〔ダリ宝飾美術展〕 1991.11.7


ダリの宝石彫刻を見て

 ダリの宝石彫刻のモチーフには、樹木、草、昆虫、海、動物と、自然の物が極めて多い。とりわけ、ひんぱんに出てくるのが、「生命の木」である。数多く作られている十字架も「生命の木」のモチーフで飾られており、樹木や植物、昆虫に変身させられた人間の体も、「生命の木」のモチーフで飾られている。この自然物のモチーフの多さの一方で、ギリシャ神話から題材をとった物が多いのも特徴的である。そして、聖母子像もかなり多く使われている。

 これは一体何を意味しているのであろうか。

 宝石彫刻の多くが、1950年代から60年代にデザインされていることも影響しているであろう。ダリの作品の多くに宗教的に色が最も濃くなった時期である。

革命と反革命の前半生

 ダリの前半生は、戦争の連続であった。10歳の時に第1次世界大戦が勃発し、34歳の時にはスペイン内戦が起きている。その3年後には第2次世界大戦が勃発している。広島・長崎に原爆が落とされたのは、ダリが41歳の時である。そしてこの41年間は同時に、革命と反革命の時代でもあった。ロシア革命はダリ13歳の時であり、ヨーロッパはこれ以後30年間、革命と反革命の時代であった。

 これは、度重なる戦争と貧困、差別と殺戮の繰り返しの社会に対して、マルクス主義を旗印とする新しい労働者の勢力が、社会を作り替える作業に挑戦しはじめた時でもあった。1917年のロシア革命はその扉を開き、貧困と差別と腐敗と殺戮に満ちた社会は、真に作り替えられるかのような希望がほのみえた時代でもあった。1920年代。この新しい流れと一体の芸術運動として、シュルレアリスムも生まれ出ていた。既成の社会、既成の概念、既成の通念が次々と打ち砕かれ、明るい未来が見えてきたかのようであった。

 しかし、時代は、人々の期待に背いた。共産党を中心勢力とするヨーロッパ各地の革命運動は次々と敗北し、しかもその原因は、共産党のセクト主義と冒険主義による、よりひろい民主的運動内部に生み出された運動の分裂であった。この運動の分裂の間隙をついて、反革命の先兵として現れたのがファシズムであった。

 学生時代に共産主義運動への関わりを理由に放校処分を受けたダリにとって、共産主義運動の変質は大きな心の痛手であったであろうし、ダリがヒットラーに大いに興味を持ったというのもうなづける。それが原因で、ダリは、ブルトンらにシュルレアリスム運動からの「裏切り者」よばわりもされた。

 しかし、そのヒットラーも何をしたのか。1936年。ヒットラーは王政の下で貧困と差別に苦しんでいた民衆が立ち上がるや、王党派を援助して、大量の軍隊をスペインに送った。そしてヒットラーに援助されたフランコ将軍の軍隊は、抵抗するスペイン民衆の大量虐殺という手段に出たのである。ゲルニカの大虐殺。ピカソの怒りの筆を生み出したこの事件も、ダリの心に大きな痛手を負わしたであろう。そして1940年。自由の国フランス全土がナチスドイツに占領されるや、ダリは西なる自由の国、アメリカに亡命する。そこには、大きな期待がこめられていたことであろう。アメリカの参戦は、ファシズムという巨悪からの人類の解放戦争として、多くの人々に期待された。それは、ヨーロッパの腐敗した社会に批判的であった多くの亡命知識人にとっては、さらに、大きな期待をもって受け取られたことであろう。

 しかし、事もあろうにアメリカは、ナチスドイツからヨーロッパを解放したあと、日本に対して、原子爆弾という恐ろしい武器を使用した。ダリはこのことに大声をあげて抗議したという。ダリの作品には、これ以後、原子とか原子核とかにたいする関心の強さが見られるという。そして宗教的性格の強い作品を作り始めるのは、それ以後の事である。

人類への失望から自然崇拝へ

 ダリの作品には戦争の影がある。しかし、それ以上に大きいのは、人類の解放への期待を裏切られたことによる失意、人間の力にたいする失望と不信感であると思う。

 ダリの作品はスペインの伝統に従って、まずカトリックへと回帰していった。しかし、それからも次第にはなれ、むしろ自然主義とでもいう方向へ回帰していったのではないだろうか。あらゆる宗教の背後に隠された、自然の恐るべき力に対する信仰、崇拝の念。ギリシャ神話の神々は、超自然的な力というよりは、より人間的な様相を帯びた神である。いいかえれば、自然と一体になって暮らしている人間そのものという感すらある。

 だが、ダリの心はさらに原始へと回帰しているのであろう。

 宝石彫刻にあらわれる自然そのもの。人間を自然の物に変身させてしまうモチーフの数々。その極が、「生命の木」なのではなかろうか。「生命の木」。そこには、ダリの人間に対する不信感と、しかし、人間の救済を願ってやまない心の矛盾した状態が表現されているように思える。自然へと回帰する傾向と、神への憧れ。この二つの傾向も渾然一体のものとしてあるようだ。

 ダリの宝石彫刻のモチーフを見ていて、私には、そのモチーフがマヤやアステカ、インカというアメリカ大陸の原始文明の彫刻のモチーフや、古代インド、エジプト、メソポタミア、中国などのモチーフとも共通するものがあるように思えた。そしてそれは日本でいえば、縄文土器の世界でもある。

