祗園精舎

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清盛はどのような人物として描かれているのか?

 平家物語冒頭の句。冒頭に「祇園精舎の鐘の声・・・」で始まる僧侶の葬送の場面を歌った常套句と用いて、「奢れるものも、たけきものも、みなほろぶ」という、平家の主題らしきものが提示されている。
 この句の中心は、その「奢れる者、たけきもの」中国の例・日本を例を挙げ、それらが遠くおよばない存在として、前の太政大臣平清盛をあげるところである。通常はこのことにより「清盛の悪人ぶり」が提示されているとられているが、平家原文では決して「悪人」とはうたっていあい。
 ではこの冒頭の句で、清盛はどのような人物として挙げられているのであろうか。それは「奢れる者・たけきもの」がどのような人物を挙げているかを通覧してみれば一目瞭然である。しかもこのことは、平家原文が中国の「奢れる者・たけきもの」をあげたあと、次のように彼らの性格を規定していることにはっきりと示されている。すなわち、「皆旧主先皇の政にも従わず、楽しみをきわめ、諌めをも思い入れず、天下の乱れんことをさとらずして、民間の愁える所をしらず」と。要約してみれば、皇帝の政に従わず、世の乱れを生み出した人物なのである。

奢れるもの・たけき者の実相

 では彼らは具体的にはどのような行動をとった人物なのか。日本の例も含めて、逐次検討してみよう。

1:秦の趙高。

 (?―前207)中国、秦(しん)の宦官(かんがん)。戦国時代の趙王の遠属であったが、宦官の身となり秦(しん)の始皇帝に仕えた。中車府令として始皇帝の末子胡亥(こがい)の世話をしていたので、紀元前209年始皇帝が死去すると、丞相李斯(じようしようりし)とともに長子扶蘇(ふそ)を抑え、胡亥を二世皇帝とする謀略を実行した。その後、李斯を殺して丞相となる。二世皇帝に対しても、シカをウマと偽って献じたにもかかわらず、臣下が趙高の権勢を恐れて黙認するのをみて二世皇帝も殺してしまう。しかし、のちに即位した子嬰(しえい)に殺された。趙高が権力を握ったころは、もうすでに陳勝(ちんしよう)・呉広(ごこう)の乱や項羽(こうう)・劉邦(りゆうほう)らの反秦勢力がおこり、秦も滅亡寸前であった。(日本大百科全書より)。
 要するに、自らの意に添うものを皇帝に擁立して政治をほしいままにしたということであろうか。

2:漢の王莽。

 (前45―後23)中国、新(しん)朝の創建者(在位9〜23)。字(あざな)は巨君。中国史上、禅譲革命の方式を最初に現実化し、前漢から政権を奪い新を樹立し、『周礼(しゆらい)』にみえる古文派の儒教に基づく理想社会を具現しようとしたことで知られる。前漢第11代皇帝元帝の王皇后(元后)の弟の曼(まん)の次子。元后の生んだ子が成帝(在位前33〜前7)として即位すると、王氏一族は外戚(がいせき)として台頭し、元后の弟7人がすべて列侯に封ぜられ、大司馬の職を順次占め、国家の軍事権を握った。王莽は父が早死にしたため、王氏一族のなかで1人不遇であったが、やがて王氏内部の権力抗争に勝ち、成帝の末年、自らも大司馬となった。紀元前7年、哀帝が即位すると一時下野したが、継子なく哀帝が急死するや、元后と王莽はクーデターまがいの手段で一挙に実権を握り、元帝の孫で9歳の平帝を擁立し、王莽が国政を総覧することになった。この平帝を紀元後5年に毒殺し、自ら摂皇帝となり、以後王莽の王朝纂奪(さんだつ)の意図は本格化した。当時、支配的な時代思潮であった、天意は瑞祥(ずいしよう)、災異、符命(ふめい)(神秘的な形態を伴って人間に示される天命)によって人間界に示されるとする讖緯(しんい)説を作為的に利用し、ついに後9年自ら天子の位についた。(C)小学館:日本大百科全書より。

 これも自らの意に添う皇帝を擁立し政治をほしいままにした人物。趙高と異なる点は、自ら帝位についたことである。

3:梁の周伊。(資料がないので不明)

