のようむさん。なみかさん。こんばんわ。
>「国旗・国歌」そのものの是非以前に、上から「卒業式はこうやれ!!」と学校の事情も無視して命令してくるのって、正直、こわいなって、そう思うのです。
同感ですね。学校って教員と親と生徒で作り上げる場だと思います。そしてその主人公は生徒。その生徒の門出を祝う場のありかたを現場を無視して上から押しつける文部科学省―教育委員会は、学校の主人公を自分たち役所―官僚が支配する国家だと思っているのでしょう(おそらく国家の主人公も彼ら・代議制民主主義って選んでお金を出す国民より、「全体の奉仕者」であるはずの公務員の方が偉いのでしょうか)。教育改革だなんて掛け声も、生徒達がよくわかり楽しい学校をつくるものではないことの証拠かもしれません。
フロア形式や呼びかけ・生徒の手作りの旗や絵と君が代・日の丸は共存できるのに、それを対立物のようにして圧殺する態度は異様です。なみかさんの学校のように、生徒が主体的に動く場面を入れることは、「教育」の場としては大切です。
ごくせんさん。こんばんわ。
>日本人はあまりにも日の丸、君が代に対し、ある種のこだわりを持ちすぎてきたのではないかと思いました。もっと身につけねばならない、大切なことが、今の国際社会、求められる国際人として未熟すぎると思います。
これも同感ですね。過去の侵略の歴史を拒否するあまりに、それを踏まえてどういう新しい国を作るのかを構想せず、「平和で豊かな日本」に閉じこもってきた結果でしょうね。過去の侵略の歴史を見据え、そうしてしまった原因を捉え、その上で日本が世界に貢献するありかたを真剣に議論する必要があると思います。
日の丸・君が代がそのまま残ったのは、それが象徴していた天皇制が存続したことと一体です。象徴天皇制を認めた以上、日の丸・君が代も認めるしかありません。大事なことは、この歌と旗が世界の、そしてアジアの国々にとって今、そして未来に、どのようなものとして見られるようになるのかでしょう。
卒業式のありかたは、この日本の国のありかたと一体の問題だし、教育のありかたとも一体です。それと切り離して、旗をあげるあげない、君が代を歌う歌わないで争っていても意味がないと思います。
国家・国旗にかかわらず「こうしなさい」ということを、無理矢理決めているのは、閣僚。そして、閣僚の言うとおり法律を決めているのは国会議員。代議員制は国にかかわらず、市町村単位でも必要な制度だと思いますが、あくまでも民主全体の代弁者であるべきなのですがそうなっていないことに大きな問題があると思います。
「直接住民投票をやりたい」という声が上がること自体、政治家の恥であると思いますが、それを「代議員制だから」と拒否する政治家の行為ははもっとは恥ずべき行為だと思います。(諸悪の根元の一つはこの辺じゃないでしょうか?)
本校では昨年まで型どおりの卒業式だったのですが、今年は、型通り+合唱をすることになりました。言い出しっぺの学年総務は「上と保護者の受け」を考えていたようで、とっても生徒の気持ちを考えてはいないようでしたが、料理をした音楽家教諭は「生徒の気持ちにうったいかける指導をして成功だった」と私は評価しています。校長は何も考えておらず「やってもいい」の二つ返事でした。
「校長や学年総務の評価が少しあがったかもしれない」という部分がしゃくですが、音楽家教諭の努力に敬意を感ます。
このような時間の中で、日教組が言う「主任(中間管理職)制反対」が理解できるようになってきました。
こんばんわ。293の書き込みの補足をいたします。今、自分が見たテレビや新聞報道の「控え」が手元になくあやふやで申し訳ないのですが、例えば今まで教員と生徒が力を合わせて作り上げていた「フロア形式(だったかな)」で卒業生と在校生が向かいあい、壇上には卒業生が力を合わせて作り上げた作品が飾られ、今まで親しんできた歌や音楽で送り出すといった卒業式が、上からの命令?でもうできなくなった、という記事を見たりすると、私的にはやっぱり違和感を感じざるをえません。それから、障害児の通う学校で、足が不自由な生徒にまで「立て」と言ったりむりやり壇上にのぼって(車椅子なのに!)「日の丸」の前で証書を受け取れという新聞報道を見ても、同様に感じました。
「国旗・国歌」そのものの是非以前に、上から「卒業式はこうやれ!!」と学校の事情も無視して命令してくるのって、正直、こわいなって、そう思うのです。
コアラさんのおっしゃるとおり、こんな議論で消耗するのは私も生産的ではないと思います。そのためにこそ、個々人の思想信条の自由を尊重するようになれば本当にいいのに、と愚考いたします。
みなさんこんばんは。
ある国際的なイベント会場でのこと。
それは他国及び日本の国旗掲揚・国歌演奏のセレモニーの場でした。
一般の観客は起立するどころか今がシャッターチャンスとばかりにうごめき、フラッシュをたく。知り合いのジャーナリストは「こんなことするの日本人だけなんだよね〜」
また、ちょっと古い話だが、オリンピックの表彰台の頂点で脱帽もせずメダルを受け取った日本人もいた。
私はこれらのことを目の当たりにして、日本人はあまりにも日の丸、君が代に対し、ある種のこだわりを持ちすぎてきたのではないかと思いました。もっと身につけねばならない、大切なことが、今の国際社会、求められる国際人として未熟すぎると思います。
確かに日の丸、君が代には非難されるような歴史があるかもしれません。だからといって今まで、新しい国旗、国歌を作ろうとはしませんでした。
国旗、国歌の馴れ初めって、他国ではどうなんでしょう・・・
アフリカのある国は間に合わせで作った緑一色の国旗が公然と認められていますよ。
フランスの国旗、アメリカの国旗・・・戦争や革命の血塗られた歴史を物語っていませんか?
戦争の歴史・・・侵略とはいうものの、じゃ原爆で戦争とは無関係な人間を大量虐殺した米国は?
このことも天皇の責任にされていますが、では原爆を落としたほうに全く責任はないのか? 原爆以外の方法だってあったでしょうに。
「世界で唯一、他国に原爆を落として大量虐殺をした国の国旗なんて認めない!」って思っている人がどれくらいいるんだろ
うか。
「君が代は」の「君」が主君ではなく、二人称の「君」と認識している若者のほうが愛国心が強いかもしれないと思っているこの10年ほどです。
こんばんんわ。のようむさん、なみかさん。コメントが遅くなりました。
>私はそれよりもここ数年の卒・入学式の「日の丸・君が代」の暴力的な押しつけに対する報道に接するたび、強い違和感を覚えますが。
のようむさん。この報道のどこに強い違和感を感じられますか。僕は「まだこんなことで対立しあっているのか。学校を崩壊の危機から救うためにもっと大事なことが一杯あるのに」と違和感を覚えました。
>国歌と認めて歌いたい人に、
「歌うな」というのもばからしい気がしています。
なみかさん。僕も同感です。日の丸についても同様です。これは個々人の思想心情の自由の問題だと思うのです。
この問題に対する僕の詳しい考えは以下のサイトに載せてありますのでご一読ください。
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/hihyou/kimigayo.htm
私は、国歌や国旗があることには賛成です。しかし……
「日の丸」に関して、戦争を体験していない私は、あまり何も感じませんが、「君が代」については納得がいきません。
だから、歌いたい人をとがめもしませんが、「自分は歌わないという選択」をしています。「君が代」を国歌だと認めてはいません。
誰がどの様な屁理屈を並べて、「黒を白」と言い張っても、
『君』は天皇であり、天皇を崇拝する歌を「国歌」と認識する気にはなれません。しかし、国歌と認めて歌いたい人に、
「歌うな」というのもばからしい気がしています。
要は「長い物に巻かれている」部分も多々ありますが。
まず、コピー用紙、シュレッダー、コーヒーなどと言うモノは、そもそも「なんでオレが使おうと思ったときに限ってないんだよ〜」というモノだと考えた方がいいと私は思います。うちの職場でもちょっとしたモノを使いたいと思ったときに限って「ないもんだよね〜」という話で盛り上がることが?ままあります。自分一人が「ソンしている」みたいに思わない方がいいと思いますよ。
コーヒーなんか「あったら飲むけど…」という人が多いと思います。自分は飲みたいけど人の分まで作ることに釈然としないのならば、一人用のドリップコーヒーを使えばいいのではないでしょうか。
要領よく「わがまま」に生きるのもひとつの生き方ならば、「わがまま」な人に腹を立てつつ仕事をするのもひとつの生き方です。(時間割の話について言えば、「近視眼的」なものの見方しかできない人はうちの職場にもいます。私も以前は怒っていましたが最近は「お気の毒な人」と思うようにしています)どういう生き方を選ぶかは自分自身だし、選んだ生き方に不満があれば、もう一度自分の生き方を見直せばいいと私は思います。いいか悪いかは別にして、自分が変わるより、周囲を変えることははるかにむつかしいのは事実です。
私はそれよりもここ数年の卒・入学式の「日の丸・君が代」の暴力的な押しつけに対する報道に接するたび、強い違和感を覚えますが。
例えば、(1)うちの職員室にはコピー用紙をストックする小さな棚があります。私が紙をとろうとその棚を見るといつもと言っていいほど空になっています。私を含めわずか数人でその都度補充をしています。
(2)シュレッターも、たまに使おうとするとオーバーフロー(ゴミが満タン)になっていることがしょっちゅうで、シュレッターを使うにもまず、掃除からといった感じです。
(3)有志でお金を出し合い、コーヒーを買っていますが、これもコーヒーを飲もうとすると、『空』。1回に10杯はいるコーヒーメーカーに1日3〜4回コーヒーを作ります。また、おもしろいことにセットだけして電源を入れずにいると1〜2時間たってもそのままになっています。つまりあったら飲むけど自分で作ってまでは飲まないという人が多いようです。
他にもいっぱいありますが、これはもうわがままと言うよりも…
論点がそれてしまいましたが、ごくせんさんのおっしゃる内容を見ていると、これと同じようなできごとがたくさんあるのではないでしょうか?
こんばんは、コアラさん
> わがままとは、客観的な基準とか理想的な絶対的な基準から考えないで、常に自分の今までの状況からしか自分の都合からしか考えてしか物事を評価できないことを言います。教員には多いタイプです。
結局自分を基準に物事を考えているんですよね。ですから、「忙しい」を理由に仕事が遅いのです。そして提出書類の締切日に「まだ出てないんですけど」などと言おうものなら、「今日は空き時間が少ないんです!」とか言われます。
時間がないのが悪いのではなく、締切までに間に合うような仕事のしかたををしない自分が悪いはずなのに・・・
ウチの事務職員も仕事はきっちりやるほうなのですが、私同様しゃべったほうが悪者になってます(苦笑)
なみかさん、お疲れさまです。
> 『数字が読めない』『全体を見ることができない』教師には、これくらい突き放すことも必要かと思います。
時々やっております。しかしながら、校長・教頭が女性教員に弱いのかどうかはわかりませんが、「あなたは女の先生に敵を作っている」と言われておしまいです。
何か、どこかが違うと思うのですが、こんなことじゃわがままが正当化されるのも無理はないんですよ・・・ハハハ(汗)
私も中学校の時間割係ですが、内容を読ませていただいて本当にひどい話だと感じました。今年度本校では、学期ごとに時間割を作りましたが、それでも大変でした。それを毎週年間授業数を考えながら時間割を作るというのはとても大変なことだと思います。その愚痴を言っている人は完全なわがままです。理想を言えば1ヶ月先程度までの出張を見越しての時間割を作成し、新たに出張が入るたびに微調整をすることが理想なのでしょうがそれも大変な作業になってしまいます。
本校では基本的に水・金の6時間目がないので週28分の20コマが平均値になっています。また、昨年度は選択教科で6クラスに対して13講座開設だったので無理が生じ、私は
6べたの日がありました。
また、特別時間割などを組むと、同じ日に同じクラスの授業が2つになることも珍しくありませんし、個別懇談などで午後カットが続くと、クラスの授業数に大きな差が出てくることもありますが一覧表を授業数をプリントし、各自での調整をと突き放しています。はじめの頃は表だって反発の声がありましたが、何度も校長室に通い、時間割を組む難しさを説明し、「苦情の声を上げる教師に係を回してほしい」と詰め寄りました。校長から苦情を言っている教師を個人個人面談で説得させ、また全体でも「無理を言うな」という内容を言わせることで、苦情の声は表だっては、なくなりました。
管理職は使いようです。
また、始めに申し上げたとおり本校では学期ごとの時間割ですが、仮時間割発表から決定までに最低2週間の時間をもうけてもらっています。「その間に各自調整を」とこれも突き放します。「『この時間割は困る』ではなく『こうした方がよい』を具体的に言ってきてくれ」としています。
『数字が読めない』『全体を見ることができない』教師には、これくらい突き放すことも必要かと思います。
乱文申し訳ありません
>ウチの学校は1週間が6時間×5日、つまり30コマあります。すると17時間は決して激務とは言えません。もう少し規模が大きくなると、週当たり20時間は珍しくありません。「配慮してくれ」というのは、私にはわがままにしか聞こえませんでした。
たしかにわがままです。でもその方は、今までのこの学校での自分の持ち時間としか比べていないと思います。週30時間の17時間なら楽なもんです。私も30時間のうち、26時間ほど持ったことはありますよ。他がどうかとか、世の中一般の学校がどうかとか、また何故今週は持ち時間が増えたのかの原因を考えるとか、自分の経験の中だけではなく、もっと広い視野で問題を捉える力が不足しているのだと思います。そういうのをわがままといいますね。
>その3年生の学担、「同じ学級に4時間も行かなければならないのですか、もう少し配慮してください」と文句を言いに来ました。私は内心、「自分の学級なのに・・・?」と思いました。自分の学級に続けて行くことは不都合でしょうか? だったら小学校の先生はどうなんでしょうね・・・
これも「配慮」ということばが「自分勝手」に聞こえました。
これも通常は担任は自分のクラスに一日に1時間ぐらいしかいかない状態を元にして判断していますね。それほど中学校の担任は生徒と密な付き合いをしないのが通常。これを基準にすれば「きつい」ということになります。でも中学校でも担任は生徒と密な関係を持ったほうが効果的な指導ができます。1日に4時間。こりゃじっくりクラスの生徒と付き合えるぞと考えれば、これはチャンスです。
この場合の通常の自分の生活としか比べて判断していませんね。担任と生徒という関係の理想型から考えれば違った対応でいけます。
わがままとは、客観的な基準とか理想的な絶対的な基準から考えないで、常に自分の今までの状況からしか自分の都合からしか考えてしか物事を評価できないことを言います。教員には多いタイプです。
ウチの学校は1教科1名の小規模校です。つまり、1学年1学級です。なので毎週時間割りを作成し、出張や休暇があるときは補欠ではなく教科を交換します。
それが仇となる問題があります。
出張が続き、授業がはかどらない教科は当然翌週に時数が増えます。しかし行事等で時数が増やせないときは翌々週になったりします。結局しわよせがこの時期にも来ているのですが、「先週は17時間も授業して大変だった、もう少し配慮して欲しい」と文句が来ました。出張や休暇が多かった先生なのでその旨説明しましたが、今のことしか考えていなかったようです。時間割りには標準時数との差も載せているのですが。
ウチの学校は1週間が6時間×5日、つまり30コマあります。すると17時間は決して激務とは言えません。もう少し規模が大きくなると、週当たり20時間は珍しくありません。「配慮してくれ」というのは、私にはわがままにしか聞こえませんでした。
もうひとつ。校外の講師の都合で5〜6時間目に行われる総合的な学習の時間が2月にもつれ込みました。すると校長は「3年生に今の時期総合学習をやらせるな、プリント学習をさせろ」と言われ、結局学担を中心に自習監督となりました。
ある週、たまたま4時間目、その学担の授業、5・6時間目は自習、さらに放課後の学習会が学担の教科となりました。
その3年生の学担、「同じ学級に4時間も行かなければならないのですか、もう少し配慮してください」と文句を言いに来ました。私は内心、「自分の学級なのに・・・?」と思いました。自分の学級に続けて行くことは不都合でしょうか? だったら小学校の先生はどうなんでしょうね・・・
これも「配慮」ということばが「自分勝手」に聞こえました。
私の考えが間違っているのでしょうか・・・?
ちょっと考えてみました。
良い先生に会うという確率は、
良い医者に会う確率と同じくらいなのでしょうか?
だとしたらとても悪い確立になりますね。。。
自分も良い大人の見本である自信は全くと言っていいほどありません。 ``r(^^;)ポリポリ
同じ看護師仲間でだって、仕事意識のある人間とそうでない人間がいるし。
患者様に気に入られようと厳しい指導を他人にさせ、患者様と一緒になって看護師仲間の悪口を言う看護師がいると言うことも事実です。
そういう看護師に面と向かって指導できるシステムがあるわけでもなく、『しかえし』や『嫌がらせ』を恐れ、何も言えない自分もいることだってあります。
めんどくさいこと、汚いことは新人などに任せてしまう人はとても多いです。
いったいどこから間違っているのでしょうか?
常に患者様第一に考える職業のはずなのに、自分本位な考えの持ち主のいかに多いことか。。
ヤレヤレ ┐(´−`)┌ マイッタネ
でもきを取り直し、自分に出来ることを出来る所から始めてみようと思っています。
確かに最近、家庭だけでなく地域、そして学校に良いお手本となる大人が少ないのは事実だと思います。自分も「良い手本」だという自信はありませんが・・・
しかし、仕事として割り切らず、人間同士の接点は必ず持つよう努力しているつもりです。
テストの点数だけ上げればいいと考えている教師や、スクールバスの出発を見送る気はさらさらない、生徒活動の場面でも担当でありながら生徒と同じ場所にいようとしない、それでいて人気を失いたくないがために厳しい指導はしない・・・
「それじゃいかん」と意見を言ったりしても、校長は「お前は敵を作っている」と、指導もしようとはしません。
こんなことで今の中学生が良く育つわけは無いのです。
しかし私は信念は持ち続けたいと思います。
これは困った。。。。
子供たちはどうすべきなんでしょうか?
患者様の中にPTSDを病名に持つ人がいて、
家族にも学校にも地域にも『見本になるような大人』
がいなかったことが23才になって発症、現在42歳。。。
生活保護を受けながら入退院を繰り返しております。
原因は、小学校4年生〜中学2年までの間に起きたこと。。。
壊れた家庭にだけ責任を説いても解決にはならないでしょう。
よき大人の見本に学校の教員の方々がなっていただけることが望まれます。
『人にして欲しいと思うことを 他人にしてあげる』
私たち看護職が、入院してきたあなたに対して、無機質に仕事として割り切った対応で、ちょっとした変化や、口に出していえないような悩みがあったときに気付けないような人材であった場合、あなたはその入院に対して満足感を得ることが出来るでしょうか?
