〔三橋節子展〕95.3.18


 絵はその人の人生を表すとはいうが、美しく強く、かつ悲しい絵の連続である。

 この人の20代のころの絵。野の花の絵が多い。緑や青をバックにして、白く描いたオミナエシの花が多く目につく。美しくはあるが、寂しく悲しい雰囲気の絵である。

 30代に入ってまもない昭和46年(1971)に、宮沢賢治の童話に題をとった作品が二つあった。「よだかの星」「おきなぐさの星」。どちらもさみしい、生きるということのつらさ悲しさを描いた絵である。野の花の絵といい、この画家は、若いころからこういった作品が多いのはなぜだろうか。不思議である。

 昭和42年(1967)にインドに旅行してから絵が一変する。花を中心とした絵から、人物画へと変わった。そしてインドの子供、特に少女の目に、画家の描こうとしたものがよく表されているように思える。少女の目はきつく、強く、大きく見開いた黒い瞳。貧しい生活の中で生き抜いている、日本の子供にはない厳しい目。ここにも、生きることのつらさ悲しさが描かれているように思える。インドに旅行すると、その大自然と一体となった生活や、自然や人工物の色彩の鮮やかさに感動し、インドは素晴らしいとなってしまう人が多い。インド社会の持つ貧しさと差別の深さに気付かずに。この画家はそこに気付いている。

 昭和48年(1973)にガンと診断される前後から、絵は大きく変わる。前年の昭和47年。すでにガンと気付いていたかのように、「鬼子母」や「鬼子母神」を描いた作品が目立つ。自分の死によって残される二人の幼い我が子への断ち切れぬ思いと迷い。これが、絵の中に漲っている。そして手術を受けたあとの作品。死までのわずか1年あまりの間に、多くの大作を仕上げている。しかもこれは、手術で失った右手の替わりに左手で描いたもの。描くことへの執念すらも感じさせる絵である。

 この時期の代表的な絵。「湖の伝説」「三井寺の晩鐘」。これは、龍であることを知られ、夫と子供のもとを去らねばならなかった女が、むずかる子に自分の目玉をしゃぶらせ、盲目となったという伝説に題をとったもの。そして絶筆となった「余呉の天女」。夫に隠された羽衣を見つけ、子供を残して天にもどらねばならなくなった天女の伝説に題をとった。いずれも幼い2人の子供を残して死にゆくつらさが溢れんばかりの絵である。

 そしてこの時期に描かれたもつ一つのテーマ。「花折峠」の伝説に題をとった絵。京の北にある峠。ここで評判の良い友達を川に突き落とした娘が、息をきらせて村に帰ってみるや、死んだはずの娘が歌を歌っていた。川にとってかえした娘が見たものは、首を折られたたくさんの花々。花の精が身代わりとなって、死んだ娘が生き返ったという伝説。この伝説に題をとって絵を描くということは、迫りくる死へのおそれと再生へのせつなる願いの交錯したおもい。画家の心がそのまま絵になっているのである。ほんとうに美しくかつ悲しい絵ばかりであった。


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