4:唐の禄山。

 安禄山(703?―757)中国、唐の武将。安史の乱の首謀者。出自は伝説的で、母は突厥(とつけつ)(トルコ系)貴族阿史徳(あしとく)氏の巫女(みこ)、父は一説に胡(こ)人康(こう)氏(イラン系ソグド人)で早く死別、母が幼年の彼を連れてソグド系武将安延偃(あんえんえん)に再嫁したので義父の姓を名のったとされるが、安氏を実父とする説が有力である。唐人からは雑胡(ざつこ)と称せられた。幼名軋犖山(あつらくさん)(トルコ語の軍神の意と記されるが疑わしい)、のち禄山としたが、いずれもソグド語の光(ロクサン)の音訳とされる。
 716年ごろ一族とともに唐側に亡命、営州柳城(遼寧(りようねい)省朝陽県)に住んだ。営州は唐の東北前進基地で、諸民族の集まるところであった。禄山は6種の言語を操り、互市牙郎(ごしがろう)(貿易仲買人)を務め、やがて幽州節度使張守珪(ちようしゆけい)の部下となって対契丹(きつたん)戦に活躍、奚(けい)、契丹、室韋(しつい)、靺鞨(まつかつ)など東北諸族の鎮撫(ちんぶ)に手腕を発揮する一方、中央派遣の使臣に贈賄して玄宗の信任を得た。742年平盧(へいろ)節度使に抜擢(ばつてき)され、744年范陽(はんよう)(幽州。現在の北京(ペキン))、751年河東(山西省太原)の両節度使を兼任するに至り、唐の辺防軍全体の3分の1近い大兵力を握った。禄山は宰相李林甫(りりんぽ)をはじめ皇帝側近、とくに後宮の楊貴妃(ようきひ)に取り入って養子にしてもらい、宮廷に食い込んだ。しかし貴妃の族兄楊国忠(ようこくちゆう)が李林甫を追い落として宰相となるや、禄山の勢力を恐れ、謀反の志ありとして帝との離間を謀り、玄宗も疑念を抱くに及んで、禄山は君側の姦(かん)、楊国忠を討つと称して15万の兵を動員した。755年11月挙兵、12月洛陽(らくよう)を落とし、翌年元旦大燕(だいえん)皇帝と称し、聖武の年号をたて、6月には長安を攻め落とし、一時は華北の主要部を制圧した。
 しかしこのころから眼疾で視力が衰え、疽(そ)(悪性腫(はれ)物)を病んで狂躁(きようそう)となり、愛妾(あいしよう)の子慶恩(けいおん)を偏愛したので、不安を感じた太子慶緒(けいしよ)(次子)によって暗殺された。河北地域では数十年後まで人気は衰えず、反乱を引き継いだ史思明(ししめい)とともに、二聖とあがめられるほどであったという。(C)小学館:日本大百科全書より。

 彼も王莽と同じく、皇帝を廃して、自ら皇帝となった人物。

 中国の例はいずれも皇帝を廃位・擁立したり、自らが帝位について政治をほしいままにした人物。そして全員共通しているのは、その支配は長続きしなかったということ。

 では日本の場合はどうだろうか。

5:承平の将門

 平将門。?‐940(天慶3.2.14) 桓武平氏,高望王の孫,鎮守府将軍平良将(または良持)の子。下総北部を本拠とする。935(承平5)ころ伯父国香らと争い,939(天慶2)武蔵・常陸の紛争に介入し,常陸・下野・上野の国府を制圧し,新皇を称し関東各国に国司を任じた(承平・天慶の乱)。翌年2月に下総国幸島で藤原秀郷,平貞盛らに敗死。伝記は「将門記」。のち霊魂が信仰され,神田明神などに祀られる。(岩波日本史辞典より)