『情けは人のためならず』
教員の皆様が、未来の政治家、医師、看護師、教師、あらゆる職種の種を育てているという自覚をどうか理解してください。
科学的にも種子に悪い光(放射能など)が当たると、発芽しなかったり、発芽しても、奇形種だったりするじゃないですか。。。
全て親の責任にすることは簡単です。
でも、学校でも出来る何かはあるはず。
親たちも、試行錯誤で子育てを行っているのですから、
一緒に子供たちにとって何が大事か、建前を取っ払って話し合える関係を作れるといいなぁ〜と思っています。
そのためにも、担任選挙制あるといいんだけど。。。
それか、運転免許のように更新があるとか。。。
教育委員会にいて、定年でお辞めになった人に聞いたところ、
「『これは問題だ!』 と思った場合、学校と話し合っても、らちがあかないときに、教育委員会をどんどん利用してください。こっちは、辞めさせる理由集めになるので。。。」
と ありがたい(?)お言葉を聞きました。
( ̄m ̄) ぷっ
> しかし、残念ながら生徒との人間関係を築く(機嫌をとる)ために、学校全体として決まっているルールを「うちのクラスは守らなくてもよい」等とする教師が実際にいます。
どこにでもこういう教師はいるのですね。私が出会ったその手の教師は、他のクラスの生徒の前では厳しいことを言っているので、自分のクラスだけは甘い。でもただ甘いのではなく、その担任の要求に従うかわりに規則を甘くしていたのです。とにかくうちのクラスは何でも一番。体育祭も合唱コンクールの・・・・なにもかも。それでクラスがうまく動かないと暴力を振るっていました。暴力でもって生徒を従わせ、自分の「業績」をあげる。つまり飴と鞭だったのですね。この教師は自分の「業績」をあげることしか眼がいっていない。もっとも管理職も同じですから。
こんなのがたくさんいた結果。学校は荒れました。筋が通っていないことには子供は納得しませんね。大人より。立てなおすには10年かかりましたよ。その過程でいろんなことを議論しました。
> しかし、残念ながら生徒との人間関係を築く(機嫌をとる)ために、学校全体として決まっているルールを「うちのクラスは守らなくてもよい」等とする教師が実際にいます。
残念ながらウチの学校にもいます。まぁもともと生徒のしつけもできないのでしょうけれど。学問を教えるだけでなく、人間として一人前にしてやらなければならないのに、そういうことをする気がないというか。
だから自分で生徒を残しておきながら、自分が先に帰ってしまうとか、生徒に対して非常に無責任です。
あっ、愚痴になってしまった。
「人のふり見てわがふり直しましょう」
ていねいに呼ばれるとこういう名前になるということで・・・(^^ゞ
また、「勤務中だろ!」と言われるかもしれませんが、職員室内で同じような話題はされて当然ですので事例研究ということで。
コメントが遅くなりました。「不憫な息子を持つ母」さんの息子さんは、息子さんの説明が本当なら、ガラスを割った犯人どころか、被害者です。保健室で手当ても受けているのですから。ガラスを割ったという行動は、不可抗力になります。
この辺はやはり事実確認をしっかりしないと、事件の犯人になるか、逆に治療費等を請求できる立場になるかの分かれ目になりそうです。
休み時間、目が届かない分、学担は当事者だけでなく他の生徒からもきちんと話を聞くべきです。
学校とは不思議なところで、常識的な判断ができなくなる雰囲気ができてしまう場合が多々あるようです。集団心理なのでしょうか?
客観的によく考えれば当たり前だとわかることばかりなんですが・・・
残念ながらうちの学校、たった12人の職員なのですがそういうことも結構あります。
その中で正論を述べても空回りするというか、敵ばかり作ってしまうという不思議な現象に何度も出会っています。
「不憫な息子を持つ母」さん、今回はお気の毒でした。しかし教育委員会に行かれたのは良かったかもしれません。機会があれば事例としてPTAの会議とかにでも報告されてはいかがでしょう?
そこでやっと学担も教頭も我に返るかもしれません。
本当に「担任を選べる制度」はあった方がよいのかもしれません。
しかし、残念ながら生徒との人間関係を築く(機嫌をとる)ために、学校全体として決まっているルールを「うちのクラスは守らなくてもよい」等とする教師が実際にいます。
生徒たちは、「ルールを守らせよう・筋を通そう」とする教師のいうことは聞かず、反発をします。担任は「構わない」といっているのですから、生徒の立場としては当たり前のことかもしれません。その担任は「子どもとの接し方が悪いから、子どもが反発をするのだ」と筋を通そうとした教師を避難し、子どものことをかばいます。
残念ながら本校では、そのような教師が主流派で、管理職も気が付いていないのか、手を入れようとしません。
子どもが担任を選ぶ制度ができた場合、どちらを選ぶかは明白です。そこに問題があります。
もちろん本校にも、「筋を通した上で、『いけないものはいけない』と指導をしている教師」も少数ですがいます。
ただ、「論議をしてもらちがあかない」と論議をさけています。本校は崩壊寸前になっています
皆様コメントありがとうございます。
一連の過程を報告と言う形で教育委員会のほうに行ってきました。
『教育委員会に言ってくる』と言う私の声に対し、仲の良い保護者の方たちから、「やめたほうが良いんじゃないの?」「後でどんなことを返されるかわからない」「子供たちは人質なんだから」と、ありがたい(?)意見もありましたが、とりあえず行って来ました。
私は、教頭の態度に誠意を感じることが出来ないと強く言ったのですが、教育委員会のほうでは、『いいえ、全て校長の責任にあたります」と。。。
私的には、その日に不在の校長からの謝罪より、教頭自らの言葉が聞きたいと思っていたのですが。。。
現在医療人として働いているのですが、研修医さえ個人攻撃される今、総責任者の責任を問うなんて。。。
ちょっと時代に乗っていないような気もしました。
教師になる人のほとんどが、学校教育という環境で育ち職場にしている。学校社会から飛び出した経験もないんですよね?
そのような人たちに社会に出ても打ち勝つ力を身につける指導を求めるのは、やはり無理な話なのでしょうか?
そう感じてしまいました。
新卒の教師など、社会経験もないままに「先生、先生」と持ち上げられ、クラス担任に至っては、一国の主的存在になる。
『社会に出ても恥かしくない教育水準』
『社会人として恥かしくない道徳心』
本当の社会(会社)での、必要なスキルのあり方を知らない教師に何が指導できるのでしょうか?
例えるのならスキーの通信教育を受けてそこで得た知識で、教育実習という短期間の練習に出て、スキーのペーパーテストに挑戦し、合格とともにインストラクター。。。。
それで本当にスキーの面白さ、スキーの技術、危険回避法など教えることが出来るのでしょうか?
とても疑問です。
でもこれが主な教員産出の流れではないでしょうか
そんなことを思った一連の流れでした。
担任を選べる制度が出来るとやっぱり面白いだろうな。。。
担任それぞれが、マニフェストを作成しその考えに対し、質疑応答が保護者からなされ、合意の下、その担任にお任せする。
一番良いのは、子供たちが選ぶ事とも思いますけどね
政治っぽいからと反感を買う意見かもしれませんが、
ご笑納下さい。
息子の担任のK先生♪ 息子は、「謝ってもらうより、これからが大事なんじゃないのかな?」って言っていました。 今後ともよろしくお願いしますね♪
私は小学校1年生と保育園年長の2人の娘を持つ父親です。
1学期の個別懇談も終わり夏休み直前のある日、小1の娘が突然「○○学校行きたくない」といいました。理由を聞くと、「保育園から一緒だった、△△君が『○○ちゃんのお父ちゃん目が変や』といって、目を寄り目にしてからかってくる」とのこと。そう私の右目は、はっきりとわかる内斜視なのです。驚いた私は、『保育園時代からのことのてんまつと、こんなことで娘に悲しい思いをさせたくない。』という思いを手紙に託し、娘に持たせました。担任の先生は、その日のうちに授業をつぶし、私の手紙をクラスに読み聞かせ、指導をしてくれたそうです。娘は涙を流しながらも少し明るい表情になったということです。その後、該当する自動を個別に指導し、謝罪の手紙を書かせたそうです。
また休み時間の出来事であったにもかかわらず、先生からも私宛に「気がつかなかったことの謝罪」を含めた手紙をいただきました。
その日以来、私の子供は機嫌良く学校に通っています。
担任の先生の、感性の問題かと思います。おっしゃるとおり保護者・生徒が学校や担任を選べない以上、やはり、感性・資質を磨く必要が教師にはあると強く感じます。
こんにちは。私も公立の小学生二人をもつ母親です。
学校でのトラブルは自分が実際にその場に居ないだけに、事実がわかりにくくて大変ですね。・・お気持ち察します。
特に担任の先生が丁寧さに欠ける、ゆとりのないタイプだとトラブルが多いかもしれません。
いつも焦っていて、できるだけ物事をさっさと片付けてしまいたいために、きちんと段階を踏んだ事実確認もせずに自分の勝手な思い込みで処理してしまうのではないでしょうか。
本当は、こういう時こそ、慎重に行動して、子供に物事の善悪を教えたり担任との信頼関係を深めたり、担任自信も生徒と共に成長できるチャンスだと思うのですが。
なにせ先生も人間ですから、豊富な知識はあっても実際にさまざまな出来事にぶつからないことには、成長できないと思います。
今こそ、担任や教頭にしっかり反省&学習してもらって、一段階成長してもらおうという考え方はいかがでしょうか。
ところで、ひとつ気になることがあります。
学校は校長先生の物ではありません。地域住民みんなの物だと思います。
うちの小学校は学校の施設を一般の方にも利用してもらえるように開放していますし、学習参観のあとも、保護者のおしゃべり広場としてランチルームも開放していますよ。
普段は仕事で忙しくて、なかなかおしゃべりができないお母さんたちには大好評です。
ストレス解消にもってこいです。(^^)
学校も地域の中の一つなのだから、地域の人にどんどん活用してもらって、子供たちにいろんな地域の人との関わり方を学んでほしいと校長先生は話していました。
ほんの少しずつですが、PTAも自治会も町会議員も老人会も、とにかく地域の大人たちみんなで子供たちを育てる考え方が広まってきています。
担任と保護者との接し方から学校が変わるかもしれません。
今回の件が子供たちにも担任にも親にとってもプラスになる結果となりますようにと願っています。
雨降って地固まる。。。。 確かにそうなればよいです。
でも、良い教育論を持った新しい人(古い人も)が、古い考えの管理教育を行う人が在籍しているというだけで、着任できない事実があるのなら、
指導の間違いを犯すような人は、排除されるべきではないでしょうか?担任ばかりでなく、教頭も、養護教諭も
学区で行く学校を決められ クラス編成も学校が決めて、決められた通学路で通学し、名札を義務付けられ 指導要綱に沿った授業を受け、通知表で評価され、集団行動から外れるものを異端児として扱う学校と
行きたい学校を自分で選べ、習いたい先生も選択肢の中から選び、いろんな道を自分で開拓しながら通学し、教員も名札をつけていて、個性を伸ばせる授業がメインの授業内容で、各学期ごと個性を生かした発表会があり、何かあるごとに協力し合える学校
どちらが生きる力を身につけることができるのかちょっとでも考えてもらえるような人に教員になって欲しいと思います。
間違った指導をしたら罰せられるべきです。
私は精神科看護師です。常に訴訟と言う問題を頭におきながら行動します。
教員もそろそろそういう時代に入ったのではないですか?
こういうことを言われて、『昔はよかったなぁ〜』なんて言わないですよね?
今後は、自分の資質をみられるようになるわけですから、『本領発揮できる。』と思っていただき、自分を高めることをお考え下さい。
小学校で、こういうことが、きっと日常的に行われてきているから
中学校で困ったことになるとも思っています。
義務教育の場で、没個性的な教育を受けるから、大人になって社会不適応になるのではないでしょうか
中学校を変えることも大事ですが、
小学校も巻き込んでいかないと、一度形成された人間性を変えるのに多大な努力が必要になると思います。
6年かけて形成されたものを3年で変えたいというのは到底無理な話なのではないでしょうか?
今の社会が悪いのではなく、今の社会を形成している今の大人達は皆、小学生だった経験があるはず。
どうか小学校教育をもっと有意義なものに変えることもお考え下さい。
心から切望します
いつも長文で申し訳ありません。
皆様の、中学校改革への思い、陰ながら応援いたします。
( ^.^)( −.−)( _ _)
3人の大人が事実確認をしないまま「犯人」をつくりあげてしまったのですね。
担任が自分の指導の間違いに気づいているのなら、まず息子さんに個人的に謝り、その上で、ふざけて突き飛ばした2人にもきちんと指導した上で、自分の間違いを、クラスの生徒全員の前で話し謝ることが必要でしょう。
できれば他の二人の子供の親御さんとも話し合って、そのような事後指導を担任に申し入れてはいかがでしょうか。
これでことが済めば、雨降って地固まるということになると思います。
>フリースクールへの転校
を考えてしまうとのことですが、あまり深刻にならずに、じっくり構えて動いてみたらどうでしょう。
こういう間違った指導を見ていると学校へ行くことの意義を疑いたくなるとは思います。ただ、学校は多くの友達と共に、様々な大人となるに必要なことを学ぶ場です。お子さんが学校へ行きたくないということを言っていないのなら、そこまで考えなくてもよいのではないでしょうか。
お返事ありがとうございます。
事実確認と言うことですが。。。
休み時間の出来事なので、割ったときには、担任はいなく、
息子が怪我をしていたので、保健室に行って手当てを受けて教室に帰る途中で担任に会い
授業開始までに時間がなかったのでしょう、担任は割れたガラスの片付けをしながらどうしてこうなったかを聞いたそうです。
『3人でふざけてたのか?』『誰が割った!』的に質問で事実を確認したそうです。『ふざけていた』←この認識がうちの息子には概念がなく、へらへらしていたら ふざけていることになるだろうと判断したらしく。質問に答える形で、頷くしかなかったと思います。
結果。。。
担任「割ったのは○○(うちの息子)だが、○○だけでなく3人でふざけていたのなら3人でどうしたらよいか考えなさい。 人のおうちのガラスを割ったらどうする?」
子供たち「誤りに行く」
担任「学校は誰のもの?」
子供たち「校長先生」
担任「じゃぁ〜校長先生のところに行ってきなさい」
と言う流れで、校長不在だったため教頭の所に。。。。
その流れをクラス全員で聞いていたそうです。
3人が答えにつまるとクラスに投げかけて、答えを導いたそうです。
>関与していても生徒の話の結論を鵜呑みにしたということ?。
鵜呑みと言うよりご自分で、結論を決め付けていたんだと思われます。
> もう一つは、息子さんが教頭に話したと言う内容を見る限り、教頭も息子さんが突き飛ばされたということを理解したはず。この教頭は、指導に問題がなかったのか担任に問いたださなかったのでしょうか。
きっと「ふざけてなった。。」と言う担任の言葉が多くのことを見えにくくしたんでしょう。
でも私はもう1人の関与も見逃せないんです。
養護教諭。。。傷の手当てだけしていればいいのでしょうか?
ガラスで切った生徒が来室しているのだから、そこで「誰か先生は知っているのか?」「片付けはどうなっている」「何でガラスで手を切るようなことが起きたの?」と聞いても良さそうだと思います。
私もかつては養護教諭。。。常に子供たちを尊重する側に居たいという思いで、仕事をしていたつもりです。
大人3人が関わっているのに誰も事実を本人達から聞こうとしていなかった今回の件は悲しい限りです。
理不尽な対応がまかり通る見本の中で、没個性的な関わり、超自我形成に拍車をかけるような指導、人からは非難されるばかりで、誰からも尊重されないで育った子供たちが立派な人間になるとは到底思えません。
そんな風に思う半面、何故に子供を学校に通わせるのは何故なんでしょう。
フリースクールへの転向(校ではない)を考えてみても良いのでしょうか
本当に頭が痛いです。 (x_x;)シュン
管理者のコアラです。
僕の意見を述べる前に、ちょっと事実を確認したいと思います。
。
> 3人でふざけて割ったということで、クラスで話し合った後、校長が不在だったその日教頭の所へ行き報告をさせられたそうです。
クラスで話し合ってというのがよくわかりません。クラスの生徒がやった問題だから、生徒たちで話し合ったということでしょうか。そこに担任はいたのでしょうか。
普通こういう場合は(僕の場合は中学校です)、当該の3人を別室に呼んで(担任または学年の教員が)、そこで事情をじっくり聞き事実確認をします。その上で事後処置をどうするかを担任が考え、学年主任か教頭にその指導でよいか確認します。普通はこの場合なら、指導されるべきは廊下でふざけて突き飛ばした二人です。突き飛ばされた方は被害者です。謝るのは突き飛ばしたほうで、弁償するとしたら突き飛ばした二人ですね。
生徒に話し合わせるのは、クラスでガラスが割れることが頻発している場合だけ。
そして教頭に息子さんが自分のどこが悪かったのかを話したと言う内容を見ると、息子さんはふざけていた生徒に突き飛ばされたことが明白です。このクラスの話し合いというのは何なのでしょうか。生徒だけで話し合い、結局割った本人が悪いということにさせられたように見えます。
もう一点は
> それが12日の木曜日です。 そのときまで担任は事実を認識していなかったと答えました。
9日に事件があって、担任に申し入れた話し合いをしたのが12日ですね。この日まで担任が、息子さんがふざけていた生徒に突き飛ばされただけという事実を知らなかったということですね。ということは前述のクラスの話し合いには担任は関与しなかった。もしくは関与していても生徒の話の結論を鵜呑みにしたということ?。
もう一つは、息子さんが教頭に話したと言う内容を見る限り、教頭も息子さんが突き飛ばされたということを理解したはず。この教頭は、指導に問題がなかったのか担任に問いたださなかったのでしょうか。
もし、担任が自分で事実確認をせず、生徒の「話し合い」に任せたとしたらこれは完全に指導の放棄です。事実を総合的に判断できず評価できない子供に善悪の判断を任せるなんて言語道断。またその指導を鵜呑みにする教頭など、もしそうなら、指導監督責任を全く果たしていませんよ。
2月9日に小3の息子が窓ガラスを割ってしまいました。
3人でふざけて割ったということで、クラスで話し合った後、校長が不在だったその日教頭の所へ行き報告をさせられたそうです。
割ってしまった息子が一番反省させられ、連絡帳に「ご家庭でも良く話し合ってください。怪我はたいしたことはありません。」と書かれていました。
息子に事の次第を聞いてみると、休み時間にトイレに行こうとして席を立った時に、後方でふざけあっていた二人組みに2度3度背後から背中をおされ、手を付いた所が窓ガラスで、割ってしまうことに至ったと。。。。 息子は被害者?
