〔鎌倉人形美術館〕 1991.11.7


人形と近代家族

 鎌倉人形美術館を見学するのは、二回目である。小さな美術館ではあるが、1階・2階ともに、個性的なかわいい人形がたくさん展示してあり、女性の来館者が大部分を占めているように思えた。

 1階には、ベベ(子供の体型をした人形)の数々と、人形の家が展示されている。2階には、汽車や船・飛行機などのおもちゃと、ファッションドールと呼ばれる人形が飾られている。ファッションドールとは、19世紀の中ごろから使われたもので、ファッションの伝達のために作られた人形だ。今のように写真を印刷する技術のなかった当時において、ヨーロッパの上流社会の女性たちの間で、いま流行のファッションを知るための道具としてつくられたものであるという。

 実際に見学してみると、このファッションドールは、当時の流行を示していて興味深いし、とても美しくかわいい。

子供の姿をした人形の出現

 しかし、私にとって一番興味があったのは、1階に展示されていたベベ(子供の体型をした人形)であった。なぜならば、この人形が作られた背景を考えていくと、そこに現在では一般的な核家族としての近代家族の発生が見てとれるのであり、同時に、子供というものが、歴史の中でどのような存在としてあつかわれてきたのか、という問題も見えてくるからである。

 解説によると、ヨーロッパにおいて、子供の体型をした人形が作られはじめたのは、1850年ごろからという。それまでは、人形というのは大人の体型をしており、大人の服装をしていたとの事。なぜかというと、「その頃は子供期という認識がはっきりしていなかった」と解説文に説明がありました。そして、「子供人形の登場は、子供期の大切さが一般に理解される様になった結果といえるでしょう」と解説しています。

 これはどういう事なのか。最近のヨーロッパの歴史研究によると、ヨーロッパの中世においては、「子供は小さい大人」と考えられており、服装も大人と同じだけではなく、小さい時から、一人前に家族の一員として仕事を持っていた。そして酒席においても子供が出席している絵なども見られ、今日のように、「子供だからしてはいけない」というタブーがなかったようなのです。それは、金銭の問題でも性の問題でもそうでした。新婚夫婦の初夜の席に、近所の子供たちが押しかけ、ベッドに入っている二人を祝福するのは、当時としては当たり前の事でした。

 子供は、子供としての特別の教育や躾けを受けるのではなく、大人の中で、小さい大人として生活しながら、大人たちのする事を見聞きする中で、様々な事を覚えていくのでした。学校というものもなかったわけです。

 家族の形態も、現在のような一組の夫婦と、その未婚の子供たちという核家族ではなく、家長夫婦とその直系親族だけではなく、その傍系親族をも含めた、大家族でありました。一つの家の中には、様々な年齢層の人々が、共に暮らしており、全体の共同生活として、経済活動もなされていたわけです。

近代市民社会の成立と子供

 では、子供が「大人からは独立した子供」とみなされるようになったのはなぜでしょうか。

 ベベが作られ始めた時期を考えてみましょう。1850年頃のヨーロッパとは、どんな時期だったのか。

 イギリスでいえば、200年前の市民革命を経て、1750年頃に始まった産業革命も一段落し、世界市場を相手にした、高度な資本主義社会が成立していました。そして1850年頃には、その資本家達が社会で大きな位置を占めるようになり、長い闘争の末に参政権も手にいれ、社会のリーダーとして存在していました。同時に、都市が大規模に成立し、多くの労働者階級の家族も住み、封建的な人間関係ではない、実力と能力が支配する、自由な雰囲気が社会の中に漲っていました。人々は、政治・経済・文化のあらゆる生活場面において、自分自身の意思に基づいて物事を決定し、活動するようになっていました。

 言葉を変えて言えば、「近代市民社会」が成立していたのです。事情はヨーロッパの他の国でも同じでした。

 フランスは、1820年代の産業革命も終わり、社会の中核を占めるようになった資本家と労働者が、1848年の2月革命により、政治的にも社会の中心勢力となっていました。ドイツでも同様です。1848年の3月革命は失敗し、帝政は続いていましたが、すでに資本主義のしくみは確立し、都市が発展し、社会の中心は、貴族から資本家・労働者に移っていたのです。

 「近代市民社会」。これは都市を中心にした社会です。    

 そしてこの「市民社会」の成立期に、「子供を子供として認め、大人とは違った存在としてあつかう」風潮が生まれたのでした。言い換えれば、「子供は、大人へと成長していく一過程として捉え、その成長には大人の特別の配慮─躾けとか・教育─が必要」と考えられるようになったわけです。

核家族の成立と子供

 それはどうしてなのか。今までは、大人の中で、小さい大人として生活しながら、自然に大人のしている事を見聞きしているうちに普通の大人になっていった。特別の教育などいらなかったのに。なぜ急に変わったのか。

