王の道の巡礼者

 「王の道」は聖都ファラノウムに発し、人間族の大都ストラディウムをもって終着とする。
 イーヴォ暦2110年、一人の若き巡礼者が首都ストラディウムを離れてあてどない放浪の旅をはじめた。その足取りは「王の道」に向かうことはなく、むしろ正反対の野辺や村々を流離う日々であった。しかしその旅は紛れもなく君主への道(ローズ・トゥ・ロード)をたどるものであった。
 若者の名は“天上の波”オスレヴェーグ・マバール。後に「剣の手の君」とも呼ばれることになる公子である。

旅立ち

 “天上の波”オスレヴェーグはマバール公家の嫡男であった。諸書の伝えるところでは丈高く、金褐色の髪と小麦色の肌、灰青色の瞳に意思的な輝きを宿した若者であった。公家の後継ぎである彼は、沈着で年齢よりも大人びて見えた。彼は早くから自己の立場を理解し、また父の置かれた状況を理解していた。
 父のウェルセード大公は長らく西方守護の座にあったが、その治世は“清廉派”と“海国派”の政争に揺れ続けていた。困難な政務の舵取りを余儀なくされていたウェルセードはオスレヴェーグを正式な西方守護後継者に指名し、政務を補佐させることで複雑化する情勢に対処しようと考えた。
 西方守護の後継者は必ずしも嫡子ではなく、他の公家の当主や嫡子も指名される資格はあったが、オスレヴェーグへの指名は反対なく受け入れられた。だがオスレヴェーグが実際にその地位に就くまでには予想だにしなかった苦難が待ち受けていた。ある晩、公邸内に乱入した刺客によってウェルセードは殺害され、オスレヴェーグは闇夜への逃亡を余儀なくされたのである。それは大公位を狙う次弟ベスデオの陰謀であった。

反逆者たち

 後には人となりを「名家の残り滓」と酷評されたベスデオであるが、彼もまたストラディウム最古の高貴な家系に連なる公子だったのであり、当時は有為の若者とみなされていたと考えられる。
 ベスデオ公子の性格に影が生じたのは、母の死に起因すると考えられる。所伝によるとウェルセードの妃は末子ミヌウェレス出産の折に産褥で亡くなったが、ベスデオは末弟を嫌っていたという。ベスデオにとって末弟ミヌウェレスは、母親を手の届かぬところに奪った存在であった。
 母の死はベスデオの意識の底に、自分の権利が不当に失われたという感覚、あるべきものを回復しようという願望を形成したと推測される。もちろんこの情動は成長するに従って矯められるのが普通である。だが父のウェルセードは、母親の死への哀れみから、次子に対する厳しさに欠けていたかに推察される。ベスデオには正当な努力によって願望を達成するよりも、責を他に帰することで自己の不運を正当化する傾向があった。ベスデオは次第に怠惰や気まぐれ、倣岸と小心に蝕まれていった。
 ヌクセンはこの性格的な弱さをベスデオを動かす梃子とみなした。しかしベスデオは単純な操り人形ではなく、むしろ彼自身がヌクセンを見出したのだった。

 ヌクセン・クオノラーザの前半生は明らかではないが、この時代には既に魔法使としての名声を高めていた。その学者としての令名を考えれば、ベスデオとの関わりも師弟関係から生じたのではないかと想像される。つまりヌクセンとベスデオの間には、当初は人格的な共感と信頼が存在したのではないかと思われる。
 少なくともある時点までヌクセンが真摯で高潔な学者であったことに疑いの余地は無い。彼の探求の目的は“大いなる忘却の呪縛”について解明することであった。彼にとってそれは歴史が逢着したひとつの蹉跌であり、その災禍の彼方の過去に統一王朝の復興の途を模索するものであった。それはおそらく、戦乱止まぬナーハン公国に生まれた彼の、平和と秩序への希求から生じたものであろう。
 つまりヌクセンもまた、喪われたものを回復することによって、世界と自己を完全ならしめたいという願望にとりつかれた者であった。
 確かに、統一王朝という理想を追うことは善であろう。しかし理想を達成することで個人が完全なものになりうると考えたならば、それは不完全なる人間存在の傲慢であり、悪への道であった。ヌクセンは目的を性急に追うあまり“骨の商人”グドルと取引するという過ちを犯した。いかに真摯であったにせよ、この目的のためには手段を考慮しないという態度が、彼を堕落させ無残な最期に陥らせることになる。