息子は教頭先生の前で、何が悪かったのか、今後どうしたら良いのかと訪ねられ
1突き飛ばしそうな相手に背中を向けないようにしなかったのが悪かった
2突き飛ばされても、ふんばれる体力をつけなければならないと思う
3突き飛ばされても、手を付く所を考えればよかった
と答えたそうです。
突き飛ばした本人は、ことの重大さに気づくことができなく
窓ガラスを割った息子が責められているのを眺めていたそうです。
もちろん怪我させたことの息子への謝罪もなく。うちの旦那が木曜日に、その子のうちに行って初めて向こうの親もわかった次第。。。
このことによってこの子供たちは、突き飛ばしたほうよりも、ガラスを割ったほうが悪いということを学習してしまったことになります。
息子は、何度聞いても「自分が悪かったんだ。。。と思う」と言うので、私は初めて担任に『時間をとってもらって話がしたい』と希望しました。
それが12日の木曜日です。 そのときまで担任は事実を認識していなかったと答えました。事実を認識していないのにとったその指導で、子供に与えた影響を考えて欲しい。息子に謝罪して欲しい。
と、伝えました。 最終的な指導を与えた教頭にも何故にもう一度事の成り行きを聞いてくれるゆとりがないのかと、嘆いたのですが
担任の口からは「それはいつまでに解答をすれば。。。」的発言。。
『お任せしますが、解答までにかかる日数も誠意だと思って待っていますから』と伝えました。
13日の金曜日帰宅した息子に担任から謝ってもらったか聞いても「何で先生が謝らなくちゃいけないの? 謝られていないよ?」と・・・しかも、クラスメートの女の子までに「ガラス割男〜!」とはやし立てられたと、そのことには怒っていましたが、今日は何もしてくれてはいないということが感じられました。
これは軽視されていると言うことですよね?
何故に被害者であるべき息子が一番反省させられ、クラスからも言われなくちゃならないんでしょうか?
こんなことが日常的に行われているのだとしたら、
健全な人間が形成されるわけがないと思います。
どうしたら良いのでしょう?
わからなくなってしまってます。 (´ヘ`)ハァ
ここに書くような内容じゃないのかもしれませんが、
こういうことって日常的なのかと思いお聞きしたくて書き込みさせていただきます。
文才がないので判り辛いかと思いますが、皆様のご意見お待ちしています。
こんばんわ。ののはなさん。
スミレですか。我が家の庭には4種類くらいスミレが咲くと思います。でも写真は撮りにくい。紫って出しにくい色なものですから。下のアドレスの所に一枚だけありますので、良かったらご覧ください。
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/hana2001.htm
ご無沙汰しております!
野の花舎の掲示板で「すみれ」を問う子がいました。
コアラさんの写真集で見たと思ったので、こちらを紹介しましたが?
スミレはコアラさんのお宅では咲きませんか?
>コアラさんはどのようにして、上手に他の人の意見をまとめておられるのでしょうか?
私が、まとめたというより、長い戦いの歴史の中で合意形成ができたというのが実情です。
この学校はかっては地域で最も荒れた学校で、校舎内をバイクがはしり、爆竹が鳴らされ、下の通路を歩く人にバケツの水をかけたり牛乳パックをなげつけたり、校舎破損や生徒や教員の負傷は日常茶飯事。教員の多数派は暴力でそれを抑えつけようとしてかえって生徒に乗り越えられ、見てみぬふりをするというありさまでした。
この学校を立てなおそうと動いた人々の基本的な合意点は、生徒が主役でした。行事も委員会も部活も、そして生徒会活動も授業も全部生徒が主役にというものでした。ちょうど文部省が生徒心得の生徒の権利を基本にして見なおせという動きを始めたことも追い風となって、一つの学年をこの考え方で動かすことに成功しからは、徐々に広がりました。市教委もかなり優れた同様な考えを持った管理職を派遣してくれたこともあいまって、そして保護者の多くの賛同(PTA役員も含め)もあって、大きな力になったと思います。
この過程で何度も激しい議論がありました(サイトの行事の項や総合学習の項を参照してください)。
なんと言っても僕が一人で孤立するという情況ではなく、最初は3・4人。後には10人ほどのグループが形成されたことが大きいです。もちろん全てに渡って合意できたわけだはないですが。生徒が主役という合意点を基礎に、それぞれの課題において当面一致できる所で自然にグループが形成されました。
そして最後に決定的だったのが、文部省の「転向」。いや新学力観に基づく改革の始まりです。グループでのこの点についての合意点は、理念としては良い。問題は実施する方法のあいまいさと担う教師の数の少なさでした。
まあこの改革をおおいに利用しようということでしたね。
授業を完全にカットするという点は、やや納得がいかない部分もありますが、体育祭と文化祭の両方でという部分で納得がいくものがあります。
私の勤務する学校では、体育祭と文化祭が対等という認識がないようなので…。前回も申し上げたとおり、文化祭練習より運動部の練習が優先される学校ですので…。体育館を使う運動部の顧問の中には文化祭前、「しゃぁないから、体育館を貸してあげる」というような、認識を持っている者もいました。文化祭練習優先となるまでに、4年ほど戦いました。
現在の管理職も、運動部の3年生は、夏休みで活動が終わるので、文化部3年生が文化祭(本校では10月下旬)に向けてがんばっている9月末に「3年生はみんな部活動も終わって、2年生が中心となり…」などと、全校生徒の前で発言をする有様です。これに関しては、その日のうちに校長室まで発言の訂正を求めに行き、校長も素直に非を認め訂正をしましたが、問題なのは、他の教師は慣れっこになってしまっているのか、動きがなかったことです。私も文化部顧問をたきつけ、大勢で行くべきだったのかもしれませんが…。
コアラさんはどのようにして、上手に他の人の意見をまとめておられるのでしょうか?
体育会系の人々の多くには特権意識があることはたしかです。ただそれは運動部が試合で勝つことを学校の名誉にしたり、体育会系の教師の暴力で生徒の自己主張を抑えようとしてきた学校の体質に原因があると思います。
私が昨年まで勤務した学校では、体育祭の時にはこれに集中し、授業も部活もなし、文化祭の時にも同じと言う原則を立て確認していました。体育祭の準備期間、ほぼ8日間は、授業を完全にカットして朝から夕方まで体育祭の練習と準備(応援やマスコットづくりなど)に集中し、この期間の部活動は、伴奏をする吹奏楽部だけとしました。また文化祭前の1週間は授業は午前中とし、午後は全部(夕方まで)文化祭準備とし、部活動は文化祭に参加する部以外はなしとしました(例外は文化祭の直後にある市の駅伝大会の選手・候補選手のみ。これも時間制限があり、4時以降に限定)。体育館はこの期間中は舞台練習とリハーサルに使用しました。こうすると生徒も教師も体育祭と文化祭に集中できますし、行事が終わったら授業と部活動・委員会活動に集中できてとても楽です。
考え方の基本は、勉強でも部活動でも委員会でも、どんな活動でも生徒個々の力を伸ばしそれを発表する場としてはどれも対等であるという考えかた。一人一人が自分を思いっきりぶつける場を見つけられればそれで良しという考え方です。
この考えを最初に提案したのが体育科だったというのも、合意が形成される有利な条件だったと思います。
勤務時間についてはずいぶん議論しましたね。一定の合意の下で動いていました。
おっしゃるとおり、言いたいことは
「この学校の始業時間は…」ということと、
「子供たちをどうしたいねん」という2点です。
私も勤務時間についての観念がない一人です。
今の時代には適応できていないことはわかっていますが、必要を感じれば、早朝出勤も居残り残業もします。
そして、必要を感じなければ、勤務時間終了前に、職場を後にします。
子供たちの時間に関しても、「一本筋が通っていれば」生徒も保護者も、そして私も、気持ちよく受け入れることができると思うのですが……
論点は変わってしまいますが、「朝練の後、だらだらと教室に戻ってくる生徒。それを容認する顧問」については、
今までの勤務校でもありがちだったのですが、
「体育科・運動部」は特権階級であるかのような勘違いから起こっている部分があるように思います。
「体育会前」は授業や他のものよりも、体育会練習優先。
「文化祭前」には文化祭練習や準備よりも運動部の練習優先。といったムードが本校にはあります。皆さんの職場ではいかがですか?私は、文化祭前に体育館の使用について、バレー・バスケの顧問と怒鳴りあったことがあります。
> もっとも教員には始業時間の観念がなくなっています(だから終業も)。自分たちの勤務時間の観念がないのですからね。労働条件を契約して雇われているという考えを排除してきたことが根本的な原因だと思います。
自分たちの勤務時間についての観念がない、ということは、おのれが働いている労働条件について無関心、ということですよね。ということは、労働条件を切り下げられてもそのことの意味がわからない、なんとなく「長い物に巻かれて」過労死への道を歩まされてしまう。
教師がおのれの労働条件に関心が払えなくて、生徒の人権など守れるはずがありませんよね。正規の始業時間(生徒の)などは、教師の勤務開始時間を基点に考えればさほど難しいことではないような気がするのですが。長く働けばいいってもんじゃないし、だいいち長時間労働は人間のゆとりを奪い、ゆったりと生徒に向かいあうことが難しくなるんじゃないかな?
つまり、なみかさんの言いたいことは、いったいこの学校の始業時間は何時なのかということだと思いますね。おそらく正規の始業時間は8時30分のままなのだと思います。だから朝練をしている部活の生徒は8時30分ごろに教室に入ってくる。これをとがめれば朝読書は正規の教育活動なのかという疑問がおそらく出てくる。
朝読書は良いものだと思いますが、これをすることの意味が教員全体で合意されていないのではないですか。必要であれば、現行の始業時間以後にやるのか、それとも始業時間を早めるのかの論議もしっかりとできると思うのですが。
もっとも教員には始業時間の観念がなくなっています(だから終業も)。自分たちの勤務時間の観念がないのですからね。労働条件を契約して雇われているという考えを排除してきたことが根本的な原因だと思います。
ごくせんさんのおっしゃるとおりかと思います。
しかし、私が言いたいのは、あくまでも「始業は8:30」
つまり、「遅刻扱いとなるのは、8:30に教室に入って、準備ができているかどうか」で指導するべきだと言うことです。
そして、本校では、予鈴がなる5分前の8:20に
「門をくぐりなさい」「教室に入りなさい」という指導が、同時になされていること。
また、朝集のある日はさらに早い8:15には」廊下に並びなさい」という指導がされていること。
この矛盾に対して、「おかしいやん」といっても、全く受け入れてもらえません。
子供たちは、いったい、どの時間を基準に動けばよいのやら…。
筋が通っていない指導を子供たちは表面上受け入れていますが、私が生徒であったり保護者の立場なら、強い不信感を抱いてしまうだろうと思います。
私は「8:20に読書を始めさせたいのなら、8:15に門をくぐらなければ、遅刻の指導をすべきだ」と主張したこともありますが、それも却下されました。
また、朝練をしている運動部の生徒の中には、8:30頃に堂々と、大きな声で話をしながら廊下を歩くものもあり、その場で指導したこともあり、それを顧問に連絡しても知らん顔。学校全体に一貫性がないというか、筋が通っていないというのが、残念ながら本校の現状です。
初めまして。当方は熊本市の「社会科教育を考える会」で、社会科教員が集まって授業法や教材を研究しています。3年ほど前から教科書準拠型ニュースサイト「政治・経済なるほどネット」を開き、全国の先生方にご利用いただいております。ぜひ一度ご覧いただき、ご意見・ご感想をお聞かせいただけると大変幸いです。URLは,http://www5.ocn.ne.jp/~syakai/
です。よろしくお願いいたします。(代表・田宮泰三)
はじめまして、中学教師です。
登校時間についての論議は私も経験したことがあります。5分前登校をさせるための10分前登校とか、遅刻にならないというのは、校門をくぐればいいのか、教室に入る時間なのか。
同じく私たちの勤務時間は、学校の敷地内に立ち入れば間に合ったと言えるのか、出勤簿にハンコを捺した時なのか。ま、タイムカードになると別でしょうが。
で、もう少し視点を変えてみましょう。
8:20読書開始ということは、8:20に本を読み始めていなければならないのです。8:20に校門をくぐったり、教室に入るのでは間に合わないのです。
私は生徒によく言います。「8:20発車の電車に乗るのに、8:20に駅に行く人はいますか?」
もう一つ。自動車教習所に通った人は解ると思います。教習が8:20からなのに、8:20に行きますか?
確かに8:20に教室に入れば、時間的に「間に合った」と言えるでしょうが、読書は始まっています。そこでコートを脱いだり、かばんから物を取り出すことが他人の迷惑になる可能性があります。
だからあえて登校時間を決めるなら、読書開始の5分前に決めればいいと思うのですね。予鈴など鳴らさず、本鈴で発進!
いかがでしょう?
新学期も始まり、しばらく忙しかったので「ご無沙汰」となってしまいました。申し訳ありません。ののはなさんが、おっしゃっていた「目的と動機」ですが、よくわかりません。
ただいえることは「今までが○○だったから」というような、【亡霊】とでもいうのでしょうか、変な固定観念にとらわれているのかと思います。彼らからは「私(なみか)はかわいそうな奴」、私からは「奴らはかわいそうな奴」といったところでしょうか?
今の日本は危険がいっぱいですね。
人を疑うことを知らない純真な子供たちは連れ去られ、日本は安全だと思い込んでいる子供思いのお年寄りは簡単に騙されます。
女性の皆さん、セクハラは人ごとではありませんよ。
どんな男性に対しても、絶対にスキを見せてはいけません。
適度な警戒心は男性に対するマナーだと思います。
なかなか変わらない学校や社会を頼っている場合ではありませんね。自分の身は自分で守りましょう。
神戸市立盲学校 職員一同
反論もできんなら、謝罪くらいすべきです。
神戸市立盲学校の教職員を人間として軽蔑します。http://www6.plala.or.jp/fynet/2scrap333sekuhara-2-2003.htm#333a031128xxx実習でセクハラ、盲学校教諭を停職処分%20神戸市教委
つゆくささんのおっしゃる通りですね。管理職は、生徒に一番近い所にいる教師の意見にしっかり耳を傾けるべきですね。その能力が問われています。でもそういう管理職少ないですね。みんな上を向いているだけで、下には威張ることしかしない。大事な時には決断を逡巡する。
だが同じことは教師にも言えますね。学校の主人公は生徒。教師や学校は彼らの育ちを助けるだけ。主人公の意見に謙虚に耳を貸すことも教師に必要な資質です。
追伸:つゆくささん。誕生日のお祝いの言葉ありがとうございます。僕も54歳になってしまいましたよ。でもまだ人生の折り返し点のつもりです。
コアラさん、みなさん、ご無沙汰しております。
仕事や父の介護であたふたしている間に新しい年が開け、コアラさんのお誕生日も過ぎていました。遅すぎますが、おめでとうございます!(私も一月生まれです)
それにしても学校の現場はセクハラから朝の登校時間の問題まで、いろいろと大変ですね。
どこの職場もいろいろとあると思いますが、私の働く産婦人科(助手ですが)でも、最初は見えていなかったことがだんだん見えてきたり、矛盾に思えることがたくさん出てきます。そんな時、いきなり院長に訴えても忙しくて聞いてもらえないので、まず同僚に相談し、あきらかに患者さんに悪影響があると判断した場合はすぐに婦長に相談します。判断は婦長に委ねますが、どんな些細な助手の意見でもしっかり聞いてもらえます。院長や婦長の視点からは見えないこともありますし、ちょっとしたミスでも取り返しの付かないことになりかねないからです。
学校の管理職の方は、大切な生徒さんの一番近くにいる教師の意見をないがしろにせず、しっかり聞く耳を持つべきだと思います。そうしないと、教師は生徒の声に耳を傾けなくなってしまうでしょう。登校時間の変更くらい、スムーズに進められる柔軟さが欲しいですね。
なみかさんへ
事情が少しわかりました。
>「力関係」や「数の論理」で
>私1人ではどうにもならず、共鳴してくれる人を探している
とのこと、わたしにも同じ思いはありますから、うなずけます。
集団の力学を上手に活用できる人がうらやましく、時にはひとりで意地になってみることもあるますね。
でも、それでいいのでしょうか?
ほんとうに大きな問題ならば、いつか共鳴してくれる仲間が現れて、マジョリティ側も無視できなくなる。
そうなるのではないでしょうか。
>「時間より命やマナーの方が大切じゃ!端を走れ」
という声が生徒にとって心にストンと落ちる言葉なのでしょうか。
わたしはゲリラ専門ですから、ここを成し遂げたいと思ったら、まず多くの人が共感してくれそうなことから、問題提起していきます。職員会議でも「今日はこの人と連帯しよう」と考えて、人の意見に同意します。うちの職場では2人が異議あり!って言えば無視できなくなります。3人同意すれば、原案がひっくり返る可能性大です。
なぜなら30人も教員がいても、ほとんどがことなかれ、いやだけれど、今こなししていることで精一杯。面倒だから、長いものに巻かれよう、って思っています。
で、ここに3人が違う考えを持っている。これって大きいのです。下手をすると眠っている人もうなずきはじめます。
そのためには大上段に「おかしい」って叫ぶときも必要だし、「ばかみたい」っていなす必要もあります。管理職の弱点を握って、言わざるを状況に追い込むことも。
わたしの例が長くなりました。
なみかさんの学校では、そんな風に生徒をどんどん早く登校させるように提案される教師がいるというのは、どういうことなのでしょうか。
その人たちの真の目的は何なのでしょうか?動機はなんなのでしょうか?考えて、教えてください。
目的と動機をつかめば、闘いやすくなるのではないでしょうか。
正直あまりできていません。
ことあるごとに「おかしい」と挙手をしますが……
私も朝、週番という名の「おはよう&服装監視当番」に立つこともありますが、正門前の道路(もちろん一般道・歩道無し)の交通整理(交通マナー)に『ひとり』力を注いでいます。
というのは、この道路、自動車はほとんど通らないのですが、中学生たちは、道いっぱいに広がって歩いているのです。
変わり者の私は、その中学生に「君たちだけの道じゃない」といいながら片方の端に寄せようと努力しますが、後の教師たちはほとんど知らん顔。
遅刻寸前になり道の真ん中を走る生徒には「時間より命やマナーの方が大切じゃ!端を走れ」とひとり声をかけますが、むなしい限りです。こんなマナーができてから次に時間じゃないかと考えています。
一度、学校長に「子供たちのマナーの悪さを学校長の目で見て欲しい」と直接要望しましたが、笛吹け度踊らず。
「ワシが、学校の中心じゃ!」と言わんばかりの教師たちは、このようなことなどがきっちりできずに、何をしようとしていることやら??
どうしても「力関係」や「数の論理」で私1人ではどうにもならず、共鳴してくれる人を探しているところです
なみかさん!
>「8:30に間に合えば遅刻ちゃうやん」ということに気がついており矛盾を感じている
という問題意識をもっておられるのですね。
わたしもおかしいと思います。
こんなやり方で、どんどんおかしな方向に引っ張っていく総理を持っている国の民として、同感です。
まあ、ちょっと飛躍したので、戻ります。
で、なみかさんとしては、学校現場で
この問題をどう解決していこうとなさっているのですか?
