〔パウル・クレーの芸術〕  1993.8


 スイス生まれのドイツ人。パウル・クレーの初期から晩年までの代表的な作品を展示。

 初期の頃の作品はきわめて写実的ではあるが、印象としてはとても暗い。色彩が暗いのである。それはなぜだかよくわからないのだが、1910年、つまり、この人が30才ぐらいまでの作品は、全体的にそういう傾向が強いように思われた。

 10年代の終わり、つまり第1次世界大戦が終わってから、彼の作品の色彩がとても明るく美しくなるのだが、その理由は一体なんだろうか。会場での作品解説では、この時期にモロッコに渡り、その地の強烈な色彩に影響を受けたと書いてあったが、はたしてそれだけなのだろうか。

 ちょっと面白い作品があった。1919年かれが40才の時の作品で、「雄どりと○○○」という作品。シャガールの作品、とりわけ1911年に書かれた「私と村」という作品に、色彩といい、そのモチーフといい、技法といい、そっくりなのである。ほぼ同時代の作品てあり、両者共に、キュビズムの影響を受けていた画家なのであるから当然なのかもしれないが、シャガールの色彩の美しくはあるが、そのモチーフの扱いかたの中に垣間見える暗さというか、それと同質のものがクレーの作品の中にもある。シャガールの「私と村」という作品の中には、故郷のベラルーシのユダヤ人の村と人々への憧憬とユダヤ人迫害への恐れのようなものが混在しているが、クレーにも同様なことがあったのだろうか。

 彼の作品は、1920年代。つまりドイツのワイマール時代になると、色彩がとても美しいものとなる。極めて抽象化された作品だが、色彩が美しくさわやかで、かつ明るいのである。1919年の作品に見られたような暗さはない。

 それが一変するのが、30年代の作品。

 ここでは色彩が暗くなるとともに、モチーフの変形の仕方がかなりグロテスクなものになってくる。会場の解説を読んでよると、1931年から33年にかけて、彼はスイスへ居を移しているのである。その理由を解説は明確には述べていないが、30年ごろの記述には様々な圧迫に耐えきれず・・と書かれており、また彼の芸術理論が極めて前衛的なものであったことに鑑み、ナチスの台頭と関連があったように思われる。

 大作「パルナッソスへ」という32年の作品は、そのような傾向の中にあっても、一変して美しい。

 まるで画面にタイルを張ったかのような描き方であり、しかもその一つ一つの「タイル」の色彩が微妙に違う。そしてそれが、少し離れた所から作品を見ると、一つに溶け合ったようになって、微妙な美しさを醸し出している。だが、良く考えてみると、「パルナッソス」とは、記憶違いでなければギリシャの古代信仰の山「パルナッソス山」のことではなかったか。たしかそれは、現実のあらゆる苦しみから逃れ、人々は酒を呑み歌い踊り、バッカスの笛に誘われて踊り狂うという「桃源郷」であったとおもう。

 もしそうであるならば、クレーはこの作品を書いた時、現実からの逃避、そしてより平和な世界への憧れに浸っていたともいえようか。ただこの作品の色彩の、美しくはあるが物悲しい淋しさの流れるところにも、このような思いがするのである。

 作品解説に、クレーという人物とその時代についての言及が全くなかった点が惜しまれてならない。


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