〔北京故宮博物院展〕 1992.8.15
明・清王朝500年間の王宮であった、北京の紫禁城。中国歴代王朝に相伝されてきた財宝の数々と、清朝皇帝たちの生活調度品。この多くの財を持つ、故宮博物院。その代表的文物の展示が東京でおこなわれた。
清朝皇帝たちの生活調度品は、極めて豪華である。何から何まで『玉』の連続である。皇帝の財力の巨大さとともに、その『奢り』をも感じさせるものであった。
この展示を見て、感じたことは二つ。
一つは、清帝国をつくった満洲民族が、ほぼ「漢民族化」されているという事実である。文化的に遅れた支配民族が、被支配民族の文化に吸収される典型的な例がここにある。武力では優越していても、文化的に遅れた状態にあることからくる『コンプレックス』のようなものが、清帝国の皇帝たちの心の中には流れていたのではないだろうか。この現れの一つが、家具調度品の極端な豪華さであり、もう一つが、中国文化の集大成といえる事業への着手であったろう。
17世紀から18世紀にかけて、清朝皇帝の命によって、宮廷に伝えられてきた文物をもとにした、『博物誌』が編纂されている。
この博物誌の編纂は、文化的コンプレックスの所産であると同時に、この時代に、ヨーロッパ文化との活発な接触が行われ、自らの民族の文化を顧みる傾向が触発されたことの結果でもある。そしてこの事と同時に、ヨーロッパ文化が急速に取り入れられているのでもある。
この点は、同時代の日本と同様である。
しかし、大きな違いがあるように思える。日本の場合は、日本の伝統的な文化の集大成と西洋文化の導入が、生産のレベルにまで及んでおり、輸入品の国産化政策が幕府の手でなされていた。この事が、商業のそして資本主義的生産の一層の発展を促したと共に、学問・思想のレベルでの発展をも促し、この事が、後の明治維新の変革へと繋がっていく土壌を形成していた。
中国はそうではないように思えた。西洋文化の導入が、清王朝を支える、宮廷文化の範囲内に抑えられていたのではないだろうか。展示を見る限りでは、奢侈品の生産に、西洋文化の導入は限られていたように思うのである。これが、展示を見ていての二つ目の感想であった。