 この935〜940という年はどのような時期であったかというと、陽成天皇の不祥事・退位によって生じた皇統の危機を、光孝・宇多・醍醐とあらたな皇統をつくってようやくにして安定したところに、醍醐天皇が8歳の息子朱雀に譲位し、自らは上皇として政務を指揮し、皇統の安定を図ろうとしたが、逆に彼の急死によって、天皇家の家長が不在の中で、わずか8歳の、それゆえ跡継ぎのいない天皇が残されるという、未曾有の危機が生じてしまった。
 このことにより、従来の皇統内部にあったさまざまな皇位継承をめぐる争いが表面化してしまった。すなわち同じ嵯峨・仁明系の中でや、さらには淳和系などさまざまに入り乱れて皇位継承候補者が現れ、争いは泥沼の様相を見せ、ならばこれらの皇族の先祖の天皇の父である桓武天皇の他の皇子の子孫にまで候補を広げてもよいのではないかということになっていった。
 ここに平将門が「新皇」と名乗った意味がある。彼が関東の国司を襲った直接の背景は、叔父や従兄弟たちとの所領争いにおいて、国司が中央の権門貴族と結んだ彼らに有利な裁定を出し、結果として将門が伝来の所領を失ったことがあるであろう。そして国司といえども、中央の権門貴族に奉仕するものへと成り下がり、中央への手づるに欠いた地方のものたちの利益が省みられることがないという政治の「腐敗」への憤りがあったに違いない。しかもこれに皇位継承の争いがからみ、候補者が乱立するに及んで、「桓武天皇の五世の孫」である彼が、皇位継承権を主張して挙兵したというのが、この事件の背景であろう。
 すなわち将門は、皇位継承の争いに参加し、現にある帝を引き摺り下ろそうとしたものとして歴史上に名を轟かせたのである。

6:天慶の純友。

 藤原純友【ふじわらのすみとも】?‐941(天慶4.6.20) 大宰少弐藤原良範の子。932(承平2)ころ伊予掾。936年賊徒首とされ,また海賊追捕の宣旨をうけた。939(天慶2)備前,播磨国司を襲い,伊予国を本拠に瀬戸内海沿岸の各国,大宰府を襲ったが,博多津で敗れ,伊予国で討たれた。(岩波日本史辞典より)

 彼には直接皇位継承の争いに関与する意図はなかたっと思われる。それは彼が国府を襲って占拠した後、朝廷から示された官位を受けていることに示されている。彼は直接皇族の子孫ではないし、藤原氏といってもすでに諸国の受領となった中級貴族にすぎなかったからである。彼が平家物語の冒頭に挙げられたのは、あくまでも将門と対になった承平・天慶の乱の首謀者としてであり、皇位継承の争いに絡んで起きたこの乱の首謀者として歴史に記憶されたに過ぎない。

7:康和の義親。

 源義親【みなもとのよしちか】?‐1108(嘉承3.1.6) 平安末期の武将。義家の嫡男。対馬守在任中の1101(康和3),大宰府に反抗して追討を命ぜられ,翌年隠岐に配流。義家死後の07(嘉承2),出雲に渡って目代以下を殺害したため平正盛に討伐された。しかし,その後も再三生存説が流れた。(岩波日本史辞典より)

 彼が大宰府に反抗して追討された1101年は、1085年に白河天皇が父三条天皇の遺言に違反して、実子のわずか6歳のむすこを天皇に立て(堀河天皇)、自己の直系に皇位を継承させようとしたにもかかわらず、堀河は23歳にもなっても跡継ぎに恵まれず、貴族たちの中に三条天皇の三宮輔仁親王への皇位継承を望む動きが出てきた時である。
 そして義親の父、源義家は、三宮輔仁を推す有力な皇族であり、最強の武力集団の長であった。義親を謀反の罪で追討し隠岐に幽閉したということは、源義家の武力をそぎ、三宮を封じ込める動きであったと思われる。
 そして1107年は、その堀河天皇がわずか5歳の息子を残して死去し、再び皇位継承の争いが起きた年である。この危機に際して白河法皇がとった策は、5歳の孫を即位させ(鳥羽天皇)て院政をしき、それとともに三宮輔仁や彼を支える関白などの有力貴族を失脚させて、ここでも皇位を自己の直系につたえようとした。1107年に義親が配流先の隠岐を脱出して出雲に渡ったのは、三宮輔仁を支える有力貴族で最強の武力集団の長として、白河のとった策を受け入れることができず、あくまでも戦おうとしたからではないだろうか。
 源義親もまた、皇位継承の争いの中で一方の候補者をささえて、時の天皇・一の人に逆らった人物なのである。

