〔日本出土の舶載陶磁〕  1993.2.14


 この特別展は、縄文時代から17世紀に到る時期の朝鮮・ベトナム等の陶器・磁器に焦点を当てたもの。従って、その量からして、朝鮮からのものが中心となる。

 展示を通覧して気がつくことは、朝鮮から日本にもたらされた陶器・磁器の分布を見ると、その当時の日本の政治地図が描けるということである。特に、興味深いのが、縄文期から古墳・飛鳥時代である。

 この時期における朝鮮陶器・磁器の分布の中心は、一貫して北九州であることが、展示を通して、一目瞭然である。

 縄文早期にあたる隆起文土器は、対馬にのみ見られる。しかも、この土器の中には、縄文土器の影響もみられ、日本─朝鮮相互の影響関係があった事がわかる。

 次の縄文中期にあたる櫛目文土器は、対馬・壱岐を中心に分布し、北九州に若干という状態。そして、次の無文土器の中期になると、九州北部の縄文晩期の遺蹟から出土し、弥生土器への影響関係も見られるのである。

 さらに1〜3世紀の楽浪の瓦質土器では、この土器の分布は、壱岐・対馬・福岡県北部に限られている。また、原三国の土器では、1〜2世紀段階では、その分布は同じく壱岐・対馬・福岡北部に限られており、古墳時代になって、ようやく畿内にも広がるが、その分布の中心は九州であった。

 三国時代の加耶系の土器は、福岡から山形まで分布していても、その中心は福岡であり、新羅系の土器も九州から東北まで分布しているが、畿内には僅かしかない。

 この状態が変わるのは、統一新羅の時代(8世紀)で、ここに到って始めて、畿内での分布が最も濃く、次に対馬・壱岐・福岡北部となるという。

 以上のような、土器の分布は、縄文時代から、8世紀に到るまで、朝鮮と日本との文化的交流の中心は北部九州であることを示しており、政治的にも、北部九州が中心であることを意味している。そしてその状態に変化が生じ、日本の政治的中心が、8世紀に到って始めて、畿内に移ったことを意味している。さらに興味深いのは、その北部九州の中心が、当初は対馬・壱岐であったことだ。そして、ここを基点として、北部九州→全国へと朝鮮の文化が広まっているのである。

 朝鮮土器の日本における出土状況は、古田武彦氏の九州王朝=倭説を、明確に証明していると言えよう。

 しかし、国立博物館の展示では、このような古代日本の政治に関わる点については、全く触れていないのである。まさに、「国立」博物館たる所以である。


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