> 学校はどうしても遅刻という行為を罪悪とみなし、遅刻させないよう正規の本鈴の前に予鈴を設け、さらにその前に「5分前行動」と称して予鈴の予鈴を設けて、なんとかして遅刻させまいとします。そしてこの予鈴の予鈴は本来は努力目標だったのに、しばらくするとこれが義務化し、罰則まで伴うというのが通例でしょう。
> あまりに過保護な、犯罪の前に予防的に拘禁するみたいな、生徒を信頼しない動きだと、僕は考えてきました。で、しばしばこのような動きに反対を表明しましたが、発想の根本が違うようで、理解されませんでした。
→「5分前」はコアラ様がおっしゃるように、遅刻をしないためのひとつの方法ですよね。ということは、ほかにも考え方があって、たとえば電車なんかは8時半発だと8時29分に車両の中に入ればいいんですよね。このあたりが学校という枠の中で「5分前」以外は許容できないというように硬直するようですね。
> 遅刻は当該生徒と家庭の人の、生活のありかたそのものが現れてくるので、小手先の指導ではなくならないと思います。もう中学生になれば、自分の行動の結果は自分でひきうけてもらうしかないのではないでしょうか。遅刻しないように指導はしても、強制では何も解決しないと考えています。
→賛成です。ただ、学校と共に家庭でも「時間に遅れない」ためにはどうすればいいかを教えるだけのキャパシティがないと大変なのかもしれません。私が聞いた例では、せっかく高校を出て就職をしたのに、親が子どもに無関心で、子どもは出勤のために学校時代より早くうちを出ることができず首になり、転職を繰り返しているという話があります。結局、先日の繰り返しになるのですが、このへんも「力関係」が生じてはじめて解決するのかな、と思ったりします。情けないのですが…
「新年あけましておめでとうございます」
本校では
8:15 廊下整列完了(朝集のある日のみ)
8:20 生徒会遅刻
教室に入り読書開始
8:25 予鈴のチャイムのみ(特に指導無し)
8:30 本鈴 となっています
どうしてものどの奥に引っかかっているのは、
コアラさんの言葉を借りると「犯罪の前に予防的に拘禁するみたいな、生徒を信頼しない動き」のために、
8:30に間に合えば、遅刻にならない。
8:30に間に合うための8:25の予鈴
この8:25の予鈴に度々送れれば指導が入るのは当然でしょう。
しかし、その前の8:20!?
また、8:20に門をくぐっていれば、門では咎められないのに
同時刻に教室では読書を始めなさいという指導。
生徒たちも「8:30に間に合えば遅刻ちゃうやん」ということに気がついており矛盾を感じている者も当然います。
もし、8:20に教室で読書を開始させたいのならば、8:15には門をくぐらなければ物理的に不可能な話です。
そのあたりの指導に「一貫性のなさ」を強く感じています。
「教室に入っておくべき時間」と「門をくぐらなければいけない時間」が同じ。おかしな指導だとは思いませんか?
朝集があるときに至っては「廊下に整列をしなければ行けない時間」の方が「門をくぐらなければいけない時間」より早いのですから。
このような指導の中で子供たちはどのように育っていくのかが不安です。先ほども記述したとおり矛盾を感じ始めている生徒もいます。こんなおかしな指導、私は困惑しています
うちの学校の例を
8:15 教員の勤務時間開始
8:20 教員の朝の打ち合わせ
8:25 正門予鈴遅刻
(東門閉鎖、生活委員の週番がチェック)
8:30 生徒ここから正式遅刻(正門も閉まる)
教員、職員室から教室へ移動
出欠を取る
8:35〜45 朝の読書(学校中で静かに本読み)
8:45〜50 朝の連絡
8:50 1校時開始
**********************
うちでは、遅刻をする生徒は固定化している。
問題なのは遅刻することではなく不登校。
笑ったのは、遅刻者に紛れて不登校の生徒が登校した場合。
「よく来たな〜」って教員が喜んでいる。
困った現象、手ぶら登校する生徒がいるので、注意をしても平然とした子がいること。
お昼ご飯だけ食べに来たい子を教員が来させまいとしていること。
******************
で、なみかさんが問題提起されたいことは何でしょうか?
>指導に一貫性がない
>時間が「二重・三重」の構造になっており大きな矛盾が生まれている
ここのところをもう少しわかりやすく説明してもらえないでしょうか?
お互いが違うものを見ているとき、共通認識を持つまでにはもっと情報がほしいです。よろしく!
> 私は、神戸市立盲学校卒業生(女)の彼氏という立場です。
> 他にも触られた子もいるらしいですが、卒業後も仕事上(ハリ・あんま)の付き合いがあるようで、泣き寝入りの状態です。
他にもセクハラ教師がいるという情報が彼女からのものですね。セクハラによって傷ついた心をどう癒して行くかが、あなたの仕事の一つになりますね。そして学校としてこのような行為をなくさせることも。・・・うーん。こっちは難しいな。ネットを使って非難しても、非難された方は身構えて、かえって攻撃的になるだけのような気がします。きつくても被害を受けたほうが、法的に訴える行為をとったほうが、効果があるのではないでしょうか。・・・ただ警察や裁判所に被害女性の気持ちをくんで対処するというしくみ、たとえば女性の担当官をおくとかがなされているのかが疑問ですが。
こんにちは。管理人のコアラです。
僕が3月までいた職場(中学校)では、8時半が本鈴ですが、その5分前が予鈴です。この予鈴に遅れたものは予鈴遅刻となり、週番の生徒にチェックされ、あまり予鈴遅刻が多いと遅刻をする可能性大ということで教師の指導が入ります。教師は輪番制で8時15分から校門の前にたち、生徒と共に週番をします。教室では8時25分の段階で、学級委員が出席をとり、25分以後、教師が来る45分までは朝自習となります。担任教師は25分にクラスの出欠情況を確認して30分から15分間の朝の打ち合せをしてから再びクラスに行きます。月曜の朝礼の時には、25分に体育館集合完了。20分には教室前に間に合った生徒のみ整列して体育館に入場となっています。
15分から週番や25分に教室に行くと勤務時間外の仕事で奉仕となるので、今年度から勤務時間開始を30分早めて8時開始とし、教師は全員8時から活動し、あとの生徒の活動は今までどおりと変えたはずです。こうすれば教師の動きには余裕ができますから。そのかわり勤務終了時間を30分早くしたはずです。
学校はどうしても遅刻という行為を罪悪とみなし、遅刻させないよう正規の本鈴の前に予鈴を設け、さらにその前に「5分前行動」と称して予鈴の予鈴を設けて、なんとかして遅刻させまいとします。そしてこの予鈴の予鈴は本来は努力目標だったのに、しばらくするとこれが義務化し、罰則まで伴うというのが通例でしょう。
あまりに過保護な、犯罪の前に予防的に拘禁するみたいな、生徒を信頼しない動きだと、僕は考えてきました。で、しばしばこのような動きに反対を表明しましたが、発想の根本が違うようで、理解されませんでした。
遅刻は当該生徒と家庭の人の、生活のありかたそのものが現れてくるので、小手先の指導ではなくならないと思います。もう中学生になれば、自分の行動の結果は自分でひきうけてもらうしかないのではないでしょうか。遅刻しないように指導はしても、強制では何も解決しないと考えています。
のようむ様返信ありがとうございます。
のようむ様も同業者でらっしゃるのでしょうか?もしそうなら、貴方の職場ではどうなっているのでしょう?
私は、他人からの評価はわかりませんが本当に必要を感じれば時間など関係なく、進んでしんどい仕事でも引き受けようとしてきたつもりだし、私が関わった生徒たちにもそうであって欲しいと願ってきました。
そして、8:20の生徒会遅刻に関しても、本当に生徒のためになるのなら、それでよいとも思っています。だから「8:30の本鈴に対して予鈴を10分前にする」としているのなら、筋が通っており「ちょっと早いやん」と思いながらも、納得をして、気持ちよく指導できると思うのです。しかし、本校では8:25の予鈴があるのです。『指導に一貫性がない』のです
つまり、時間が「二重・三重」の構造になっており大きな矛盾が生まれているのです。
昔TV番組の中で「正しいことをしたければ偉くなれ」というセリフを聞いたことがあり心に強く残りました。のようむ様の言う『強い立場になれ』と同じことです。その通りだと思います。
だらだらとした文章になってしまい申し訳ありません。また、のようむ様を始め多くの方の意見と、現状をよろしくお願いします
なみか様:本来ならば8:30までに学校に来ればいいはずなのに、15分も早い8:15に校門をくぐっても「遅刻」扱いとは、なんとも面妖な話です。このような現象は、その社会なり集団なりにはっきりした力関係があり、ゆえに弱い立場の者が抑圧を受け、なすすべもない状態におかれているような場合によく見られることだと思います。このような状態の中では、「弱者」は生き残るために自らの権利を、あたかもおのれの肉をおのれの手ににぎったナイフでそぎおとすように「切り売り」することを余儀なくされるものです。
喜んで8:15に廊下に整列する生徒は、ほとんどいないのではないでしょうか。
力関係の前では、黒いカラスも平気で「白く」なります。多くの人が「カラスは黒い」と思っていても、恐ろしくてとてもそんなことは言えません。
学校のこのような状態に矛盾を感じられるのならば、少なくとも、あなたの手で8:20にチャイムを鳴らすかぎり「管理職を目指している教諭」を批判する資格はありません。第一、勤務時間はどうなっているのですか?8:15に生徒が校舎内にいるのならば、教師はもっと前に学校に来ていなければならないでしょう。勤務時間をなしくずしに「延長」(それも貴重な朝の時間を!)することは、けっして生徒にとってプラスになるとは思えませんが。
手っ取り早い方法としては、なみか様が職員室で「強い」立場になり、力関係をもって自分の考えておられるとおりにしていけば簡単だと思いますが…こんなことしか言えない自分がちと情けないです。
私は公立中学校教諭です。皆さんの学校では朝の時間帯はどうなっていますか?私の現在の勤務先では、8:30本鈴。そのため8:25に予鈴。ここまではどこでも同じようなものだと思いますが、ここからが大きく違います。8:25の予鈴に間に合うために、8:20に生徒会遅刻なる時間が設けられ、その時間に門をくぐらなければ予鈴遅刻同じ扱いです。また、その裏では同じ時刻(8:20)には、教室に入り朝の学習(読書)を始めなさいと指導。朝集がある日には8:20には集合完了。しかも教室前廊下から並んでいくよう指導しているので8:15廊下整列完了を指導しています。
これは管理職からの指導ではなく、管理職を目指している教諭からの提案で、数回「これはおかしい」と声を上げましたが、訳のわからん理屈を言っていました。そのくせ、チャイムの係をしている私が、8:25の代わりに8:20にチャイムを鳴らしたら「やめてくれ」…こんな変な学校他にも多くあるのでしょうか?
朝の時間がこんなだから、他にも多くの矛盾があります。
他の中が項ではいかがなものでしょうか?
現状を教えていただければと思います。
掲示板書込が始めてのようなものなので、趣旨から大きくはずれているかも知れません。その場合どうぞお許し下さい
昨夜、「太陽は僕の瞳」という1999年イラン制作の映画を観ました。感動のあまりテープを2回も回して観ました。
〜目が見えないのはずるいよ!みんな僕の目が見えないから愛してくれない。おばあちゃんだって。みんな僕から逃げていく。〜少年の言葉が突き刺さります。
見えるってなにが見えるんだろう?
見えると思っていても見えてないことがいっぱいあるのでは?と考えさせられる映画でした。
わたしは変形性頸椎症になってから目の不自由な方の治療院に通っていました。わたしの担当は女性でしたが、視力が若干不都合という方でした。連れ合いの方は完全に視力のない方でした。お二人で登山された話を聞いたときは感動しました。音楽がお好きでした。わたしも好きなのでjazzのMDを差し上げましたら、わたしが今から行きますと電話すると、必ずそのMDを流して待っていてくださって、針は怖かったのですが、その先生の針だけは安心でした。
こんな盲学校の話を聞くのは哀しいです。
こんな哀しい話はその学校だけのことではないと思いますが、目が不自由だという弱点を悪利用されているようでよけいに哀しいです。
12/17の新聞に「性的児童虐待4割実父」という記事が載っていました。哀しいかな、学校現場にいて、中学生の不良少女の多くがこうした被害者なんです。まともな形で愛されない人間の哀しみをたくさんみてきてわたしは、盲学校でそんな哀しい性を知らされた少女たちがかわいそうでたまりません。その哀しみは男性の方にはわからないのではないでしょうか。でなければ、実父が加害者だなんて哀しすぎます。
さて、miumiuさん!恋人ならば、彼女の痛みをすこしでもわかって、そのこころを伝える言葉を選んで下さい。
復元ご苦労様でした。
私は、神戸市立盲学校卒業生(女)の彼氏という立場です。
他にも触られた子もいるらしいですが、卒業後も仕事上(ハリ・あんま)の付き合いがあるようで、泣き寝入りの状態です。
miumiuさん。すみません。あなたのあとに書きこまれた記事を削除したときに、あなたの書き込みまで誤って削除してしまいました。とりあえず下のように復元しました。
他の掲示板の議論を貼りつけた理由、了解しましたので、今までの書きこみはそのままとします。実は僕もあの掲示板にいってみたのですが、教職員名で削除お願いがだされ、管理者がそれを受け入れているのを見ておかしいなとは思っていました。学校側はただ学校の面子だけで動いており、事件の隠蔽工作かなと思いました。ただ、あなたが神戸市立盲学校とどのような関係の方なのかがわからなかったから、コメントを差し控えていました。
この学校の問題を議論する前提として一つ質問があります。あなたはどのような立場でこの問題をあちこちの掲示板に書きこまれているのでしょうか。
議論可能です。
神戸市立盲学校の職員が、コソコソと掲示板削除を続けているので、その姿勢を不信に思い、貼り付けました。
管理人のコアラです。
234から237までの書きこみは、すべて同じ人による書き込みです。特に236・37は、他の掲示板での論議をそのままコピーしただけ。こういう投稿のしかたはおかしいと思います。
神戸市立盲学校のセクハラの件は、酷い事件であり、これがさらに拡大することをもみ消そうとする学校側の態度が見うけられます。ただし、事件以外にもセクハラ教師がいるかどうかは当方は判断できませんが。
この学校の対応を問題にされるのであれば、バンドルネームを複数使って他の掲示板のものをはりつけるような真似をするのではなく、できれば実名で、無理なら単一のバンドルネームを使って、多くの方と議論してほしいと思います。
今のやりかたを続けるのであれば、僕の方で、今までの書きこみは全て削除させていただきます。29日までにご回答お願いします。
☆ Re: 削除依頼 / 匿名にしてくれろ 引用
●●学校 職員ご一同 様
わたしは、管理人ではないので横レスになってしまいますが…
たいへん気を遣って書いておられるのがよくわかります
事件については、お見舞いをもうしあげますが、わからないことがあります。
書き込まれている情報に誤りがあるのでしょうか?
それとも、正しい情報だが幼児児童生徒さん方へは見せたくないということなのでしょうか?
一方では「インターネットは第二の眼」といいながら
もう一方では情報の隠蔽を画策する
「外野が何を言うか」とお叱りの声も聞こえてきそうですが、たしかに情報隠蔽も必要悪かもしれません、
管理人さまがどうのような判断をされるかわかりませんが、私は、かえって困惑しています
なお、このような削除依頼はこっそり電子メールで依頼するべき事です(でないと削除依頼したことも幼児児童生徒さんにばれてしまい混乱を深める)
このように掲示板に書かれると「恫喝」しているとみなされることもあるので要注意です。
No.3949 - 2003/12/22(Mon) 21:22
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☆ Re: 削除依頼 / くめぞう 引用
なんか方向が違うような気がします。つまり児童生徒のことではなくて学校の評判を気にしておられるだけなのではないかと疑いたくなります。
本当に職員のかたなのでしたら、こんなことに注意を向けていないで、再発の防止と児童生徒の精神的なサポートに注意を向けてくださることを切に望みます。
No.3952 - 2003/12/23(Tue) 00:16
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☆ Re: 削除依頼 / π傘幻 引用
ロムってなかったんでなんともいえませんが、
「削除依頼」というのは卑怯ですな、「説明責任」の
放棄であると思うよ、あんたが「教師」であろうと
なかろうと知ったこっちゃありませんね、そんなこというなら私は「元銀行員」だよ、悪名高いね、あんたらと同じくと言ってもいいものかな・・、
「吐いた唾」は飲まんでほしいものです、管理人さんにも迷惑ですな、「教師」だから言えないことがあるのかな?
職業に貴賎があると思ってるの?そんな「高尚」なのか?
教師が?特別でもなんでもないよ、そんなもの、驕りですな、そんなもの、笑止!
そういう人を小馬鹿にした態度こそ、あんたがもし本当に「教師」であるなら、あんたらのいう「聖職」を地におとしめている元凶だね、
だれしもが一長一短なの、
No.3953 - 2003/12/24(Wed) 00:15
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☆ Re: 削除依頼について / 神戸市立盲学校 引用
職員一同となっているが、本当に全員で決定がなされたか疑わしい。
セクハラ事件の事実をもみ消す事に必死なばかりで、
それを児童が悲しむなどと責任を摩り替えているだけだ。
悪徳教師のなせるわざだろう。
削除依頼に必死で、ろくに問題解決や、通常の授業さえも行っておらず、毎日ネットにかじりついて、自分のセクハラをも隠したいのだろう。
卑怯極まるやり方だ!
No.3961 - 2003/12/28(Sun) 02:
削除 投稿者:匿名にしてくれろ 神戸市立盲学校職員一同 hideyuki_yamamoto@sch.ed.city.kobe.jp
投稿日:12月22日(月)17時10分22秒
関西障害者交流 掲示板 管理人様
http://8201.teacup.com/koji0taka4/bbs
この度は、貴掲示板への書き込みにより、HPの管理・運営をされている方々をも巻き込んだかたちで、ご迷惑をおかけしていることに、大変心を痛めております。そして、お詫び申し上げます。
実は、大変恐縮ですが、貴掲示板に掲載されている以下の書き込みについて、削除をお願いしたいと思います。
神戸新聞ニュース
投稿者:神戸市立盲学校セクハラ!事件です!
投稿日:11月28日(金)19時54分59秒
神戸新聞ニュース 教諭がセクハラ、処分へ 神戸市教委 2003/11/28
神戸市立盲学校の男性教諭(49)が、(以下略)
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生徒の本音 神戸市立盲学校には他にもセクハラ教師がいるよ。
投稿者:卒業生 投稿日:12月16日(火)23時34分19秒
生徒の本音 神戸市立盲学校には他にもセクハラ教師がいるよ。
盲学校受診者にセクハラ=臨床実習で教師、停職処分−神戸
神戸市の市立盲学校で、(以下略)
削除をお願いするのは、これらの書き込みが、神戸新聞などからの引用となっているとおり事実ではありますが、また一方で本校の幼児児童生徒たちの心を深く傷つけるからです。
盲学校は、視覚に障害のある人々の大切な学舎です。
その学習の道のりは決して平坦なものではありません。
我々職員も、そんなひとりひとりの心、それぞれの思いを大切に、あたたかく安心して過ごせるよう、いつも心を砕いています。
ここは、ともに頑張りともに励まし合い、幼児から成人まで幅広い年齢の方々が、みんな仲良く学ぶ、そんな愛すべき学校です。
わたしたちはこの学校を大切に思っています。
インターネットというメディアを、視覚障害者は、読み上げソフトや拡大ソフトを利用して情報を受け取り、処理し、発信します。インターネットはあらゆる情報の宝庫といえます。パソコンは視覚障害者にとって、「第二の眼」です。一方で、そんな大切なメディアであるパソコンやインターネットが、人の心を傷つけるこのようなかたちで使われたことに、私たち関係者一同は戸惑っております。
これらの書き込みは、多くの罪のない幼児児童生徒の心を深く傷つけるものとなってしまいました。もちろん、われわれ教職員一同も、とても困惑し、苦慮苦悩を重ねる日々が続いております。
この度のことにより、幼児児童生徒はもちろん保護者や地域のみなさま、本校の教育にご支援を頂いている全ての皆様の、学校への信頼を裏切る結果となったことについて、大変申し訳なく思っています。盲教育、三療への失われた信頼を一日も早く回復できるよう、また、二度とこのようなことが起きないように深く反省を重ね、日々、努力を続けております。
どうか、ご理解下さい。
平成15年12月22日
神戸市立盲学校 職員一同
”書き込みは、生徒の心を深く傷つけた”って書いてるけど、
書き込みが悪いんじゃないよね。
セクハラ教師(49)が諸悪の根源なのに。
神戸市立盲学校って、本当に最悪!!!
