〔松本竣介と30人の画家たち展〕 1991.11.7


 松本竣介という画家については、鎌倉の近代美術館に行くまで、全く知らなかった。

 近代美術館の入口を入ると、第一展示室がある。ここには、彼と同時代の画家30人の作品が展示されている。しかし、この画家たちの名前も、藤田嗣治などの数人の画家を除いて、初めてみる名前ばかりであった。美術館には良く行くのだが、ヨーロッパの有名な画家たちの作品展が大部分で、日本の画家達の作品を見る機会は、今までほとんどなかったからである。

 第一展示室の作品を一瞥してすぐ気がついた事は、全体に色調が暗い事であった。色が沈んでいる。たまに少し明るい作品があるので見ると、外国(たぶんアメリカか、フランスのパリあたり)で書かれたもの。何故だろうと思って、絵の横についているプレートに目を移し、制作年代を確認した。

 暗いはずである。1930年代から40年代の中頃までの作品が大部分であった。1931年の満州事変以後、中国への侵略戦争を進めた日本国家は、1936年の2・26事件、1938年の国家総動員法発令と、次第に国民生活の全てを戦争に動員していった。画家たちも、戦争に協力することが強制され、自由に展覧会も開けない状態になっていった頃である。

 ただ1点。日本で書かれた作品の中に明るい色調の作品があった。糸園和三郎「犬のいる風景」。緑色のグラディエーションで書かれた芝生(?)の明るさと、広く空いた空間が、妙に人目を引く作品である。それでもやはり、どこか寂しげな作品であることにはかわりはない。「戦争という狂気の時代に、平静な気持ちでいられる方が異常なのかもしれない・・・」などと話しながら、第一展示室をあとにした。

 隣の第二展示室には、松本竣介の油絵の小品とデッサンが展示され、そこに彼の年譜が掲げられていた。

 ここでも油絵の作品の暗さが気になったが、一方で目をひいたのが、子供たちのスケッチであった。「子供二人」「麦藁帽子の子供」「指人形」などの子供たちの表情の明るさにすごく引かれた。一緒に見た村上さんは「岩崎ちひろの子供の絵より表情がすごくいい」と感心していた。

 もう一つ目を引いたのが、「象」という油絵であった。まるで子供の絵のようなタッチで書かれていて、妙に引かれた。

 いったいこの松本竣介という画家はどのような人なのだろうか。第二展示室の作品を一通り見てから、このような思いをもって、彼の年譜の前に立った。

1912年。東京に生まれる。

1914年。家族と共に岩手県の花巻に移り住む。

1925年。盛岡中学校に入学。しかし同年、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴力を失う。            

1929年。中学を退学し、母・兄と共に上京し、この年、美術学校に入り、絵を本格的に学びはじめる。    

1931年。太平洋近代洋画研究会を同学の画家たちと結成し、機関誌「線」を発刊。

1932年。「線」の中心メンバーと共に、太平洋美術学校を退学し、赤荳会を結成。             

1933年。兄が生長の家の創始者谷口雅春に共鳴して「生命の芸術」を創刊。以後この雑誌の寄稿者となる。

 このあたりまで読んでみて、つい今しがた見てきた、ダリと同じものを感じた。

 花巻・盛岡といえば、宮沢賢治の世界である。東北の貧しい現実の中で、マルクス主義の影響も受け、エスペラント運動にも関わった賢治の世界。きわめてヒューマニズムに富んだ彼の作品の奥にある鋭い社会批判の目。松本竣介がこの賢治の影響をうけなかったはずはない。そして19歳にして美術研究雑誌を発行し、学校を退学したあと作った会の名が「アカマメ」とは。確実にこの人は、マルクス主義の洗礼を受け、当時のプロレタリア美術運動に関わっていたに違いない。そして一転して生長の家という、一種全体主義的な運動への傾斜。ほとんどダリと同じ軌跡をたどっている。

 1920年代の末。社会の一大勢力となっていた労働運動は、共産党の極めてセクト的極左的な政策の下で、左右に分裂させられ、同時にこの波は、様々な文化運動においても同様に進行した。多様な社会批判の目を共通の物として展開していた芸術・思想運動の中で、共産党のセクト主義は、政治闘争への大衆動員という至上目的に、芸術や科学・思想を従属させようとする傾向へと進んでいった。「プロレタリア○○運動」というのが次々と結成されていった。芸術の分野でのこの傾向は「社会主義リアリズム」運動として形成され、芸術を政治に従属させる、極めて矮小な運動であった。このことによって、社会の多くの層を包含していた民主的運動は、大分裂し、お互いに非難攻撃しあって勢力を弱め、そのあげくに当局の大弾圧にあって衰退していくのであった。

 1932年といえば、分散解体させられていく様々な運動体を、プロレタリア運動という共通項の下で、当時の共産党指導部の官僚的な指導によって合体していった時であった。社会変革の多様な可能性をもった運動が、自己解体をとげていった時。松本竣介が一つの芸術運動を主催し、そしてそれを解体して生長の家に接近していったのは、このような時代においてであった。

 おそらく社会主義リアリズムの胡散臭さへの反発と批判は、その対局である民族主義と民族的伝統への回帰(日本的なものへの回帰)という形をとったものであろう。松本竣介の絵の暗さの中に、このような時代と、時代に絶望しながらも、そこからの脱却を試みる、若い画家の苦悩を読み取ることができると思う。

 しかし、それにしてもあの「象」や子供たちの絵の明るさはなんであろうか。さらに年譜を読み進んでみて、少しその訳が理解できたような気がした。松本竣介は、戦時下の日本において、芸術を当局の戦争遂行目的に従属させようとする政策に敢然と立ち向かい、新しい芸術の方向を探っていた若い画家たちの中心的存在であったのだ。

1936年。松本禎子と結婚。アトリエを「総合工房」と名付け雑誌「雑記帳」を発行。            

1941年。雑誌「みづえ」に「生きている画家」を発表し、戦争へと画家を駆り立てていく政策に公然と反対。 

1943年。7人の仲間と新人画会を結成。

 戦時下の統制が強まっていく社会にあって、かなり自由な立場から芸術を論じ、そして軍部を中心とした勢力と戦う姿勢。第3展示室に掲げられた、今回の展覧会の中心的作品である「立てる像」は、この戦いの最中に書かれた。まるで戦後の焼け跡のような風景の中に、大地に根を張るかのようにしてすっくと立ち尽くした画家自身の絵。どこか遠くを見るかのような眼差しながら、左手はしっかりと握られている。この画家の、時代と戦う強い意思が描かれているかのようだ。

 「立てる像」は1942年。あの子供の絵のような「象」は1943年。そして子供の絵が書かれたのは、ちょうどこの頃である。

 1948年。松本竣介は、肺結核のために36歳で死去した。

 戦後いち早く美術家組合の結成を訴え、新しい美術運動の乗り出した松本竣介。彼はどのような芸術に到達したのだろうか。作品の数が少ないのでよく分からないが、戦中のカーキ色の色調の絵と違って、戦後のそれは青または緑の色調が強いことが印象に残っている。

 それにしても時代の流れとは恐ろしいものだ。一個人の生活などあっと言う間に押し流してしまう。しかし、あの戦時下においても時代の流れに抗して、自己の主張を高く掲げて、理想を求め、原則を守りながら、自らの信ずる芸術活動を続けた若い画家たちが数多くいたという事実は、今日の時代にとっても、大きな意味をもつであろう。                          

                                           (1991.11.10記す          川瀬)  


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