〔アンドリュー・ワイエス展〕95.4.30
10代のころから晩年にあたる今日の作品にいたるまで、ほとんど全ての絵に生命力といったものが感じられない。題材の多くは、荒涼たる風景や滅びゆく廃屋や人の生活の臭いのしない家である。しかし、そうではない題材、例えば人物を描いていても、その人物には生命力が感じられない。なぜだろうか。
この人の絵は細密描写といって、事物の姿を事細かに描く技法である。とても細い絵筆を使って描いていく。そしてこの時、この画家には、全ての対象が、生命のない「物」としてとらえられているのではないだろうか。
生き物を描く場合でも、「物」として、つまり「やがて滅びゆくもの」として描いていないだろうか。人物を描いても同様である。顔のしわの一つ一つまでとても細かく描いてゆく。この時人は一個の物として存在しているのではないだろうか。
以上の特徴は生涯ほとんど変化がない。唯一の例外は、50代の頃に描いた、一連のヌード。「シリ」という名の少女を描いた作品は、この人の伝統的技法の細密描写で描かれてはいるが、対象への画家のとても暖かな優しい目が感じとれる。
その中の一つ「裸のシリ」。階段の途中に立ち尽くし、強い光線に照らし出された少女の肉体からは、あふれるばかりの若さ・生命力が感じられるのである。また同じころに描かれた中年女性のヌード。これもあふれるばかりの官能美。この時期の2系列の作品だけが異彩を放っている。いったい何があったのだろうか。
晩年になると、彼の絵は今まで以上に象徴性をおびてくる。以前は何気ない風景を描き、そこに深い象徴性が漂っていたのだが、晩年の作品は、つくられた場面、つまり、作家の心の中で再構成されたもので、「滅び」というテーマそのものが、前面に押し出されている。
この作家の初期から晩年までを回顧する作品展は、画家自身によって作品が選ばれた。そして標題としては、「アメリカの郷愁・心の風景を描く」とされている。
もっと明確な標題が必要であろう。
この人の絵は、彼の心の中の空洞、いわば心の中にポカッと空いた、真っ暗な空洞を描いたものだと思う。
かれは、人生の初期に、愛する者を失っている。27才の時に父であり敬愛する師匠であった父を事故で失った。そして34才の時には自分自身が病のために生死の境をさ迷った経験がある。このころの作品には、はっきりと「死」の影がある。
美しい静かな風景の中を、一人静かに去っていく一人の男の後ろ姿。その人物には影がなく、周りの風景からも少しぼやけている。父の死の直後の作品である。そして自身の病床からの回復直後の作品には、死後の世界とも思えるものがある。
そしてこの画家をとりまく人間関係は、どこか淋しげな不幸なものである。つねに隣人との濃密な関係があったあとに、悲しい別れがある。この画家の心の中には、愛する者との別れによって生まれた心の空洞と、そこに巣くう「別れ(=死)へのおそれとあきらめ」があると思う。この人はそれを生涯にわたって描き続けたのだとおもう。
唯一の例外をなす50代のころの一連のヌード作品は、画家が生涯の中で最も愛した2人の女性を描いたもので、しかもその想いが満たされている最も幸福な時期の作品であるのだと思う。
彼の作品の多くは、生命力がないのではなく「時がとまる」と言ったほうが正確だ。やがて別れ(=滅び)ゆくことへのおそれと、そのままでありたいという希望。しかし必ず別れが来るとの確信により、彼の絵筆は、対象の姿を克明にカンバスに描き止めようとする。
「時をとめている」のであろう。