 ベスデオにとってヌクセンは、彼と共鳴しながら自己を映し出す鏡であった。その歪んだ鏡に映し出された自画像は、次男として生まれてしまったがゆえに、正当なる大公の座を奪われた犠牲者であった。
 いずれにせよ最終的に父と兄の謀殺を決意したのはベスデオであり、その責任はベスデオ自身が負わなくてはならない。しかしそのことに気づこうとしないのがベスデオという人間だったのである。

簒奪

 この当時ウェルセードは西方守護宮で政務を執り、マバール公邸には息子たちが暮らしていた。
 ウェルセードはシスティファン公アロゴの忠告を受けて、ヌクセンをベスデオから遠ざけることを考えていたようである。ウェルセードの滞在時を狙って刺客をマバール公邸内に引き入れたのは、ヌクセンの教唆にせよベスデオの判断によるものであろう。それが最初の失敗であった。肝心な時にベスデオの弱気が露呈する。失敗時の保身を考えたのかベスデオは現場にいなかった。このため父の殺害には成功しながらオスレヴェーグを取り逃がす失態を演じたのである。
 オスレヴェーグの失踪を知ったヌクセンとエスデオは、慌しくウェルセードとオスレヴェーグの葬儀を営んでみせたが、薄氷を踏む思いであったろう。しかしオスレヴェーグはなぜか姿を現さず、彼らはようやく西方守護位の奪取と、彼らに疑惑の目を向けるシスティファン家の放逐に着手する。

 ヌクセンの初期の成功は、彼が元老院の中間勢力を味方に引き入れたことにあった。
 西方守護ウェルセードは門閥貴族の守旧勢力“清廉派”と改革を求める中堅官僚勢力“海国派”の均衡に苦慮していた。十年余り執政府を掌握していた“清廉派”の施策が行き詰まり、ウェルセードは“海国派”を登用しはじめていた。その矢先に起きた暗殺は、“清廉派”とシスティファン公家を下手人に仕立てたヌクセンのプロパガンタに真実味を与えた。またヌクセンと“海国派”の改革案は、その当初においては説得的なものであった。というよりも現状では他の打開策が見出せなかったのである。
 だが民会の支持を固めていたものの、官僚でないヌクセンの政府における支持は磐石ではなかった。ベスデオのストラディウム大公擁立は成功したものの、西方守護への就位には元老院の中間派が慎重な姿勢を示し、正式の就位まで猶予期間が設けられることになった。

 これは厄介な事態を引き起こした。近衛軍の指揮権は西方守護のもので大公には無い。近衛軍以外の軍隊も、西方守護就位までは元老院によって人事権を掣肘されていた。近衛軍が中立を堅持し、アレル公女アステノリエが首都方面軍を掌握している状況では、ヌクセン政権の首都における軍事力は不安定な状態にあった。
 この事実がヌクセンを焦らせ、自己の私兵である宰相府親衛隊の創設や、監察使による密偵政治、近視眼的な利権ばらまきにつながった。だが強引な勢力強化策はかえって反発と軋轢を生み、さらなる弾圧を行うという悪循環に陥った。
 個別に見た政策は必ずしも誤りではなかったが、謀殺による不正な簒奪権力であったヌクセン政権は、強圧によってしか維持しえないというジレンマに逢着したのである。