8:平治の信頼。

 藤原信頼【ふじわらののぶより】1133‐59(長承2‐平治1.12.27) 平安末期の公卿。忠隆の3男。土佐・武蔵の受領を歴任。保元の乱後,後白河院の寵を得,蔵人頭を経て,1158(保元3)参議,さらに権中納言・右衛門督となり,後白河院庁の別当にも補された。その急激な台頭により藤原信西と対立。翌年12月,近衛大将を望んで信西に阻止されたため,源義朝・藤原成親らと平治の乱を起し信西を殺したが,平清盛の軍に敗れて六条河原で斬殺された。(岩波日本史辞典より)

 問題は保元の乱後の、藤原信西との対立の性格である。
 藤原信西は後鳥羽院の近臣として政治に参画し、妻が後の後白河の乳母であったことから後白河即位に力をつくし、保元の乱後は、事実上の執政として政務の実権を握った。しかし彼は後白河の腹心ではなく、むしろ故鳥羽院の遺言を実行する立場にあったと思われる。
 すなわち鳥羽院は彼の長子である崇徳天皇(実際には彼の祖父である白河院の子なので鳥羽には大叔父にあたる)の系統に皇統を継がせるのではなく、鳥羽院の晩年の寵妃である美福門院の子である近衛天皇の系統に皇統を継がせたかった。しかし彼が子もないまま死去するにおよび、美福門院の猷子であった後白河の長子(後の二条)に継がせようとしてその父である後白河を即位させたわけである(これが保元の乱の原因)。従って信西は、鳥羽院の死後は、鳥羽派の皇族の長であり鳥羽の妻である美福門院に、そしてその死後は、その娘(近衛天皇の同母の妹)である八条院につかえ、鳥羽の意思を継ぐことを使命としていたと思われる。
 つまり彼が執政の臣として仕えたのは、二条天皇なのだ。
 そしてよく知られるように、保元の乱の二年後に15歳で即位した二条は、信西や関白藤原基実や平清盛の協力を得て、父後白河とも対立しながら自分の政治を始めた。これが保元新政であり、その立役者が藤原信西だった。
 保元の乱後に後白河の寵愛を受ける院近臣として台頭した藤原信頼と信西が対立したということは、後白河院と二条天皇の確執があり、しだいに二条天皇を廃して、他の皇子を皇位につけようと動き始めていた後白河の意向を、信頼が呈していたと考えられる。
 したがってこの後起きた平治の乱の原因は、信頼と信西の対立というより、後白河と二条の対立であり、信頼が狙ったのは、二条を支える信西と清盛を排除することで、二条をおろして後白河の他の皇子を皇位につけることであった可能性が強い。
 信頼もまた、皇位継承の争いの中で、一方の候補者に加担し、天皇を廃そうとして敗れた者だったのである。

 このように平家物語が「奢れる者・たけき者」としてあげた人々は皆、皇位継承の争いの中で、現職の王を廃そうとして挙兵し敗れたものたちだったのである。

清盛の「悪行」の真実は:一の人に逆らったこと!

 ということはすなわち、これらの人々が、「奢れる心も、たけきこと」も、前の太政大臣平清盛には遠く及ばないと平家物語が語っているということは、清盛もまた、皇位継承の争いの中で、一方の候補者を支えて、現職の天皇・一の人に逆らうという「悪行」をした人物であるということを暗示しているのであり、その栄華も、彼が支えた天皇・一の人あってのものだということを暗示しているのであろう。
 平家物語は、冒頭の「祇園精舎」の一句においてすでに、その主題を明確に提示していたのだ。それは、奢れるものもたけきものも皆滅ぶという「無常観」を提示するかに見えて、平家がなぜ栄え、そしてなぜ滅びたのかを皇位継承戦争とのからみで解き明かすものだったのである。だからこそこの物語がその物語の時代である治承・寿永の年号を冠するのではなく、「平家物語」と呼ばれた理由であろう。