〔洋画の動乱─昭和10年 帝展改組と洋画壇─〕 1992.10.4
1935年(昭和10年)に、帝展の改組が画策された。これは、従来の写実一辺倒の帝展の幹部級の画風に対して、民間の美術団体が多数輩出して、ヨーロッパの新しい絵画の傾向を取り入れた、優れた画家を多数産み出していた。しかも、その流れの中には、政府の動きに反対する傾向も生まれており、大陸侵略へと国民を統合する政策に、齟齬を生じ兼ねない状況であった。
さらに、在野の画家たちの方が、優れた業績を残し、このままでは、戦争にむけて、国民意識を総動員するのに、絵画を利用することすら、危ぶまれる状況であった。
このような情勢の背景のもとに、従来の帝展の無監査級の画家たちの特権を剥奪し、在野団体の有力画家たちを、帝展に組み込もうとする動きが出た。これが、1935年の文部大臣松田源治の帝展改組である。
今回の展覧会は、この時期を前後する様々な傾向の画家たちの作品を一堂に集めることによって、この帝展改組をきっかけとして起きた、美術界における新たな動きを展望してにようとするものと、主催者は述べていた。
たしかに、今回の展示によって、帝展改組は失敗したものの、在野の有力画家を取り込むことによって、帝展の絵画傾向が一変したことと、従来の傾向から離れ、さらに象徴主義的傾向に動いていった画家の一群があったことはわかる。
だが、帝展の枠内に組み込まれた在野の有力画家たちの、戦時中の作品が展示されていないので、このことの持つ意味は、見る者にも伝わってこないことになる。
戦時中の戦争画の国民精神総動員に果たした役割。美術といえども、けして政治とは無縁ではないことを考えずして、昭和10年の画壇の動きを追ってみても、何の意味もないように思えた。