〔大和古寺の仏たち〕    1993.5.2


 東京国立博物館の特別展。大和の古寺の代表的な仏像を一堂にあつめた展示会。法隆寺、東大寺、薬師寺、興福寺、など、奈良の多くの仏像があり、その中には、法隆寺の夢違観音のような秘仏もある。

 法隆寺の夢違観音。

 奈良・平安期の巨大な仏たちと違い、像の大きさにもよるのだろうが、威圧感が全くない。「聖徳太子の姿を模したもの」といわれているが、その姿は、汚れを知らない少年のよう。すくっと立ったその姿勢。穏やかな顔立ち。仏教が、国家護持のものではなく、王族・貴族たちの内面を支える宗教として生きていた時代の初々しさを物語っている。白鳳期のものといわれており、もしかすると、法隆寺の建物と共に、九州の太宰府の観世音寺から持ってきたものかもしれない。

 薬師寺の聖観音。

 大きい。想像していた以上に大きい。以前薬師寺で見たことはあるのだが、その時は、建物の入口から見ただけなので、大きさはつかめなかった。観音の優しさより、むしろ威圧感すら感ぜられ、仏教が国家護持のものへと変貌したあとのものであることが感じられる。

 金色につつまれた奈良時代の仏。極彩色に彩られた平安の仏。その華やかさで、人を眩惑させてしまう仏たち。仏教が日本に入った時、すでにそれは仏教ではなかった事の証である。現在ここに展示されている仏像の多くは、数百年の歳月により、仏像を彩っていた金箔や絵具が落ちてしまい、かっての華やかさはない。かえって、その下地が出てしまうことにより、落ち着いた、ものさびた雰囲気を醸し出しており、見る人の心に語りかけてくるようなものがある。

 しかし、現在の姿から、これらの仏像が作られた当時の雰囲気は想像できない。金箔や絵具で飾られた巨大な仏像。それ自身すでに権威の象徴でしかないのである。

 今回の特別展のキャッチフレーズは、「千年の彼方、遥かなるまほろばの都を想う」である。「奈良─まほろばの都」という虚構がここにある。統一権力による簒奪の結果としての奈良─飛鳥の白鳳仏。悠久の古より続く日本文化の中心という虚構。ここに、天皇制の権威を粉飾しようとする意図があると読み取ることは、読みすぎではない。宗教への関心が強まりつつある現在。伝統的な仏教の復活の兆しすらある現在。その時に、「奈良の地」の古仏を一堂に集めるこの特別展の意図するもの。それは、皇太子の結婚をことさらに国民的行事としようとする政治の流れと、軌を一つにするものであろう。

 それにしても、博物館で、大勢の人々の中では、「仏」に出会えるものではない、というのが実感である。

 仏像とは、少し薄暗いお堂の中で、一人静かに相対してみるものではないだろうか。どの仏像も、見る人と、ある場所で目線があうように作られているもの。人々の声や足音の騒々しい中では、じっくりと「仏」と語りあうことができるものではない。


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