神戸市立盲学校
郵便番号 654-0014 所在地 神戸市中央区東川崎町1-4-2 TEL 078-360-1133
FAX 078-360-1136
神戸市立盲学校 にセクハラが目に余る、ひどい教員がいます。
信じたくないけれど、そうなんでしょうね…
「停職」とはひどい!!免職にすべきです>_<
想像するにほんとうに腐っている!盲学校ですって!?人間をなめている!ひどすぎる。
関連して思い出したのは、わたしのTTの授業で相方が居眠りすること。生徒に「あっ、先生眠っている!」って言われてはっ!管理職には2回抗議しました。「TTの意味もない、迷惑、それくらいなら、他の教員の授業に参加させろ!」と。本人に注意したら「毎日、部活で忙しくて」と弁解。この相方、授業の勉強も十分でない。それも部活で忙しい性にしている。
この相方、来年から正教員で採用になる。今はコネで臨時採用。で、管理職に部活がんばれと言われて来ている。教師の本業は授業!なのに、授業は下手、勉強もしない。わたしの授業では居眠り。相方の教えるクラスの子がわたしの勉強会に来たら、文句をいう。全くおかしい。
こんなことが起こるのも、教員には生徒を自分の雇い主だという視点がないから。役所の人間だって窓口で眠ったりしないでしょう!教師が世間から非難されるたびに、怒っているわたしですが、怒っている相手はこうしたなめた教師に対してです。
そう言えば、思い出したんですが。昔、都議会を傍聴したことがあったけど、そのとき一人の議員が居眠りをしていた。立派な肘掛け椅子に座って。あの議員の名前調べて発表すべきだったね。
どの世界にもなめた腐った人間はいる。そうした問題が明らかにできる方向でがんばりたいですね。
> 神戸市の市立盲学校で、はり治療の臨床実習を受診した患者女性にセクハラ行為をしたとして、同市教育委員会は28日、同校教師(49)を停職3カ月の懲戒処分とした。
なんでこの教師は「停職」なんでしょう。かなり酷い確信犯的行為でしょう。3ヶ月たてば職場復帰なんて。当然免職にすべきですね
> 神戸市立盲学校の男性教諭(49)以外にも神戸市立盲学校にはセクハラ教師がいるよ。
> 立場上、生徒は公に出来ないだけ。
> 皆、泣き寝入り。
> そして、そのセクハラ教師は、今回の男性教諭(49)をかばっている。
> 今は、セクハラもみ消しに必死らしい・・・。
> 自分のセクハラがばれるのを恐れているから。
ほかにもいるから「停職」ですませようというのかもしれない。どんどん告発しないと、【強い立場だと思いこんでいる】教師の犯罪はなくならない。教師の方が立場は弱いのですよ。生徒が雇っているのと同じなのだから。教師はそのことの自覚が乏しい。
生徒の本音 神戸市立盲学校には他にもセクハラ教師がいるよ。
盲学校受診者にセクハラ=臨床実習で教師、停職処分−神戸
神戸市の市立盲学校で、はり治療の臨床実習を受診した患者女性にセクハラ行為をしたとして、同市教育委員会は28日、同校教師(49)を停職3カ月の懲戒処分とした。
市教委によると、教師は昨年12月から今年10月にかけて、臨床実習中に女性の下腹部を十分な説明をせずに十数回、触診した。また「まだ嫁に行けないのか」「年だから仕方がない」などと、セクハラ発言を繰り返した。周りには数人の実習生と患者がいたという。
[時事通信社]
↑
神戸市立盲学校の男性教諭(49)以外にも神戸市立盲学校にはセクハラ教師がいるよ。
立場上、生徒は公に出来ないだけ。
皆、泣き寝入り。
そして、そのセクハラ教師は、今回の男性教諭(49)をかばっている。
今は、セクハラもみ消しに必死らしい・・・。
自分のセクハラがばれるのを恐れているから。
校長が強盗というショッキングな事件が起こりました。
犯罪を犯した校長は即刻逮捕され、懲戒免職になってよいはずです。
ところがこの校長はそのまま雇われ続けています。
こんなバカなことがあってよいものでしょうか。
このことにはたくさんの抗議の声が上がっています。
学校にメールした人も少なくはありません。
ところが学校や教育委員会の返事は全く不誠実で
被害者の先生の正しさをますます確信させるものでした。
私は暴力を許さないために学校との往復書簡をサイトで
公開することにしました。
署名も集めています。
宜しくお願いします。
往復書簡のサイト
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/8362/index.html
署名のサイト
http://chiba_273.at.infoseek.co.jp/
校長の強盗事件についてのサイト
http://mtsuji.com
(ネットの発達で情報は世界を飛び回るようになりました。この事件は三重県の事件です。
けれども署名を呼びかけている私は千葉に住んでいるのです。
皆さんのご協力をぜひお願いします。)http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/8362/index.html
> 私は3年間鈴鹿高校在学中に地毛なのに頭髪で‘染めろ‘と言われました。どうして地毛なのに言われなければならいのですか?
>
地毛だということを訴えても、「染めろ」と言われたのですか。「どうして染めなければいけないのか」を問いただしてみましたか?。「私の基本的人権・表現の自由を侵している」と訴えてみましたか。そこが大事だと思いますが。この問いに対する学校の対応のほどを教えてください。
> 私は3年間鈴鹿高校在学中に地毛なのに頭髪で‘染めろ‘と言われました。どうして地毛なのに言われなければならいのですか?
>
私は3年間鈴鹿高校在学中に地毛なのに頭髪で‘染めろ‘と言われました。どうして地毛なのに言われなければならいのですか?
すずめ様こんばんわ。
自己責任において自らのいのちと人権を守るため、運動部と一切関わりを持たないという自己選択をした結果、健康にめぐまれ生きる喜びを日々かみしめているのようむです。
子どもは判断力がないから全部大人がおぜんだてをすべきだという妙なパターナリズムが、自己選択の条件や材料を当事者に開示できない大きな原因でしょう。
人間は、切実に必要性を感じるか、そのことに興味関心をいだくかどちらかがあってはじめて動くものです。興味もないし必要性も感じないような中身の部活ばかりしかなくて、しかもそれを「義務づける」としたら、こんな人権侵害はありません。
森本君も、私らぐらい切実におのれのいのちと人権について認識し、その上で選択していれば、殺されずにすんだでしょう。その意味で友人はあのようなコメントを言ったのだと思います。賛成するしないは個人の自由です。(私は共感します)
人類の終末までに、森本君の「恨」が晴れることを祈ります。それにしても、体育畑の人間ってこわい。ああいう残虐な手口で子どもを殺すなんて…。まだ死にたくないから、近寄らないようにしなきゃ。
のようむさん、コアラさんこんばんは。
のようむさんのメールの中に「運動部の性質を知っていて入ったんだから自己責任では」という言葉がありましたが、私は「自己責任」=自分で選んだからしょうがないという論理には賛成できません。森本さんのご両親を苦しめていたのもそうした考え方でした。
「子どもが好きで選んだ部活だった。いろいろ問題もあり辞めさせることもできたのにそれをしなかったせいで殺してしまった」という思いに多分今も悩んでいると思います。あのときやめさせればよかった。あんな学校に行かせなければ良かったと後悔し続けています。
でも、いろいろ問題があったからと自分のこどもだけ辞めさせればよかったのかといえば違うと思います。公立学校を変えていくのは大変なことです。でも教師を刑事告訴し、学校や教師やそして部活動をとりまく問題に一石を投じることこそが子どもを殺された親の自己責任の果たし方と考えて行動をおこしました。
自己責任とはあきらめの論理ではなく、自分の責任で事態に対して対処していくことです。そして、そうした自己責任を果たすための情報の開示や行動の自由を保障させていくことだと思っています。
そういう意味で部活動を選んだりするための情報開示は少ないし、参加する・しないの自由もない(少なくとも中原中学では事件が起きた翌年度まで参加は義務付けられていました)。また、「地域教育会議」とか「学校モニター制度」とかありましたが、ほとんど形骸化されていてこの事件に際して役立つものではありませんでした。
また、地域の人達が部活動に参加してきていても同じようにスポコンの勝利至上主義の人達が多く、例えば野球部に来ていた地域ボランティアの人はあの殺した先生よりひどいしごきを行っていました。辞めさせるにも「少しぐらい活を入れる人間がいなければ・・・」とかいう親たちの一部の声で辞めさせることもできませんでした。(事件後やめさせましたが)
本当に事件のおかげでいろいろなことを知ってしまいました。そして、変わらない現実にがっかりもしています。
でも森本君や数多くの子どもたちの無念さを晴らすために少しでもできることをやって行きたいと考えています。
これからも、こあらさんを初めみなさんよろしくおねがいします。
のようむさん。今日は。
スポーツをレジャーとして楽しむサークルですか。良いですね。スポーツの楽しみ方としては、それも有りじゃないですか。いろいろな楽しみ方があって良いのだと思います。勝つことを目的としたサークルと、楽しむことを目的としたサークルと。
そして各個人がそれを選択し、その運営に経費の負担を含めて参加する。それぞれが選んだことなのですから、苦しくてもそれを乗り越えることが楽しいという人も出てくるでしょう。そして運営に主体的に関われば(指導者の専任権も含めて)、勝つことを目的にしたサークルでも、勝つためにしごくということは防げると思います。
日本のスポーツは、国威発揚であれ、団体の名誉であれ、今までのものはスポーツを行っている個人の意思や生き方が大事にされることがありませんでした。勝つことを目的としている団体でも、選手の名誉が優先されるなら、選手が消耗品として使われることはないでしょうね。
そういうありかへの転換が今求められているのでしょう。
でも当面すぐに実現はしませんね。ですから、スポーツをやる個人が日本の現状をよくとらえて入っていかないといけないですね。
この意味でも、スポーツにおける情報公開が必要ですね。
部活でも、その団体の目的と運営主体を明らかにし、活動実績やこれまでも問題点も明らかにされていれば、「これは無理だ」と思った人は入っていかないでしょう。逆に言えば、部活を選択するときには、そのような情報を集めていく主体的努力が必要だということでしょうか。
コアラ様:はじめまして。
何年か前に、大学の体育会に入る学生が減って、そのかわりにスポーツをレジャーとして楽しむことを目的とするサークルが人気を呼んでいる、という報道を見たことがあります。そのときの論調は、今の若い人は苦しいことを避けたがる、といった調子だったのを覚えています。
余暇活動なのですから「苦しいこと」を選ぼうが「遊び感覚」を選ぼうが、その選択に価値の上下はないのではと、私はその報道に強い違和感を感じました。所詮、すくなくとも今の社会では「勝利」はやっぱりスポーツの至上命令なんですよね(笑)。
スポーツを上記のサークルのようにすべて「レジャー」と割り切り、勝つ者がいれば負ける者もいる、と試合が終わればその結果をあとあとまでひきずらないようにすれば、コアラさんのおっしゃるように「勝敗至上主義」をある程度相対化できるかもしれませんが、私は現実を見るとまあ、無理かなと思います。
「勝負」がキーポイントである以上、今日は負けたけど、仕方がないか、また機会があったらいっしょに試合しましょう、といういいかげんなノリに、少なくとも日本人の多くは満足しないのではと思います。(スポーツマンガなんか見るとそのへんがよくわかるかと思います)
部活については、活動拠点は学校でいいかと思いますが、運営主体は地域に戻し、地域に開放すべきです。○○中学の運動部に、地域に住む失業者や行き場所のない「障害者」、主婦、定年退職した人が中学生にまじって活動できるようにすれば、ある程度の「抑止力」が働くのではないでしょうかね(これとて相当希望的観測なのですが)。
年齢も生きてきた背景も今の立場も全然違う人間が、ひとつのスポーツに一緒に取り組むようになれば、「勝利」以前にともに越えなければならないさまざまの困難にぶつかると思います。それが、「勝利至上主義」を多少とも相対化する作用をもたらすのではないかと思います。
教員が自分の時間を犠牲にした「ボランティア」で部活やってるのだから、自分の思い通りにならない奴をはり倒したくなるのは人情だし、セクハラとてその程度のおいしい「余録」がなければ…てなとこじゃないですか。だから、これ以上学校で部活を抱えるのは、過労死する教師と第二、第三の森本君の屍を山のように積み上げるだけになるでしょう。
まあ、どうせ、スポーツ界の石頭どもには、こんな話を出したところで「対牛弾琴」ってところでしょうねえ(笑)
ということで、暴力、シゴキ、セクハラ、いじめ、殺人は人類の終末まで浜の真砂じゃないけれど、変わらないでしょう。少なくとも、森本君を惨殺した猟奇殺人犯の教師を死刑台にあげることすらできないようじゃ、お寒いです全く。 森本君みたいに殺されたくなければ、世の中が変わるまで、運動部に入るのはやめた方がいいかも…私にとってはまあ「他人事」なのですが、老婆心にて余計なことを申し上げました。ど〜〜も!
こんにちは。掲示板管理者のコアラです。
部活動についていろいろ意見が出ていますので。僕からも一言。
>スポーツに「勝敗」がつきものである以上、「勝敗至上主義」はまぬがれぬ運命だと思います。
のようむさんはこうおっしゃられていますが、ほんとうにそうでしょうか。勝敗至上主義が何をさすかが問題ですが、仮に、いまの部活(正確には学校体育でしょうが)の持っている、勝つことが義務となり、勝つためには指導者などによる暴力も許されるという体質と規定しておきましょう。
日本はスポーツが学校単位で組織され、その学校の名誉をかけて戦われます。そして大事なことはこの学校を単位として行われるスポーツは基本的にそれに参加する人がお金を払って参加し、そのスポーツ団体の設立者・運営主体として参加してはいないということです。もちろん公立学校の場合公的補助が少ないので、参加者はかなりの負担を行いますが、それはあくまでも補助であるので、スポーツ参加者(およびその保護者)が、そのスポーツ団体の運営者として、運営のあり方や指導者の選任をおこなう権限がある主体としては認められていません。
ここにスポーツにおける選手が、勝つための「駒」としてのみ扱われ、勝つためには選手は「消耗品」として使われてしまう背景があります。そしてスポーツがその所属する学校という集団の名誉のために行われるので、選手が「勝利のための駒」と扱われる傾向は加速されます。さらにこの学校という団体は、運命共同体という性格を付与されているので、勝つことは団体の構成員には義務となり、勝つためには「生命をも賭して」戦うことが義務であり、名誉でもあるということになります。
僕は日本のスポーツ(学校体育とか団体体育と性格づけると良いと思いますが)が「勝利至上主義」に陥っているのは、このスポーツの日本的なありかたに原因があると思います(旧「社会主義」国家もおなじようなスポーツになっていましたね)。
考えてみればこれは、国家が国民を戦闘員として扱い、勝つためには生命を賭して尽くすことを要求し、その指導者に国民の生殺与奪の権限をあたえがちなのと極めて良く似ています。日本のスポーツ団体はミニ国家なんですよ。それも全体主義的な。
ここを変えないと、体罰という名の暴力やセクハラや殺人は決して絶えないと思いますね。この点ではのようむさんと同意見です。
部活が全体主義であることの認識が、保護者の皆さんには少し希薄なのではないかと思います。
すずめ様:ていねいなお返事ありがとうございました。
スポーツに「勝敗」がつきものである以上、「勝敗至上主義」はまぬがれぬ運命だと思います。森本君の事件についても、友人は「運動部の体質を百も承知で入ったんだから、自己責任じゃないのか」と言いました。
あと、私は部外者ですのでよくわからないのですが、なんでも、スポーツには審判がつきもので、その判定に対してはたとえ「おかしい」と思っても異議を唱えることができない、と聞きました。
いやあ、私にはとても耐えられませんね(もっとも、耐える必要などさらさらありませんがね)。「おかしい」と思ったら「おかしい」と言える社会であってはじめて人権とか民主主義とかいう言葉が内実を伴うのではないでしょうかね。ですから、私の目から見ると、スポーツ=絶対服従・全体主義としか映りませんし、実際そうなのですから(先日、運動部のセクハラの事例をネットで調べて、そのあまりの多さに怒りを越えて笑ってしまいました)しょうがないですね。
部外者にそう思われたくないなら、運動部に民主主義や人権感覚を入れて見せていただければというところですが、基本的には私はあまり期待していませんし、さほど関心もありません(勝手にやれば!笑) 私は「おかしい」ことは「おかしい」と言えるところに幼い頃からかなり意識的に身をおくようにしてきましたし、これからもそうするだけですから。
これからも、確実にシゴキ、いじめ、殺人が繰り返されるでしょう。部外者の私にはかかわりあいのないことですが、なぜか腹が立つのですよね…森本君事件のような報道に接しますと。死にたくなければどうすればいいか、それは各人の人生の選択しだいです。
のようむ様始めまして
私もご両親も「事故」だとは考えていません。だから、刑事告訴をし、刑事裁判を行いました。残念ながら判決は、現在の法体系では「業務上過失致死」ということで、罰金40万円になってしまいました。でも「学校事故」ではなく、事件であり犯罪であることははっきりしました。この裁判以降いくつかのケースで「業務上過失致死」で立件されている事件があり、今まで、仕方のないことと泣き寝入りしていた学校での事件をはっきりとさせる先鞭をつけたと思っています。こうしたことによって繰り返されないようになることを願っています。
また、運動部についてですが、「勝敗至上主義」ともいうような雰囲気やコアラさんが言われるような学校内の仕組みのなかでシゴキ・いじめ・殺人が起きていると思います。
話は変わりますが、イギリスから帰ってきた友人の話ではイギリスでは体育の授業もないそうです。しっかりとしたクラブチームがあり、子どもたちは自分の好みと力に応じてスポーツを楽しんでいるそうです。イギリスから帰ってきてから日本の学校に行ってびっくりしたのは、画一的・号令一家で行われる体育の授業があり、なじめなかったお子さんは、体育の評価が「1」(相対評価のときです)で行かれる高校も限られて大変だったそうです。まぁそのお子さんも成人されて自立した生活をしっかりやっているそうですが・・・。
スポーツ=命令には絶対服従 というのは短絡的過ぎますが、スポーツを根性とか規律とか服従としてしかとらえないようにやってしまうことが問題なのではと思います。
運動部の顧問教師によるセクハラ事件をおっかけているうちに、この掲示板にたどり着きました。のようむと申します!
