な指揮官と比較すれば、両者を隔てるものが明瞭になるだろう。“人間族の誇り”こそ、デュラと彼らを分かつ道徳的な壁なのだ。
ヒュノー
ヒュノーは悪しき島主アガルッドによって統治されている。アガルッドは妖精王“緑藻の”リミンの妹リュクセインのことである。彼女の兄に対する背信、それがストラディウムの名誉を失墜させたことにより、彼女は「誇り奪いしもの(アル=ガルッド)」すなわちアガルッドと呼ばれるようになった。
アガルッドを頂点とするヒュノーに関わる者としては、ミレア島に居を構えた魔女サイア、大旗戦争でストラディウムに攻め寄せたウェルユーンなどが知られている。この例が示すように、ヒュノー島では女妖精や魔女が支配階級の地位にあると考えられる。
デュラを命令と服従による専制国家だとすれば、ヒュノーを特徴づけるのは規範や理非の欠如である。デュラは彼らなりに自分たちのイデオロギーに忠実だが、ヒュノーに従う海賊たちに、そのような忠誠心は希薄だ。彼らを突き動かすのは富や権力への渇望、血なまぐさい快楽の欲求だ。彼らにとって暴力とは支配や破壊だけでなく、娯楽ですらある。
ヒュノーの社会制度はデュラに比べるとルーズで、長期的な計画よりも気まぐれや目先の打算、気分や衝動に支配されがちだ。
しかしこのような性格が、離反者をヒュノーに引き寄せる原因でもある。ヒュノーは軍事力という点ではデュラに劣るが、より魅力的な誘惑者である。裏切者たちはヒュノーの富もさることながら、その自由にも魅力を感じているのだろう。しかしそれは自制なき放埓であり、その富は作り出すことではなく、略奪し騙し取ることによって成り立っているのだ。
デュール派の性格
デュール神の持つ両義的性格は、ユルセルーム諸国家の対立にも影を落としている。ユルセルームの国々もまたスィーラの力が与って生み出されたのであり、そのありかたにもスィーラの性格を見ることができるからだ。
デュール神によって生み出されたという点で、人間族の国家ストラディウムはデュラと兄弟の関係にあると言ってもよい。また悪しき女妖精の支配するヒュノーは、イーヴォから生まれながら背いた鬼子とも言える。
このようなユルセルーム国家の性格は、以下の観点から整理することができる。
| | 男性格 | 女性格 |
| 正 | ストラディウム 秩序、守護、指導 | ファライゾン 調和、豊穣、受容 |
負 | デュラ 専制、破壊、隷従 | ヒュノー 混沌、欲望、誘惑 |
デュール派の特徴は、均衡を無視した過剰または欠落、統御しえない資質の暴走と言えるだろう。問題は属性そのものというより、バランスの崩れた状態の生み出す歪みなのである。
だが人間の内面に善と悪がせめぎあうのと同様、このようなデュール派もまた世界の属性の一つと言えるのかもしれない。それはストラディウムをはじめ統一王朝がもっぱら防衛に徹していたことにも示されている。デュール派が一定の領域に収まっている限り、統一王朝文明は彼らを滅ぼそうとしなかった。それは彼らもまたデュール神による創造物である以上、滅ぼしえないからなのではないだろうか。
最後にこの例示は、イーヴォ派とデュール派の間を隔てる壁がいかに脆いものであるかをも示している。ヌクセン専制はストラディウムが目的のために手段を正当化し、法を軽視した場合、彼等の宿敵と何ら違いの無い圧制が現れることの好例である。
ストラディウム国家の統一王朝の伝統を守ろうとする保守的な態度、しばしば変革に対して見せる強い反感も、ここに理由があるのだろう。
妖精王リミンが「“人の子の誇り”にこだわることは人間族のためにならない」とグンドに伝えたこと、なおかつグンドが“人の子の誇り”を掲げその回復に生涯をかけたことの意味を、デュール派に抗する者は考えていかなくてはならないのである。
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