冒涜

 ベスデオとヌクセンにとって、支配権の確立にはいま一つの不安要素があった。
 ファライゾンの聖王は魔法の玉座によって選ばれるとされているが、ストラディウムの「西風の玉座」もまた、正統なる者のみ座することを許されると言われていた。
 この伝承の真偽はどうあれ、西方守護は様々な儀礼を通し、西方大祭殿をはじめとする神殿の祭祀や、魔力を秘めた品々と連なっていた。これらの神殿や魔法の品々が、ベスデオの血塗られた登極にいかなる反応を示すかは重大な問題だった。
 ユルセルームの人々にとって神々は我々よりも近しいところにあり、夢などの神秘的な啓示は身近なものであった。伝統に則った即位であるならば、啓示よりも世俗的な要因に左右されるだろう。だが正統な公王が殺され、嫌疑をかけられた他の公家が放逐されるという異常事態には前例が無く、従来の慣習は機能しない。言わば地図のない状況では、神秘的な啓示が指針として果たす役割の重要性は、ユルセルームの人間なら容易に想像できるものであった。
 啓示による陰謀の露見を恐れたヌクセンは、暗殺実行以前から魔術的対策に着手していたのではないかと推測される。彼は魔術を施した品々を神殿に奉献したり、精霊の集う聖地に儀式を施すことで、神域や霊地に魔術的な目くらましを施そうとした。さらに権力奪取後、システィファン家の所持する大旗の柄など、統一王朝に遡る宝器を強権によって宰相府の下に集め、これら魔法の品々が真相を顕示することを防ごうとした。
 ヌクセンの目論みは一応の成功を納めた。しかしヌクセンの魔術によって各地の神殿は汚され、精霊たちの力は歪められていった。原因の定かならぬ凶事がこれらの地で発生し、社会の不安はいや増していったのである。

巡礼

 ヌクセンにとって最大の危険は、言うまでもなくオスレヴェーグであった。ベスデオはオスレヴェーグが何処かで斃死したものと楽観していたが、消息の不明自体がヌクセンには凶報であった。密偵によりオスレヴェーグ生存の兆候を知ったヌクセンは刺客を各所に派遣した。しかし刺客たちはオスレヴェーグを捕えそこねた。それは彼らの張り巡らした網の目が、オスレヴェーグの行程が権力奪還の政治活動にあるという予断に基づいていたためである。

 首都を逃れてからのオスレヴェーグの旅路は判然としていない。彼はストラディウム本島内を流浪し、大陸にも足を伸ばしたようである。実際のところ彼の流離は当初、まったく目的を持たなかったように思える。
 オスレヴェーグが直ちに公の場に姿を現さなかった理由は、彼が真相を把握していなかったことが挙げられるだろう。内部の手引きなしに刺客が公邸内に侵入することは考えられず、肉親または近臣の裏切りに疑いの余地は無かった。しかし黒幕が不明な段階では敵味方を判断できず、うかつに名乗りを挙げることは危険であった。オスレヴェーグは権力の中枢から一時避退することで、事の真相を見極めようとしたのであろう。あるいは単に危険から遠ざかることで精一杯だったのかもしれない。

 いま一つの理由は、その時点ではオスレヴェーグにも説明のつかないものであったろうが、国祖イルサド以来マバール家に伝わるとされた予見の才が彼に放浪を促したと推測される。
 各地を旅するオスレヴェーグは、神殿や精霊の住まう霊地に投げかけられた影を察知した。彼は密偵や刺客の目をかいくぐりながら、それらの呪縛を解き歪みを正していくことに当面の目的を見出したようであった。しかしその過程で“死闇”にまつわる神託を得た彼は、陰謀の中心に存在するのがヌクセンであること、その背後にさらなる影が存在することに気づいた。彼が巡礼を通して見出したのは、最初に彼が想像したよりも…そしてヌクセンやベスデオの認識よりも…さらに深刻な謀略だったのである。それは正当な玉座を奪還するという世俗権力の問題にだけとらわれていたならば、決して見出せなかったであろう真実であった。

 この巡礼行はオスレヴェーグ自身を変えていった。
 確かにオスレヴェーグは将来を嘱望されてはいたが、放浪に出る以前の彼が統治者として十分な資質があったかは疑いの余地が残る。事前にベスデオの大逆行為を察知できなかったのがその証左である。
 祝福されて誕生し、愛情と期待に包まれて成長したがゆえに、オスレヴェーグは人間の暗い側面についての理解に欠けていた。たとえ真犯人を暴いたとしても、それが為されたのは何故かを理解できなければ、彼にとって真実を知ったことにはならなかった。彼にとってこの逃亡は、見えなかったものを見出すための旅であった。
 一介の巡礼、と言うよりも浮浪者になった彼が、彷徨の中で良い扱いを受けたはずはなく、一時は投獄される憂き目も見ている。オスレヴェーグは社会の最底辺の放浪者となって初めて、自分が統治すべき民衆というものを間近に知った。彼らの長所や美質だけでなく、弱さや愚かさをも知った。彼らの希望と絶望を知った。明日をも知れぬ困苦と欠乏の中で、オスレヴェーグは弟の暗い感情を理解するようになり、理想を追い求め堕落に至ったヌクセンの危険を認識したのだろう。ある意味で彼らの心を己自身のものとした時、真に退けるべき弱さが何かを彼は知ったのである。
 こうしてオスレヴェーグは「西風の玉座」への遥かな道を歩き続けたのであった。