森本君の事件ですが、私的には、あれを「事故」だと言ってほしくはない。あれは殺人事件以外のなにものでもなく、顧問教師は殺人犯だと言うしかない。
ここははっきりさせておくべきだ。
森本君の事件のようなことは悲しむべき事に、さして「珍しい」ことではない。なぜ繰り返されるのか?それは、事件を単なる「学校事故」で片づけてしまうからなのではないか?
私の友人がいみじくも言った。「おれの健康法は運動部と一切縁を持たないことだ」森本君の事件に接して、私は友人の言葉をこう言い換えたい。「死にたくなければ運動部と一切縁を持たないことだ」と。
運動部出身の人というのは、上からの命令に忠実だから、企業に好かれるのよね。だから就職は有利。ははは、昨今「自虐史観」なんて寝言をほざいている連中をおだてているのは、あの人達なんじゃないのかな?なぁんちゃって。
こんばんは!
すずめさんにも部活議論に参加していただいてうれしいです。
>部活は「聖域」。校長も教委も基本的には手が出せない。部活指導者の「王様」になる危険があります。そして、これに自分の名誉欲が加わると、とんでもない事件を引き起こす
コアラさんにこんな風にスパッと言い切っていただくと、胸のつっかえも降ります。いやいやわたしの教師人生の大半は、この部活での王様に泣かされた人生でもあります。
すずめさんのお話を伺って思うことは、部活が放課後の学童クラブみたいということ。子どもが自分の時間を自分でその使い道を考えることはとっても大切だと思うのですが。もちろんそれにはお金もかかるかもしれないけれど、お金をかけなくても十分意義ある時を過ごせる工夫をすることは大切だと思います。
教師の仕事は、子どもたちが自分の時間をいかに過ごすべきかを考える手助けをしたり、また、その教育プログラムを考えることではないかと考えます。
わたしは今、完全に自分の趣味と一致する環境に関するサークルを学校の中でたちあげました。ボランティアと思っています。ですから、そこではわたしも単なるクラブ員。今度の休みの日も子どもたちだけで、地域の川の活動に参加。
わたしは学校から部活が消えると、教師と生徒の関係ってもっと健全になるのではないかと考えます。
みなさんはどう思われますか?
コアラさんご無沙汰しています。個展に行っていただけたんですね。ありがとうございます。
ところで部活動の件ですが、中原中学は、事件後生徒の数が急激に減って全学年3クラスになってしまいました。したがって先生の数も減ったのでいくつかの文化系の部は入る部員もいなくなったということで、なくなってしまいました。また、以前のように部活動を必ずやらなくても良くなったので、何人かの子どもは、スイミングスクールやボクシングジムに行ったり、勉強に集中するために事件後すぐ部活動を止めた子もいます。指導する先生の状況はあいかわらずコアラさんのいっているような状況です。野球部については、先輩と言う人がボランティアで来ていましたが、彼が顧問に輪をかけて問題のある人だったので事件後しばらくして辞めさせたそうです。
事件後すぐの父母に対する説明会のときも「こんな事件に萎縮しないで、先生たちは、子どもたちをビシビシ鍛えて欲しい」という意見に大きな拍手が起きたり、この問題をPTAや部活動の親の集まりで取り上げると、異様な圧力を感じさせる雰囲気がありました。「おたくのお子さんは優秀だから学校に何でも言えるのよ。うちなんか学校にはむかったら、進学先なくなったゃうわ。」等々のいやみはたくさん言われました。
部活動が即内申書に響くと信じられているようです。
たしかにコアラさんが言うように専門のインストラクターがいる専門の施設での活動が望ましいと思います。しかし、部活に熱中している子どもたちの中には、「部活があるから学校に行く」という子や学校の授業では得られない集中力や団結してやりぬくことなどが得られているのも事実です。
現在、うちの娘は、部活動てチァーリーディングをやっています。(野球の応援などで見かけますが、あれは余技的なもので、かなりアクロバテックなスポーツです)。専門のコーチがいないため競技会での成績はよくありません。専門のコーチがいるいないは、ずいぶんと違います。しかし、予算がないとかで、コーチもなく、専用の練習場もなく苦労しているようです。でもそれはそれで自分たちで振り付け、競技内容や音楽も考え、練習場確保のために校長に直談判に行ったり頑張ってやっています。こういう経験ができるのも学生時代の特権です。
なにかとりとめもないことを書いてしまいましたが、部活動(特に中学の)についてはいろいろ問題にするべきことが多いと思います。
部活動は「課外活動」。つまり教育課程の外。学校教育ではないし、教師の仕事でもない。本来社会教育。でも戦後の貧困の中で、「当分の間学校教育で行う」としたまま約60年。本当は専門の指導員を雇って行うべきもので、希望者が入れば良いもの。それを学校が代行し、あまつさえ「非行防止教育」としてしまったことが問題。だから「良心的」にやれば放課後の部活の活動の指導が終わってから教師は、教師本来の仕事をすることになる。まじめな良心的な教師はだから、午後6時から仕事をはじめ、終わるのは夜の10時11時になる。そのうえ、土曜日の日曜日も運動部なら部活が入る。なにしろ勝つためのものだから。練習。練習試合。そして公式戦。この超過勤務・休日勤務は基本的に無給。業務であれば通常業務以上の賃金が支払われるべき。でもほとんどない。全部ただ働き。だから放課後活動させておいて教師は職員室ということに。そして意識としては「やってやっている」という放漫な意識になる。
それゆえ部活は「聖域」。校長も教委も基本的には手が出せない。部活指導者の「王様」になる危険があります。そして、これに自分の名誉欲が加わると、とんでもない事件を引き起こすわけです。
部活を学校から切り離し、専門の職員を雇い、できれば学校以外に専門の施設を作って行うほうがずっと効果的。これなら中高各1校につき少なくとも20〜30人の人が新たに雇用され、新しい施設も作られることになり、雇用対策にもなるし、新しい社会的インフラも整備されることになるのにね。でも政府はその気はないし、これを取り上げる政党もない。もっと政治に要求していかないと、悲惨な事件はまだまだ続くと思います。
森本桂太君の追悼展に行けませんでした。
コアラさんの言葉で、いろいろ思うところあります。
わたしの学校は部活学校です。
朝礼にはたくさんの生徒の部活動での表彰があります。
20分もかかるときもあります。
越境生徒も多く、ほとんどが部活目当てです。
昨年度からA部の顧問がいなくなりましたが、
「誰かが顧問をやってくれる」という前顧問の言葉を信じて多くの生徒がきました。
去年は複数の教員が顧問でしたが、責任の所在がはっきりしません。今年はまだ教員採用試験に合格していない23歳の大卒出たての人二人を産休代替に採用して、顧問にさせました。
このことに怒っているのは多くは女性です。
一番怒っているのは養護教諭です。
放課後の怪我が多く、書類に追われています。
今月は45枚、と言っていました。
なぜ、放課後の部活で骨折などの怪我が多いのか、それは部活の現場に顧問がいないからです。
B部などは朝練だけでなく、夜練まであるのですが、
時間は長いだけで、顧問が来るのは最後だけとか。
そこで、気がゆるんだまま練習をしているからです。
前任校では、私が赴任する2ヶ月前に、部活中の生徒が校庭で死亡するという事故があったようです。
冬は5時過ぎの校庭は暗く、生徒が倒れているのに気づくのが遅れたようです。当然顧問もいなかった。しかし、なんの問題にもなりませんでした。一人息子を失ったお母さんは、気がおかしくなり、学校を訴えるということもできなかったようです。
うちに学校の親たちも、子どもが部活に追いまくられて学業がおろそかになったり、試合で授業を受けられなかったり、部活でいじめにあったりしても、顧問に負い目があって、誰も表だって文句が言えないようです。
体罰だって、セクハラだって、起こっているのはほとんど部活で顧問からです。やめたいと言えば、成績で脅されたり、部活の仲間からハブにされたり、部活は問題山積みです。
区教委は部活を教師の仕事としていません。何かあったら、責任がとれないからです。でも、現実には顧問になることを強制されるし、勤務評定のなかには、部活動でめざましい貢献をしたことも含まれます。
矛盾だらけです。
教師の資質、人間としても問題もありますが、こうした制度のあり方もおかしいのです。
養護教諭が「練習中は職員室で仕事をせず、部活動をみること」ときつく注意をしたところ、「そんなんじゃ、顧問やれない」と教員は開き直ったそうです。
森本君の場合事情がわかりませんが、これを機会に、その学校では部活のあり方を考えなおしているのでしょうか?
森本桂太君の追悼展に行って来ました。彼の幼い頃の絵が壁面一面に貼ってありました。「この画集は、森本桂太が今生きていれば絶対に出版などできていなかったはずだ。作品群は物置の片隅に片付けられ、埃にまみれ忘れ去られていたに違いない。桂太が13才という短い命を閉じ永遠の眠りについたことによって画集が日の目を見ることになったのは何とも皮肉なことである。」という追悼画集の巻頭のご両親の言葉が、重く胸に響きます。教師という仕事は一人のかけがえのない命を預かっているのだということを、あらためて確認させるものです。
彼の絵の反対側の壁面いっぱいには、彼のお父さんの手になる仏様の姿が一面に飾られ、見るものをして、ご両親の悲しみと亡き子への慈しみの思いとに胸打たれます。桂太くんのご冥福を祈るのみです。
ののはなさん、つゆくささん。はじめましてすずめです。先日個展に行ってきました。歴史が好きだった子らしく「合戦」の絵や三国志などから題材をとった絵などたくさんありました。生きていれば高校2年生。うちの娘(桂多君と同級生)は、なまいき盛りの青春真っ最中です。個展には、同級生や母親たちが来ていました。わが子の成長を見ることのできない御両親にとってつらく悲しい思いがたくさんあると思います。会場で画集(絵と事件の経過が書かれた物)をもらいました。読んでみて改めて命をないがしろにした教師への怒りがこみ上げてきました。
生きていた証を記録したい記憶しておきたいと開いた個展です。お近くの方、お立ち寄りください。
すずめさん、はじめまして・・。
私もすずめさんのお気持ちを思うと、胸が苦しくなって息が詰まりそうになります。
この教師の言葉は、生徒に対する愛情のひとかけらも感じられません。もし、ほんの少しでも思いやりがあったなら、なかなか帰ってこない桂多くんに「ん?何かおかしいぞ」というカンのようなものが働くはずだと思います。
今、追悼展が開かれているのですね
すばらしい賞を受賞されていて、すごいですね。素敵な絵を描いておられたのですね。あいにく私は遠方なので見に行くことができません。でも見に行けない人もコアラさんの掲示板を通して一緒に悲しみ、「桂多くん、助けてあげられなくてごめんね」と祈る思いは、必ず天国の桂多くんに届いているはずだと思います。
はじめまして、すずめさん!
3年前ですか。お子さんを亡くされるなんてつらいですね。
しかも、ちょっとした配慮があったならば、お子さんの命は失わずにすんだはず。くやしいですね。
恨んでも恨みきれませんね。
わたしなんかは気がどうかなってしまうかも知れません。
「せめて 」という気持ち、よくわかります。
遺されたものはとても貴重なものです。
たぶん、ご家族の方にとってだけではなく、彼に関わった方たちすべてにとって。こうした企画をされたのはとても意義あることでしょうね。わたしも時間があったらいってみたい気がします。
2000年8月21日に起きた部活動中、熱中症で倒れ亡くなった「森本桂多追悼展」が9月23日(午前11時〜午後7時)〜28日
(午後5時)まで「銀座ロイヤルサロンギンザ」(銀座7丁目 ライオン前)で開かれます。
案内状の写しを載せます。お近くの方でお時間のある方は、来てください。
おせえなぁあいつら
どこかでねてんじゃねぇか!!
教師の冷たい言葉を遠くに、桂多は、真夏の多摩川の河川敷に放置されたまま猛
暑、炎天下のもとで、二度ともどらぬ深い眠りに向って歩んでいた。彼は劇症熱中症
で8時間後に13歳という短い命を閉じた。生きていたら今何をしているのだろう。好
きだった歴史の本でも読んでいるのだろうか・・・・
今では想像もつかないし、何もしてあげられないのですが、せめて幼いころから連
れて歩いた銀座の画廊で0歳の頃から無心に描いていた作品を並べ、供養してあげた
いと思います。
無心に描いた作品群ですがご高覧いただければ幸いです。
森本 桂多追悼展
〜13年夢の軌跡〜
1995〜1998年 国画水墨院J・R部出展
1995 44回 神奈川県少年少女絵画展 優秀賞
1996 45回 〃
1997 9回 カナガワビエンナーレ 国際児童画展 金賞
同時出品 森本 幹生 森本 初江
つゆくささん。お久しぶりです。
大変でしたね。お父様のこと。
でもご近所の人たちの暖かい眼差しが、とっても心を暖かくしてくれます。
>結婚して実家を離れた今でも、子供の頃お世話いなったご近所に守られていることを実感しています。我が家の子供たちも、人がこんなふうに支えあっているのを身近に感じながら育って欲しいものです。
同感です。でもこの人の輪の暖かさをもっと増やして広げて行きたいですね。
コアラさん、皆さん、お元気ですか?朝夕は寒いくらいですが、昼間は厳しい残暑が続きますね。庭にはまだツユクサの花も咲いています。でも風は少しずつ秋の匂いがしてきてホッとしています。
夏休み前に実家の父親が体調を崩し入院しました。春ごろから痴呆症の症状が出ていましたが、この入院がかえってストレスになったのか、症状が進行してしまい、母と交代で付きっ切りの看病をしなければならなくなりました。昼と夜が逆転し夜中じゅう院内を歩き回ったり、点滴の針も自分で引っこ抜いてしまったり・・。
厳格だった父親の変わり果てた姿は、あまりにもショックでしたが、退院した今は、ご近所の方も快く事情を了解してくださり、歩き回る父に今まで通り気さくに声を掛けて下さっています。母や私に「何かあったらすぐに連絡してあげるから安心して」と。つくづくありがたいな〜って思います。
私が子供の頃は、怒ってばかりで怖〜いおばちゃんたちだったのに、私が成長するに連れてどんどんやさしくなっていくみたいです。結婚して実家を離れた今でも、子供の頃お世話いなったご近所に守られていることを実感しています。我が家の子供たちも、人がこんなふうに支えあっているのを身近に感じながら育って欲しいものです。
○高○中名誉(?)社会教師のザビ先生(コアラ先生)万歳!
はじめまして^^アンコと言います。小学6年生です。皆さんは登校拒否の人ですか?自分は今年の4月に卒業しました。それまでは辛かったです。皆さんはいじめとかにあった人ですか?自分は去年、いじめられてから、不登校の初めりです。
> 名前もなにも、名乗るつもりはありません。
> でも1つだけ言わせてください。
>
> 私は神戸高塚高校の生徒です。
> 私の担任の先生は、生徒を思いやってくれる
> れっきとした教師です。
>アンコ
自分は東小学校の6年2組の生徒です。自分の担任の先生も優しい先生です。去年も同じ先生で、今年も同じなのでホッとしました。
名前もなにも、名乗るつもりはありません。
でも1つだけ言わせてください。
私は神戸高塚高校の生徒です。
私の担任の先生は、生徒を思いやってくれる
れっきとした教師です。
つゆくささん、今日は。
>周りの風景と溶け込んで存在感の薄い花たちも、ひとつひとつ、こうしてじっくりよ〜く見てあげると改めてその美しさや味わい深い特徴に気づくものなんですね。
そうなのです。特に雑草と呼ばれてしまった花などはそうです。正確には野草。なのに「人間に役に立たない」との色眼鏡で雑草と呼んでしまった。どれのかけがいのない命で、花をつけて実を結び、それぞれが懸命に生きているのです。
>コアラさんは、きっと生徒さんの事もこんな風に一人一人、大切に見ておられたんだろうなと思います。
どこまで出来たかは疑問ですが、花たちから教えられた視点であることは確かですね。
いやな事件が続き、社会が悪いだの親が悪いだの教師が悪いだの言われていますが、大切なことは、周囲のものが、それぞれが出きる範囲で、一人一人をあるがままの姿で認め、大事に慈しむということでしょう。
コアラさん、こんばんわ。
いつまでたっても夏らしくなりませんね。朝なんか肌寒いくらい。10年ほど前の冷夏を思い出しますね。
台風がいっぱい来て、お米は凶作、野菜もとんでもない高値になり、大変でした。エルニーニョ現象でしたっけ?