 ダリの宝石彫刻を一緒に鑑賞した村上さんは、「東洋的」と表現した。いいかえれば、西洋=キリスト教的ではないということ。

 今日のキリスト教は、古代ゲルマンの自然崇拝の宗教を否定する所に成立した。自然そのものに一体化し、自然の脅威におそれ崇拝していたゲルマン民族を、唯一絶対なる神の下に統合したのがキリスト教である。古代ゲルマンの多神教とちがって、キリスト教は、自然を克服すべきもの、神のつくったものと捉える。ここに近代合理主義の源はある。

 合理主義の極としてのマルクス主義・資本主義・キリスト教を突き抜けたダリの心のいきつく所。それこそ、「東洋的」と表現される自然崇拝の世界ではなかったのだろうか。

人類の破滅の時代を先取りした天才=ダリ!・・・・

 現在、世界各地で、そして日本でも、資本主義の腐敗した姿、人類の命の源である地球をも破壊してしまいかねないその文明の恐ろしい姿に気がついた人々は、「自然に帰れ」という運動を始め、その一方で「宗教的」な方向へも動いている。そしてその宗教的運動も、より自然崇拝的に性格をもっている。日本の新興宗教がそうであり、最近ヨーロッパ各地で、聖母マリアの奇跡がおきているという現象もそうである。聖母マリアこそ、自然崇拝的なゲルマンの人々にキリスト教を根づかせる時、キリスト教の側が自然崇拝を取り入れた事の産物であった。自然崇拝の主神は女神だからである。

 天才ダリの心は、革命と反革命・戦争の時代をくぐる中で、すでに40年も早く、現代の人々の心のあり方を先取りしていたに違いない。                                                               (1991.11.9記す         川瀬)   

注@:サルバドール・ダリ

 Salvador Dali(1904〜89)。スペイン生まれのシュルレアリスム(超現実主義)の画家・彫刻家。カタロニア地方のバルセロナ近郊の町、フィゲラスの出身。1921年にマドリードの美術学校に入学したが、その後放校処分を受けた。最初はキリコに、ついでキュビスムに近づき、1928年にパリに出て、ピカソやシュルレアリスト達と接触した。

 やがて、その達者なデッサン力と細心の技術を用いて、幻覚や夢など人間の無意識の世界を描いた。そしてそれと共に、「見える女」などの著述を刊行し、自己の芸術を「偏執狂批判方法」と呼んだ。1937年のイタリア旅行後、ルネサンス美術への復帰を主張し、ブルトンなどシュルレアリストを批判し、シュルレアリスムから次第に離れた。

 また、1940年にパリがナチスドイツに占領されると、スペインを経由してアメリカに亡命。以後、ここに定住した。映画や、舞台衣装、商業デザインなどにも手もひろげ、「ドルの亡者」などとシュルレアリストから批判されたが、シュルレアリスムを大衆に最も分かりやすい方法で提起した点で、最も秀でたシュルレアリストであった。

 スペイン内乱や戦争、広島・長崎の原爆に反対する作品なども多く、第2次世界大戦後も、多彩な活躍をした。

 1950年代以後は、次第に宗教的な題材の作品が多くなり、スペイン宗教画の神秘的な伝統の極をなしている。また、1950年代から、夫人のガラのために宝石彫刻もてがけるようになり、多くの作品を残している。

 ダリは日本への関心も深く、1964年には、ダリ自身の希望により、世界で初めての個展を日本で開催したほどであった。

1989年1月。85歳で病死。              

注A:シュルレアリスムとは?

 第1次世界大戦後のパリで、アンドレ・ブルトンを中心にして起こった、前衛的芸術運動をいう。(超現実主義と訳されている)

 主として詩と絵画に見るべき作品を残したが、そのほか、映画・演劇・バレー・写真・彫刻などにも、その影響は及んだ。運動に参加した者の数はけして多くはなかったが、1920年代から30年代にかけて、世界各地に影響を与え、戦後にも再びパリを中心にして運動が再建されるなど、極めて影響力のある大きな芸術運動であった。

 ブルトンの言うシュルレアリスト(超現実的)とは、19世紀ロマン派の詩人ネルバルが、その作品である「火の娘たち」の冒頭の一文で、「シュペル・ナチュラリスト(超自然的)」という言葉によって人間の夢想の状態を意味したのに近い。

 ブルトンは、この運動の最初の「宣言」(1924)の中で、「純粋に心霊的な自動現象(オートマチスム)で、それによって我々が、口頭であろうと筆記によろうと、あるいはまた他のいかなる方法によろうと、思考の真の働きを表現する用意のあるものである。理性によるいかなる制御も受けず、審美的ないし道徳的ないかなる配慮からも免れた、思考そのままの書き取りである」と運動を定義している。

 シュルレアリスムは、第1次大戦後のベルサイユ体制下の偽装された平和の中にあって、物質文明と合理主義に対する信仰がもたらした人間の衰弱を全人的に回復しようとした運動であったが、全人性の回復のために、人間の覚醒状態と眠りの状態の中間に至上点を求めようとした一種のロマン主義でもあった。同時に、その思想的よりどころを、ヘーゲルやニーチェ、フロイトやユング、マルクスやレーニン・トロツキー、さらには中世の呪術的秘教にまで求めた点で、哲学的運動でもあった。

 シュルレアリスト達は、自己表現の方法として様々な技法を考えだした。擬態とか転置によって、あるいは異質の材質をはりあわせたり(コラージュ)、異質の材質をこすり合わせて拓本や謄写のように写し取ったり(フロッタージュ)、感光材料の上に直接物体をのせて光を投射したりすることによって、意識に一種の衝撃的効果を与えて、意識変革を図ろうとしたのである。


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