帰還

 逃亡から数年が過ぎ、オスレヴェーグは次第に信頼すべき人々を見出していた。ヘリアの賢者“至高の霊”メストメッド・イクスティリオや近衛長官“龍牙侯”セルベス・セルトーグ、そして大旗探索者たちである。
 元老院の定めた猶予期間が過ぎ、ベスデオの西方守護即位を前にした2113年の春、オスレヴェーグは遂に首都に帰還した。大旗探索者の働きで末弟ミヌウェレスの協力を得たオスレヴェーグは、彼の随従に紛れて公王宮に潜入すると、ベスデオの祝賀宴席に姿を現した。大旗探索者のかざした“ザリの目”によってベスデオは玉座から投げ出された。オスレヴェーグの巡礼行によってヌクセンの魔術が解かれた結果、ベスデオの欠格と大逆行為が文武百官の眼前で明るみとなったのである。
 だが真相を暴かれたヌクセンは転移の術によってベスデオと共に逃走し、兵を挙げるに至った。この内乱に勝利したオスレヴェーグは、逃亡したヌクセンによって惨殺されたベスデオの亡骸と対面する。この時オスレヴェーグの胸中に去来したものは定かではない。

 以後の数年、デュール派諸国の侵略軍を撃退し、荒廃した国土を復興するという難事にオスレヴェーグは取り組むことになる。皮肉にも彼の成功は、ヌクセン政権の権力集中政策に一端を負っていた。ヌクセンはオスレヴェーグが登場する地ならしの役割を果たしたのであり、その限りでオスレヴェーグはヌクセンから政権を簒奪したという皮肉な見方もできる。
 しかしベスデオが大逆の際に示した躊躇、オスレヴェーグの目的なき放浪、ヌクセンの自滅的失策……これら一連の偶然がなければ、オスレヴェーグは権力の座を奪還しえたであろうか。あるいは良き君主として西方諸国を守り抜けたであろうか。真に重視すべきは彼が帰還したことではなく、まさにあの時点に彼が帰還したということではないのか。
 それらの可能性に思い及ぶと、オスレヴェーグの帰還には意味のある偶然、すなわち人智を越えたスィーラのはからいを見ることができるのかもしれない。

 最後にひとつの謎が残されている。
 我々の入手しうる限りにおいて、オスレヴェーグの晩年について語られた史料はない。いくつかの記述からは、オスレヴェーグの治世の後は盲目の末弟ミヌウェレスが西方守護位を継承したことが示唆されている。
 大戦の心労により早逝したとするのが妥当な解釈であろうが、しかしオスレヴェーグの死について直接明言した資料はない。
 ここでは一つの可能性として、オスレヴェーグが生前に西方守護を退いたという推測を挙げておきたい。本来なら終身の地位であるが、グンドの父マレストルのように生前の退位は皆無ではない。マレストルの例が非常の例外としても、オスレヴェーグ自身が非常の例外と言うことができるのだ。
 オスレヴェーグが大旗戦争の戦争指導を通して獲得した権力集中は、彼に先立つ数百年において類を見ない強力なものであった。その異例さはオスレヴェーグ自身がよく承知しており、ヌクセンの例に照らしても非常大権が恒常化することの危険性は痛感するところだったろう。掌握した非常時の権力を常態に復帰させるには、ミヌウェレスに権力を譲ることで将来の前例とするのが賢明な措置だったのではなかろうか。
 だとするならば、権力を掴み取ったオスレヴェーグは、地上の権力を越えて、さらなる旅へと歩み去っていったのだろう。
 そしてそれこそが、彼にとって真なる「王の道」だったのかもしれない。


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