台風が来ないと良いけど・・嫌な予感がします。
昼間、娘と一緒に写真集を見せていただきました。娘は、真っ白な「きょうちくとう」がとても気に入って、画像を見ながら絵を描いていました。朝顔は、何の花か分からなかったみたいで「これってクイズなのかな〜?」と喜んでいました。何度見ても、どの花も、実物よりきれいに見えます。
周りの風景と溶け込んで存在感の薄い花たちも、ひとつひとつ、こうしてじっくりよ〜く見てあげると改めてその美しさや味わい深い特徴に気づくものなんですね。
コアラさんは、きっと生徒さんの事もこんな風に一人
一人、大切に見ておられたんだろうなと思います。
小説 『透明な君へ!』も読ませていただきました。
私の子供もあと数年もすれば思春期を迎えます。いつか必ず何らかの壁にぶつかることでしょう。その時に、私は母親として何をしてあげられるのかな。見て見ぬ振りをしたり、逃げることなく真正面からぶつかりたい。 そして一緒に悩み、苦しんで、乗り越えていけたらいいなと思います。
子供たちの思いを大切にしたい。写真集の花のように。
8月の写真展のご成功をお祈りしております。
初めまして。主人と小学生の子ども二人と、つゆくさの花が大好きな、主婦です。
小説『翔べ!カッパ!』を最後まで読ませていただきました。コアラさんの言いたかった学校や家庭の病巣のありさまと、それを直す可能性が、とてもリアルに描かれていて、胸に迫るものがありました。主人公、翔君と麻美さんを巡る出来事は、私にも、私の身の回りの人たちにも当てはまることが多くて、思わず涙があふれてしまいました。
今現在苦しんでいる人にも、もう過去の思い出として心の整理が出来ている人にとっても、もう一度、自分自身の現状を冷静になって見つめ直すことが出来、大きな心の支えとなるでしょう。
この小説を書いてくださったコアラさんと、その熱い思いの原動力となった麻美さんへ、心から感謝いたします。ありがとうございました。
歴史は今を写す鏡です。今がおかしい、どうおかしいか、そしてどういう方向に変えて行ったら良いかという観点をもって、その今が出来てきた歴史を学ぶと、自分のもっている現状認識や未来の方向性が正しいものなのか間違っているのかを映し出してくれます。その考えが恣意的なものであれば、歴史はその歪んだ真実の姿を映し出してくれますし、その考えが歴史的変化の趨勢に見合ったものであれば、確信と希望をくれます。
だからこそためにする議論をする人は、歴史を偽造しようとするのでしょうね。自分の考えが間違った歪んだものであることを知っているから、その姿を写す鏡を壊そうとするのでしょう。
・・・・うーん。・・・まるで魔法の鏡です。
アジアの歴史を少し学ぶ機会がありましたが、
わたしの今までの知識はなんて単純化されたものだったのか、いや、ゆがめられたものだったのか、という思い。
まだまだ勉強したいものがいっぱいありますね。
そのためにも、まだまだ生きていなきゃって思います。
なにかを語れる人になりたいですね。
しかも生徒にも共感してもらえるような語りを。
コアラさんのこのHPはそういう意味では、
これからますます重要。
また、わたしの余暇を豊かにしてくれるものになりそう。
ののはなさん。やはり現場は大変ですね。愛国心だとかすごく時代遅れのことを押し付けてくる行政が疎ましい。
でもこれ。ほんとに時代遅れですよ。今必要なのは愛国心ではなくて、国を超えた、本当の意味でのインターナショナリズム。人間として国境を超えたところで、一人の人間どうしとしてどう協同できるかということ。地球上の課題はすべて一国単位では解決しませんから。今一番大切なのは、国や民族や宗教や文化や性などの違いを越えた人間としての連帯心をどう育てるかということです。
愛国心など何の役にも立ちませんから、やればやるほど現実と遊離して、子供たちはそれを乗り越えてしまうのではないかな?。子どもたちの中には、国などを越えた連帯感がすでに育っていると思うのです。
いつもながら、コアラさんちの庭の豊かさには驚かされます。そんな庭でそっと植物たちとお話できるのはやっぱりコアラかな、って。人間も自然の一部っていわれるけれど、人間はなんて壊れきった自然でしょうか。
わたしは今、学校でなんにもいわなくても痛いほど生徒の心境が見える哀しい心です。一目さんに学校を抜けて土手で風に吹かれていたい。学校に火炎瓶でも投げつけたいほどの心のすさみようです。
今日、総合学習のすばらしい冊子がコアラさんから届き、なんとかこのコアラさんの心を生かしたいと思っています。
学校を抜けてもほっとできない戦前の日本にはしたくありませんから。どうもありがとうございます!!
kuriさん。こんばんわ。
>中学当時、学校が荒れていて学問をするような環境とは言えなかったけれど(言い訳?)、もっとあの時コアラ先生と社会の話をできればよかったなあ、と今になって思います。
これは20年ほどまえのことかな?。あの学年は大変だったからね。クラスの班ノートでいろいろ議論したことを覚えています。でもあの当時、僕がどこまで社会科の授業で答えられたか?。この20年なんですよ。僕が必死で勉強したのは。81年かな。歴史教科書の記述が外交問題になったとき。自分がいかに歴史を知らないかがよくわかった。あの当時と今とでは、授業で教えている内容がすごく違うもの。
>今後もHPを時々見せていただこうと思います。
ぜひこれからも見てください。どんどん充実させようと思っていますので。
ののはなさん。こんばんわ。
>コアラさんの突然のお知らせに動揺しています。
すみません。いきなり退職のお知らせなど郵送しまして。退職は1年半前に決めていたのだけど、みなさんにどうお知らせしたらよいか迷いまして、結局大部分の人には突然のお知らせになってしまいました。家族に話したのだって3ヶ月前だもの。
>心の豊かさが今無性にほしいです。
そんな中、コアラさんがとても手の届かない所にいらっしゃったようでうらやましいな。
現場は大変ですね。何しろ文部科学省にも教育委員会にも包括的統一的な教育の未来像がないまま、さまざまに錯綜した意見をごっちゃ混ぜにして出してくるのだから。何が良くて何が悪いのか。どこまでが妥協の産物なのか。どこまでが本気でやろうとしているのか。今の文部科学省や教育委員会のやりかたを表面的に見ているだけではよくわかりませんので、いらいらしますね。行政の動きは政治的に現在の状況をつかんだ中で考えないと疲れます。
ここをきちんとやるには、現場の教員にはあまりに時間がないです。だから現場での子どもたちとの共同作業を中断して、これを解明するために勉強をしたい。
これが今回退職の道を選んだ時の、教員としての僕の判断です。
じっくり勉強して、どんどん意見を出していきたいと思っています。
こんにちは。退職のお知らせ拝見しました、K中での教え子kuriです。驚き半分、納得半分です。コアラ先生は、非常にたくさんの研究をされ論文もおかきになり、このHPの充実ぶりには本当に圧倒されます。教職のかたわらこれだけのお仕事をされるのは並大抵の努力ではないと思いました。今後はさらに研究の道を深められていくことと存じます。
中学当時、学校が荒れていて学問をするような環境とは言えなかったけれど(言い訳?)、もっとあの時コアラ先生と社会の話をできればよかったなあ、と今になって思います。
娘は小学生。今は小学校教育の現状をあれこれ心配しながら見守っている日々です。中学進学のご報告するころもご在職と思っていましたけれど、コアラ先生らしい選択に拍手!
今後もHPを時々見せていただこうと思います。
退職のお知らせに、しばし唖然!
いろんなご事情がおありなんでしょうが、
厳しい学校現場で1日1日凌いでいる私にはちょっと。
そうですか。
今夜は、アンドリュー・ワイエス展の批評を読みました。
彼の乾いた絵が無性に恋しくなって。
わたしは今、眼精疲労であまり本やもちろんパソコンが読めません。
ですが、コアラさんの突然のお知らせに動揺しています。
これからいいお仕事をなさるのですね。
わたしは週に2時間の軽減で司書教諭発令となりました。
数学の授業は18時間。開きがほとんどなくなります。
これではこれまでよりもいい仕事はむずかしくなりますね。
心の豊かさが今無性にほしいです。
そんな中、コアラさんがとても手の届かない所にいらっしゃったようでうらやましいな。
このHPも充実するのでしょうね。
一昨日8日に掲示板に書き込みがあったと通知があったのに、なぜ表示されないのだろう。おかしいな。
> うちの学校は、生意気な先生ばかりいます!やさしい先生は、転勤したし!
こんばんわ。いちごさんは札幌の人かな?。僕の職場にも以前札幌の中学校で教師をしていた人がいました。
うちの学校は、生意気な先生ばかりいます!やさしい先生は、転勤したし!
ののはなさん。こんばんわ。
>景気は、不景気→好景気→不景気と自然に循環することとその原因
ってありますが、わたしは経済にもたいへん弱いのです。
どうしてなんでしょうか?
それは需要量と供給量の関係が変化するからです。需要量、すなわちある商品の売れる量はとても予測が難しい。新しい商品が出てそれがヒットすると、他の企業が類似の商品を出すので競争が激化します。それでも消費者が興味をもってどんどん買っているうちは良いのですが、これにも限界が来ます。供給=作った量が需要量を上回って商品がうれなくなるのです。普通企業は売れ行きが鈍り始めるころを狙って次の新機能を持った新商品を投入して売上を伸ばそうとします。そしてこれがヒットすれば、又前と同じ事が続きます。・・・・これをある一定の期間やっていくと、その種の商品の売れ行き全体が限界に来て、売れ残りが激しくなります。ちょうど最近がパソコンの売れ行きに限界が来た時期ですね。
1つの新しい技術の商品の売れる期間は3〜5年程度みたいです。そして多くの商品のこの売れなくなる時期が重なると不景気になります。そして弱い企業はつぶれ、しばらく不景気が続くうちに供給量が底にきて、そして前の好景気の時に売れた商品の更新期がきます。この状況になると商品の徐々に売れ行きが回復し、この期をねらって新商品をどんどん投入しますので、景気は回復し、どんどん供給量が増えてきます。そして何年かたって・・・・また同じ事が起こるのです。
この3〜5年の周期でおきる景気の変動は、生産設備の更新のサイクルによるようで、資本主義経済にとっては普通の出来事です。
今もんだいになっている不景気は、この短周期の不景気ではなく、1971年から始まる30年にもおよぶ景気の下降周波で、これは自然には戻らないのではないかと思われます。
コアラさん
生徒に教えられたをこうして書き出してみるっておもしろいことですね。
>貨幣の価値はそれと交換できる商品の量できまる
たしかにそうですね。
昔、生徒に図書券とお金どっちがいい?って聞いたら
「図書券は図書券でしかないでしょ」
「お金はなんでも買える」って答え。
そう!交換できてはじめて紙幣って価値になるんですね。
>景気は、不景気→好景気→不景気と自然に循環することとその原因
ってありますが、わたしは経済にもたいへん弱いのです。
どうしてなんでしょうか?
>封建制度を壊して民主主義に変えたり、外国を植民地にしたり、商品を大量生産して価格を変えることで市場を広げたりと、発想を転換しないとできないことは過去の例で明らか
なるほど、それで歴史を学ぶ必要があるんですか。
ののはなさん。こんばんわ。
今日やっと、学年末テストをすべて返しおわりました。今回のテストはやってみていろいろな発見がありました。戦争で負けた国の紙幣の価値はどうなる?という問題を出したら、「お金の使いすぎでお金がなくなり、お金の価値が高くなる」という答えをもらってしまいました。正解は価値が下がるです。でも良く考えたらこの間違った答えを出した生徒は、ちゃんと問題を深く考えているし、普通の商品はその数が少なくなると価値は上がると言う経済の命題をきちんと理解しているのです。間違ったのは、貨幣の価値はそれと交換できる商品の量できまるということを、僕がきちっと教えておかなかったからです。授業では紙幣は何の価値もないただの紙切れだけど、発行している国がその価値を補償しているから価値があるんだ。第1次世界大戦で負けたドイツなんか国がつぶれそうになって貨幣の価値がすごく低くなり、数万倍の貨幣を持って行かないと物が買えなくなったんだと、簡単に説明して終わってしまった。だから単純に覚えた人は正解。どうしてかなと考えた人は不正解になってしまった。
僕の授業の抜け落ちたところをはからずもテストをすることで発見してしまった。
同じ事はレポートでもありました。経済の単元で景気の変動のことをやって、景気は、不景気→好景気→不景気と自然に循環することとその原因を詳しく教えました。その上で現在世界は約30年続く不景気だけど、これをどう解決したら良いかという問題を討論したあとレポートを書いてもらった。そしたら「不景気は自然に好景気に戻るのだから何もしなくてよい」という答えが出てきてしまった。景気が自然に循環するのは5〜6年の周期での循環のことで、数十年にわたる景気の変動は自然には戻らないのですよ。長期波動と呼びますが、この下降の波動から上昇の波動に変わる原因は、封建制度を壊して民主主義に変えたり、外国を植民地にしたり、商品を大量生産して価格を変えることで市場を広げたりと、発想を転換しないとできないことは過去の例で明らかです。この短期の周波と長期の周波を区別して教えるのを忘れていたのですね。
生徒に教えられることって多いですが、まとめのレポートやテストで教えられることも多いものです。
高橋さんへ、そんな言い方ってないですよ。
あなたの知性が疑われますよ。
掲示板はヤジを飛ばすところではありませんよ。
「テストは何のため?」という問いかけは、ある意味哲学的な問いかけでもあります。
学校という場におけるテストは評価の一環として行われております。それは教えられたもの、教えるもの双方のあり方を問うものです。
それだからこそ、この問いかけは意味をもつのです。
ただいい点ほしさにカンニングをする、そうした行動がどこから生じるのかを自ら問いかける、そのことが大切なのではないかなと思っています。
コアラさんは現にそうやってご自分にとってのテストって何かを問いかけ始められていますね。
わたしは今必要なのはみんなが当たり前と思っていることを
みんな子どものような心になって問いかけて、ものの本質を極めていく作業ではないかなって思っています。
どうなんでしょうか?
馬鹿な教師どもだな
>そんなことに答えられなくてよく教科書批判できるね
aさん。簡単に言いますね。じゃ、あなたは答えられる?。テストは何のためという中学生の問いに。
> mさん、ののはなさんの書きこみを読んでいたら、昔、一人の生徒に言われたことを思い出しました。その生徒はテストの答案を全教科白紙で出したのです。そしてその理由を尋ねた僕に、大略以下のように答えました。
>
> 「テストって何のためにあるの?。先生たちはいつも皆で助け合えって言います。だからいつも学習の場面ではお互い教えあい助け合ってきました。それでも皆が同じように答えられるようにはなりません。だって一人一人が理解力が違うのですから。どんなにやっても、どんなに教えあっても同じにはなりません。クラスの中には、学習内容が理解できなくて困っている人が何人もいます。でも先生たちはその人たちをそのままにして授業を進め、テストをします。これって差別じゃないですか?。理解できない人にこそもっと手厚い援助をするのが学校というところじゃないですか。自分だけがどんどん答えを書いて良い点数をとることは、友達を見捨てたことになると思い、学校の今の状態に抗議する意味で、白紙答案にしました。」と。
>
> もう18年も前のことです。僕はほとんどこれに答えられなかったと思います。うん。今でも、答えられそうにない。根源的な問いです。
そんなことに答えられなくてよく教科書批判できるね。
誠に申し訳ありません。
恐れ入りますが迷惑と思われる方削除して下さい。どうかご協力お願い致します。
聡子さん(17歳)は、母親の都合で千葉県の高校を中退し、現在は兵庫県内の病院で
看護助手をされておられます。
◎お母様上月恵子(旧姓石川恵子)さん元ケアーハウス若松社員と妹上月礼子さんを
お捜しです◎
2002年9月18日(水)に兵庫県から行方が分からなくなった母:上月恵子)(4
0歳)妹:上月礼子(10歳)小学4年生を捜しておられます。
お母様は普段から精神内科にかかっておられ心配されています。もしお近くで見かけ
られた方、同級生で知っておられる方がおられましたら協力してあげてください。
詳しい内容や写真は、HPに掲載されています。
一度ご覧になり、協力してあげてください。
HPお持ちの方リンクお願いいたします。
mさん、ののはなさんの書きこみを読んでいたら、昔、一人の生徒に言われたことを思い出しました。その生徒はテストの答案を全教科白紙で出したのです。そしてその理由を尋ねた僕に、大略以下のように答えました。
「テストって何のためにあるの?。先生たちはいつも皆で助け合えって言います。だからいつも学習の場面ではお互い教えあい助け合ってきました。それでも皆が同じように答えられるようにはなりません。だって一人一人が理解力が違うのですから。どんなにやっても、どんなに教えあっても同じにはなりません。クラスの中には、学習内容が理解できなくて困っている人が何人もいます。でも先生たちはその人たちをそのままにして授業を進め、テストをします。これって差別じゃないですか?。理解できない人にこそもっと手厚い援助をするのが学校というところじゃないですか。自分だけがどんどん答えを書いて良い点数をとることは、友達を見捨てたことになると思い、学校の今の状態に抗議する意味で、白紙答案にしました。」と。
もう18年も前のことです。僕はほとんどこれに答えられなかったと思います。うん。今でも、答えられそうにない。根源的な問いです。
mさん、コアラさん!
ののはなの言い方あまりよくなかったようで、
話がおかしな方向になりそうで、ちょっと補足させてください。
「ハリーポッターを手にしていて」云々のことですが、
別に本を読んでいたという事実があって、という事ではないのです。
ここにはちょっとわたしの屈折した思いがありました。
教師がテスト監督中に「本を手にする」これがいかんといういうのでしょう。
これって、生徒が教室にマンガを持ち込んではいかんというのと同じでしょ!
実際に読んでいなくても、机の中にあっただけで先生に取り上げられる。
教師もしかり、実際に読んでいなくても本を手にしていたということで叱られる。
これっておかしいと思いませんか?
「おかしくない」という人には理由が聞きたいです。
カンニングについて。
学校の教室の狭さをご存じですよね。
あの狭い空間で生徒が机をくっつけあうようにしてテストを受けているのです。
見ようと思えば、視力のいい生徒ならいくらでも隣や前の生徒の答案がのぞけます。
ですから、今の学校では生徒を信頼してテストが行われているのです。
もし、信頼できないとなれば、今のあり方を変えなければなりません。
ですから、カンニングが行われれば、カンニングをした生徒に
その卑怯さを認識してもらうしかないのです。
カンニングを防止するのが教師のつとめではありません。
ましてや、生徒がどんな答えを書いているのかのぞき込む事もつとめではありません。
わたしが生徒だったら教師に答案のぞき込まれたら、それだけで落ちついてテストに臨めません。
教師にはそれくらいのデリカシをもってもらいたいと考えます。
テストは一体何のためにあるのでしょうか?
カンニング事件が起きるたびにわたしは生徒にも教師にもそのように問いかけたいと思います。
なぜカンニングをしたいのでしょうか。
それほどまでにいい点が欲しいのはなぜでしょうか。
かつて生徒だったわたしはエンピツのキャップに巻いた紙を入れてテストに臨みました。
一体いつ取り出そうかと悩みました。
しかし、気がついたら、紙なんか見なくても紙に書いてあることはわかりました。
気が小さかったわたしはテストっていうだけで、どきどきして
テストの文章も読めないほどにいつもあがっていたのです。
で、あのキャップはお守りの役目を果たしていたのですね。
カンニングっていろんなカンニングがあります。
今回のカンニングは、教師があいつは絶対カンニングしているとにらんで
テスト用紙をチェックしたのかもしれません。
取り調べを受けて生徒が自白したそうです。
カンニングには生徒の悲しい心があります。
「あの子でもいい成績ほしかったのかしら?だったら勉強すればいいのにね」
とやさしい女の教師は漏らしていましたが、これも元優等生の言葉ですね。
勉強しても分からない生徒だっているのです。
テストの結果がひどい生徒でも、実は前の晩、一生懸命に勉強したかもしれないのです。
わたしは社会のテストで2個しか分からなくて8点しかとれなかった記憶があります。
で、その正解だった2つの事だけは何十年経っても忘れません。
皇居の前に警官が立っています。
心の中には天皇がいるのでしょうか?
心の中は自由だと思います。
レスありがとうございます。
ちょっと誤解があるようなので。
> 「監督者が仕事をしないと学生がカンニングをするぞ」ということですね。
いいえ。そうとは言っていませんよ。監督することが仕事なのであってカンニングを防止することが仕事なのではないと思ってましたので。学生を見守ることが大事なのではないのでしょうか?テスト中に限らず。
> カンニングしたければすればよい。したところでそれでその時は良い結果が出るだろうが、それがいつまでも続くわけではない。うそはいつまでも続かないとおもうからです。
あまりに、乱暴な物言いだと思います。
教師の立場で、思っていても言ってはいけないことではないでしょうか?
確かに嘘はいつまでも続かないとは思われますが、
カンニングしなかった学生の正当性はどう評価されるのでしょうか?
> 自分が作ったテストの時は試験監督はしません。巡回して質問に答えるのが仕事です。巡回しながらどんな解答をしているか見ていますよ。
なるほど。そうでしたか。失礼いたしました。
mさんへ。
> 学生達がテストを受けている時に先生が読書をしていることについて、ちょっと疑問です。
> 先生は監督者として仕事をしているのであるから、給料をもらっている以上、その仕事を遂行しなくてはいけないと思います。
> それと学生を信じるというのとは、また別の問題であるように思います。
つまり「監督者」として仕事をしろ。「監督者が仕事をしないと学生がカンニングをするぞ」ということですね。
たしかに試験監督の主な仕事はカンニングの防止です。でもそんなに神経質になって学生を監視しなくてもいいと思います。カンニングって良い点とりたいという気持ちからするのでしょ。その気持ちがあれば努力するしかない。努力しないでその場だけうそで取り繕っても仕方がないと思うのです。カンニングしたければすればよい。したところでそれでその時は良い結果が出るだろうが、それがいつまでも続くわけではない。うそはいつまでも続かないとおもうからです。
> それに、自分の作った問題にどんな答えを書いているのか、
> 学生がどんな表情で質問に答えているか気にならないのでしょうか?