 この問いに答えるのはとても簡単だ。なぜなら、問いの中に、すでに答えが含まれているから。

 「大人の中で自然に大人のしている事を見聞きしているうちに大人として成長する」ことができないから、特別の教育が必要になったと考える以外に、この問いに対する答えはありません。

 では、なぜ自然に成長できなくなったのか。

 それは、子供のまわりに、手本としての様々な世代の共に生活している人がいなくなったからに違いない。「子供期」が認識され、子供の遊びが重要視されるようになったその時期。ヨーロッパでいえば、1850年代。それはまさに、都市を中心とした市民社会の成立期であり、核家族という、「近代家族」の成立期でありました。

 産業の発展は、経済活動の機会を増やし、家族の構成員に家族からの独立の機会を与える事となりました。子供は大人になるにつれ、親元から独立して、独自に生計を営むようになったのです。大家族が崩壊し、核家族が成立したのです。

 子供の側には、両親と数人の兄弟姉妹のみという家族。そして、一家の生計は、みんなの共同作業ではなく、父親(夫)の収入に頼るという家族。ここでは、子供が自然に手本とする多様な人々もいないし、子供を生計を担う人として考える必要のない家族。これが核家族としての「近代家族」なのでした。

 そして重要なのは、この「近代家族」では、一家の女主人は、生計の担い手ではなく、「主婦」として、家庭の事のみを司る存在としてありました。女性には、政治に参加する権利はないばかりか、社会的な役割を果たすことすら必要ないと考えられていたのです。これは、資本家たちが手本とした、貴族の社会の慣習そのものでした。そして、貴族とは違い、大規模な社交の場などはなかった資本家階級の妻たちに、「育児」が、その仕事としておしつけられてきたのです。家族という大人になるための学習の場を失った子供達、大人としては認められない子供達の養育は、同じく一人前の大人として扱われない女性達に、社会システムとして、押しつけたのでした。(もちろん、この成立期において、純粋の以上のような性格をもった家族は、都市の資本家階級と貴族層にしか成立しません。労働者の家族は、あいかわらず、その生活の貧しさゆえに、子供は重要な生計の担い手でありました。また、農家は、伝統的な農法の下では、大家族による労働が生活の糧であったゆえに、子供も大人として働かねばなりませんでした。)

 「子供」という存在を独自のものとして考える風習は、このようにしてはじまったのです。

人形に投影された社会の変化

 人形美術館に展示してある、ベベという人形。解説によれば、これは特別の工房で作られ、「貴族や上流階級の子供達が遊んだもので、一般市民にはなかなか手に入らない高価なもの」でした。この人形の中に、はっきりと当時の「子供期」の成立の事情が物語られています。

 そしてこの「子供期」が大衆化し、子供たちの人形やおもちゃがあふれでてくるのは、ヨーロッパであれば、20世紀初頭。日本であれば、戦後1960年代のことでした。

 人形美術館の2階に展示された、ブリキや紙で作られたおもちゃや人形。これこそ、大規模な工業化により、農村が解体されて、都市へ都市へと人が流入し、核家族が一般化した時期。そして、産業の発展により、生産の目標が輸出とならんで国内消費にむけられるようになり、労働者階級の生活も向上し、「主婦」が一般化した時期。この時期の大衆化された、おもちゃや人形の姿です。そしてこれはやがて、第2次世界大戦後は、プラスチックのおもちゃ・人形として、安価なものとして一般化していくのです。       

 そして、近年。女性の社会進出は著しい。もはや家事を女性におしつけておける状態ではなくなっている。それは同時に当然の事ながら、子供の教育も母親に押しつけられるものではなくなっている。では、どこに。考えられる事は、父親をも含めて、おそらく家族の中のみではなく、社会全体で子供を育てるという方向に向かっていくことであろう。学校の大衆化。これ自身がこの流れに属している。「子供は社会の中で育つ」。この命題は少しずつ一般化されようとしている。そしてこの流れの中で、おもちゃや人形にどのように変わっていくのだろうか。いや、すでにかわってきているのかもしれない。

 人形美術館の人形の背景は以上のようなもの。

 しかし、ここの展示には、そこまで気が付かせるに足る、資料や説明はない。だから、見学者の感想は「きれい、かわいい」というものにしかならないと思う。これでは展示する意味があるのだろうか。

 美術館とは、ただ美しいものを集めて見せるだけのもではない。これは、大衆教育の場、実物に触れながら、人間を社会を自然をより深く理解する場としてつくられたはず。残念ながら、日本のどの美術館・博物館とも同じように、人形美術館の展示も、ただ置いてあるだけであった。

 とても残念な思いを持って、この美術館を後にしたが、同時に、このような美術館が出現した事に、社会をより深く見つめようとしている、現実の社会の変化の波を感じ取った一時であった。 

                                            (1991.11.13記す     川瀬 )  


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