自分が作ったテストの時は試験監督はしません。巡回して質問に答えるのが仕事です。巡回しながらどんな解答をしているか見ていますよ。
学生達がテストを受けている時に先生が読書をしていることについて、ちょっと疑問です。
先生は監督者として仕事をしているのであるから、給料をもらっている以上、その仕事を遂行しなくてはいけないと思います。
それと学生を信じるというのとは、また別の問題であるように思います。
それに、自分の作った問題にどんな答えを書いているのか、
学生がどんな表情で質問に答えているか気にならないのでしょうか?
ののはなさん。こんばんわ。今年もよろしく。
>でも、昨年はテスト監督中ハリーを手にしていたことで
ののはなは校長室に呼び出されました。
今年は魔法を使ってハリーを心の中に呼び出して、うん、コアラさんの批評を確認しましょう。
おやおや。テスト監督中に本も読めないのですか。生徒をもっと信じてほしいですね。僕はいつも本を読んでいますが。
そうそう、僕の最初の小説「翔べ、カッパ」はテスト監督をしているときに心に浮かんだもの。本を読むのがだめなら、心の中で物語を作ってしまいましょう。目の前にいる子どもたちを主人公にして。楽しい夢のようなお話を。
コアラさん!
今年もまたお邪魔させてもらいます。
今日はハリーポッターの批評をおもしろく読ませていただきました。
>ハリーの血と下僕の肉と父の骨とで肉体を作り出し復活したヴォルデモートが、
ハリーを滅びの呪文から守った母の魔法の力をハリーの血を通じて自らの体内に入れ、
それゆえ強くなったとの話をハリーから聞いたとき、
何ゆえダンブルドアは、勝ち誇ったような表情を見せたのか。
そしてハリーの母がハリーに施したという最も古い魔法とは何であったのか。
確かに気になりますね。
>筆者の想像だが、その魔法とは、母の無償の愛ではなかったのか。
眠りにつく我が子に「やすらか眠りを」と祈る母の愛ではなかったのか。
死の危機にさらされた母が無意識にハリーの額にしたおやすみのキッス。
これがヴォルデモートの滅びの呪文を跳ね返して彼を亡ぼすとともに、
今また彼に復活の力を与えたのではないのか。
不幸な生い立ちゆえに自身も母の愛を知らないトム・リドル(ヴォルデモートの本名)。
彼の体内にハリーの母の愛が入ったことによって、彼の魔力はいつの日にか無化されてしまう。
なるほどね、コアラさんのおっしゃる通りかもしれません。
「健全な自己愛」は幼少時に母の無償の愛に育まれることで育つのですから。
また、ハリーを新しい視点で読みなおしてみましょう。
何回も楽しめますね。
でも、昨年はテスト監督中ハリーを手にしていたことで
ののはなは校長室に呼び出されました。
今年は魔法を使ってハリーを心の中に呼び出して、うん、コアラさんの批評を確認しましょう。
こんにちは、n-park.orgと申します。
いじめや体罰など教育の問題について考えるサイトを運営しております。
教育に関するニュースから、アンケート、研究など役にたつ情報から議論、掲示板などのフォーラムまで設置しております。もし興味などございましたら、是非遊びに来てくださいね。
http://www.n-park.org/
ののはなさんへ
アドレス変更の御知らせ。ありがとうございます。さっそくリンクを直しておきました。
忙しくてなかなか更新できないのですが、またおいでください。
久しぶりにネットサ〜フィンしています。
というのは、うちのHPのアドレスが今月いっぱいで使えなくなるのに何もしていなくて
夕べあわてて新しいアドレスに変えてしまったからです。
5年前、どうやって検索サイトに登録したんだっけ?という具合に。
ふ〜うん、このネット社会も様変わりしたなって。
井の中のわたしは驚きでした。
来年もまた、コアラさんの豊富な知識がぎっしり詰まったここで勉強させてもらいますね。
では、また、介護の人に戻ります。
そうそう。忘れていました。毎年、エンドウ豆を育てています。エジプトのツタンカーメン王の墓から発見されたとの言い伝えのあるエンドウ豆。花は赤花で、豆も赤。ご飯と一緒に炊くと、赤飯ができます。
ゆいさん。花の写真を見ていただきありがとう。
野菜は、以前は、父が少し作っていました。夏が近づくとナスとキウリをつくり、秋にはシソやニラが取れるようにしていました。あとアスパラガスも育てていました。でも最近は、父も年をとったので、やっていません。
それでもいろいろ食べられるものがあります。柿の木が2本あるので、今年は100個以上取れました。また孟宗竹があるので、春には小さな竹の子。またグミの木があるのでグミの実。それからブルベリーの実もなります。そして桑の木もあるので、桑の実も食べられますよ。秋にはドングリの実が一杯。まあこれは食べないけど。それからこれも勝手に出てくるのだけど、ミョウガがあります。さらにニラは今でもたくさん生えていますし、アスパラも少し出てきます。シソはほっといても育ちますし、あとは台所の生ごみで作った堆肥を入れた所から、カボチャやジャガイモの芽が出て、食べられるほど大きくもなります。
これらの果物や野菜の花もとても綺麗なので、僕はもっぱら写真を撮っています。そのうちに果樹や野菜の花特集をやろうかな?。
こんにちは。
趣味の花の写真見ました。うちは庭がないので、とてもうらやましいです。どの花もきれいで、心が和みました。野菜とかは作らないんですか?
ゆいさん。こんばんわ。
今朝はすごい雪でしたね。普段は自転車で10分も走れば学校なのですが、地面がすべるので怖いから、今朝は歩いていきました。足元がおぼつかないので、25分くらいで行けるところが、40分弱かかってしまいました。
論述問題は、その事柄を深く理解していないと答えられませんから、理解している人には簡単でも、そうでもない人には大変です。
2学期の中間テストでは、「授業中に騒いで授業を受けない人の行動はどこが問題か。公共の福祉という語と、権利を守る責任という二つの語をつかって説明しなさい」という問題をだしました。期末テストでは、「三権分立で別の機関となっている内閣と国会が、互いにお互いを監視することが少ないのはなぜか。議院内閣制という語を使って説明しなさい」という論述問題を出しました。
授業で一度やっているので、結構答えていましたが。
こんにちは。
今日は初雪が降ってとっても寒いですね。学校に行くのにとても苦労しました。コアラさんは、車で学校に行くんですか?
論述問題はとても難しいですよね。
こんばんわ。ゆいさん。
テスト問題の解答の記号を、「1・2・3・・・」とか「イ・ロ・ハ・・・」とかの順番にする人、よくいますね。また解答を正しく入れるとある言葉になるように入れる人もいます。要は、採点しやすくするのですが、一種の遊びですね。
昔解答を全て選択問題にして、解答欄を碁盤の桝目にして、解答欄を渦巻き状に読むと1つの文章になるようにした人もいました。
ここまで来ると、遊びも度が過ぎているようです。
僕はそういう遊びはしません。問題には懲りますがね。もっとも問題の内容です。
先日の期末テストは論述問題が多い上にむずかしいと、ちょっと不評でした。
こんにちは。
成績のつけ方、参考にさせていただきました。意外と複雑なんですね。テストの問題を考えるのは、やっぱり人によって違うものなんですね。ある先生は、記号の順番を順番どおりにしていました。コアラさんはそういうことはしないんですか?やはり、問題には凝っているんですか?
新しい歴史教科書への批判を読んでいただきありがとうございます。僕も古田さんの学説には感銘をうけ、自分でも古田さんに導かれながら古代史の資料を渉猟したことがありますし、著書もほとんど読んだと思います。学会は無視していますが、おそらく大綱は古田さんが論証したことが正しいと思います。
新しい歴史教科書を批判するときに古田さんの説は大いに参考になりました。
論文を読んでのご感想・ご批判。ぜひ、この掲示板にも書きこんできださい。
驚きました。こんなものを見て。googleを検索していてたまたま出会った、のですが。私は「古田史学の会」の会員ですが古代史の分野どころか通史的に“新しい歴史教科書”に対し鋭い論駁を加えている。今日のところは貴論文を出力コピー(「はじめ」から「中世の日本批判4」まで)するだけで終わりました。明日ワクワクしながら読了したいと思っています。who's who? 読後の感想はまた後日メールさせてもらいます。
入試とは少し違う内容の授業。
僕の授業もかなり違うと思う。でもポイントは同じです。つまり大事なところは同じはず。教え方が違うだけ。そうでなければほんとに困ってしまいますが。
僕の場合は教科書はあまりつかわないけど、その授業の内容と同じことは(多くは教科書の記述は不充分なのですが)、教科書のどのページと同じかを明示して授業をやっています。
授業のノートを何度も読み返すことや、それに関連していると思われる教科書のページを何度も読み返すことは、入試にも役立つし、授業の理解にも役立つと思います。
僕も今、成績をつけています。今週の水曜日から面談が始まりますので、その前に成績をつけておかないと、まにあいませんから。
お返事ありがとうございます。
う〜ん、評価の付け方ってこんな難しいんですね。
でも先生は「今週に成績をつける」と先週言っていたので
今頃頑張っても、内申点には入りませんネ・・・。
(入試には役立つかもしれないけど)でも私の学校の授業は
塾でやったり、入試問題でといている内容とは少し違うもの
なので、ちょっと参っています・・・(T_T)
はじまして。みゆさん。
おたずねの評価の方法ですが、昨年の3学期までは相対評価だったから、観点別評価が全部Aでも、「4」という評定になることがしばしばありました。なぜなら各段階の評定人数が%で決められていたからです。「5」と「1」とは7%、「4」と「2」とは21%、そして「3」は44%。ですからどんなに皆ががんばって、各教科の目標を達成して、みんなが観点別評価をすべてAをもらったとしても、5・4・3・2・1と、先の%で評定を割り振られたのです。
では4月から実施された絶対評価ではどうか。
絶対評価なら基本的には観点が全部Aなら「5」です。そして観点が全部Bなら「3」ということになりますね。
4月以降も全部Aでも「5」にならないとしたらその理由は何か。原因は二つしかありません。1つは観点別評価と5段階評定を直接連動させず、すべての観点を得点にして、その得点合計が、満点の何%かで、段階評価をつけるという方法。僕のやりかたはこれ。例えば3年の2学期の評定は、満点が670点なので、「5」はこれの90%以上、つまり603点以上というつけかた。これだとオールAでも「4」がありうるし、Bが1つ入っても「5」ということもあります。
考えられるもう1つの原因は、4月以降も相対評価で評定を出しているということ。相対評価だと「5」は7%。200人の生徒がいれば14人です。4月以降も「5」は14人にしているか、少し色をつけて16とか20ぐらいにしているのではないか。16人だと8%。20人なら10%です。つまり4月以降も、学習目標への到達度で評定をするのではなく、一定の割合を決めておいて、生徒の得点を比較して評定をする、相対評価のままであるということ。
4月以降もオールAで「5」にならないとしたら、上の二つの評価の方法をとっているのではないかと思われます。
ではどうすれば5になるのか。絶対評価でやっていれば5はかなり出来ないとなれないです。テストなら問題の難易度にもよりますが、僕の場合は最低90点平均以上。できれば95点平均以上と考えています。平均点というのはそのテストを受けた集団の平均ですから、どこまで理解して欲しいかと言う到達度とは違います。だから絶対評価なら担当の先生が考える到達度があるはずです。その最高点を超えないと5にはなりません。相対評価なら集団の質によって5の点数は違います。平均点がどのくらいかわかれば、だいたい5のレベルも読めますが。とにかく5をとるには、普通の能力の人なら毎日復習と予習をするしかないと思います(復習だけでも良いかも)。
提出物は5をとるくらいの人は、普通は全部だしています。問題はその提出物の出来ですね。レポートならレポートの得点。または評定。僕の場合は5点刻みの50点満点。5は、毎回50点か45点です。
やはりこれも毎日復習してノートや教科書を丁寧に読み、内容を良く考えて理解するしか方法はないでしょう。
あとは、あなたの国語力と推理力しだい。
はじめまして。川崎市で中学生(3年)やってる
みゆです。ゆ いさんの紹介できました
ところで質問なんですが、私は社会の観点別学習状況は全部A
なのに、5をもらったことがありません。私の友達にも同じ
事態になっている人が3人ほど居ます。テストはすべて平均点
以上、提出物もすべて出しています。どうすれば5をもらう
ことができるんですか?
今日期末テストですか。私の学校と同じですね。試験範囲は経済の所が入っていたかな?。政治と経済は結構難しいですからね。
テスト問題の作り方はいろいろですね。僕は授業ノートをざっと読んでから、あとは頭に浮かんだものをどんどん問題にするだけ。人によっては市販の問題集丸写しの人もいるみたいです。
まああきらめずに学習を毎日続けてください。
チャットですか。あれば面白いですが。そこまでは考えていませんでした。
こんにちは。実は今日社会の期末テストがありました。でも、本当に全然できませんでした!他の教科はまあまあなのに・・・。なんか範囲を少し勘違いしていたようです・・。先生方はどうやってテスト問題を作っているんですかね〜?
ところで、このHPにチャットとかはないんですか?
川崎市診断テスト。3年の問題は、比較的素直な問題だったので(特に公民は)、勉強しただけの成果が出やすかったと思います。少しはできたということは、それだけ自分の努力の成果が見えているということ。自分を誉めてあげてください。
来週あたり期末テストかな?。これからも毎日怠らずに復習していけば、ずっとわかるようになりますよ。
入学試験まであと3ヶ月。歴史や地理の復習も怠りなく。
こんにちは。久しぶりにカキコしました。この間、川崎市で行われたテストがありました。社会は一応だいたいうめましたが、自信がありません。でも、コアラさんのおかげで少しはできました。学期末テストもがんばりたいと思います!!
ミナトさん。こんばんわ。
そうですか。ミナトさんも東洋史専攻ですか。僕もそうです。シルクロードを通じての東西文化交渉に興味をもち、大谷探検隊の記録なども読みました。卒論はそこから外れて、「古代日朝関係史研究史上の諸問題」などと、日本古代史に入り込んでしまいました。ちょうど高松塚古墳が発見された時で「帰化人」論争が盛んなときでしたので。そしてそのまま、日本近代史にのめり込んでしまい、東洋史からは離れる結果に。
今は日本中世史に興味を持っています。とりわけ天皇制。最近ではそこからも外れて、平家琵琶の勉強をはじめています。
僕のサイトは、最近忙しくてなかなか更新できません。社会科のページの授業記録も参考書も、もっと書きたいのですが。
でも読んでいただきありがとうございます。できるだけ更新していきますので、今後もよろしく。
コアラさん。
そ、それは、何て素敵な才能なのでしょう!すごく面白いですね。コアラさんの授業が面白いあまりに全てをメモして、劇画の世界で再現するなんて、コアラさんも、その生徒さんも凄いです。
私は、中学時代にその隣の子のおかげで日本史好きになり、さらに資料集の図を見ていてフランス革命が好きになり、高校では世界史大好き人間になり、大学での専攻に、ユーラシア大陸の真中の地域の歴史が抜けている、と思って東洋史を選びました。だから、その素晴らしいノートを作る子が、もし隣にいたとしたら、日本史好き街道まっしぐらだったのではないだろうか、と思ったりします。
日本史は、今も好きなのですが、文化史が面白くて、教科書の知識はすっかり抜けてます。奇術(いわゆる手品)はなんと飛鳥時代に日本に入ってきた!とか、聖徳太子はチーズを食べていた!とかを調べたりしています。どんどん歴史オタクになっていく自分に快感を覚えています。今はからくり人形について調べています。
コアラさんが非常に楽しい方で、「イラストレイティッド・
ノート」(絵入り帳面)を理解して下さる方で嬉しいです。
このサイトでご紹介している教師のための参考図書も、興味を
そそられるものばかり(とくに日本中世史)なので、これからも度々お邪魔したいと思います。
ミナトさん。はじめまして。
歴史の授業で、習った時代の人物関係図や出来事や物事の関係を漫画的に図示してしまうやりかた。こういう才能のある人って時々いますね。絵の好きな人には、とても良い方法だと思います。文章で表現するよりも図解の方がリアルでわかりやすいですから。
簡単な図ではなくて、ほんとに精緻なイラストで書いたノートも見たことがあります。セリフまであって、ほとんど劇画の世界。
それぞれの楽しみかた、それぞれの学び方があっていいと思います。
たとえばこんなノートを作っていた生徒もいましたよ。僕の話したことを一言ももらさず記録し、しかも僕もキャラクターとしてマンガ化されているという、すごいノートが。黒板に書いた図も、スクリーンに映した図も、すべて書き写されているんです。ほとんど僕の授業の再現版。
一度やりはじめたら面白くてやめられなくなったそうです。
もっとも記録される僕の方は、冷や汗ものですが。
初めまして。
こちらのサイトは社会科に関して、とても
充実していて驚きました。
ゆいさんのお悩みが何となく、中学生の頃の私と
似ているように思いました。私の中学校での社会
科の授業は本当にひたすら教科書を読むだけでした
ので、詰まらないと正直思ってました。けれども、
そんな時、隣の席の子が何だかとても楽しそうに
授業を受けていて、ふと彼女の方を見たところ、
ノートに先生が説明した部分を図解していたのです。
そんなに凝った絵ではなく、あの単純な丸い頭に
三角の体の人間なのですが、丸い頭に髪の毛を
つけて、その髪型を変えたり三角の体に色や模様を
つけたりしていたのです。確か鎌倉時代を習っている
頃でした。それで、朝廷の人間と幕府の人間を髪型や
服装を変えて対立や和解などの説明を加えていたのです。
それが、すごく面白くて、分かりやすくて、私も
真似をして描き始めたところ、楽しくなってしまい、
それ以来社会科が好きになりました。
でも、こういう「好き」のなり方は教師の方から
見てどうなのでしょうか、コアラさん?
ゆいさん。あなたが社会科を少しでも好きになってくれると嬉しいな。でもこれって結局は自分の姿勢なんですよ。どこまで自分が主体的に自分の力で取り組むか。主体的にやったことって、すごい充実感があって、何か大きなものが自分のものになっているんですね。この充実感の積み重ねが「好き」ってことだと思う。
うちの図書室には、放課後毎日2時間ほど勉強にくる3年生がいます。授業が終わると、ここで復習と予習をするのだそうです。少し疲れたら、息抜きに好きな本を読む。
こういう充実した時間をすごしてくれる人が一人でも増えて欲しいと思って、図書館を運営しています。これももちろんん、自分の時間をやりくりして、放課後2時間も開館事務をしてくれる図書委員のおかげですが。