殿下乗合

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▼主な登場人物

◆平資盛:保元3(1158)〜文治1.3.24(1185.4.25)。平重盛の次男(嫡子)。母は二条院内侍であった藤原親盛の娘、少輔掌侍。8歳で従五位下越前守となり、侍従、右近衛権少将、権中将を経て、寿永2(1183)年に蔵人頭となり、従三位に叙せられ公卿となる(25歳)。殿下乗合の事件当時は13歳。

◆藤原基房:久安1(1145)〜寛喜2.12.28(1231.2.1)。摂政・関白藤原忠通の次男。保元1(1156)年に元服して正五位下となり、翌年に従三位・権中納言(12歳)、永暦1(1160)年に権大納言から内大臣に、長寛2(1164)年左大臣に上る(19歳)。仁安1(1166)年異母兄基実が24歳で亡くなると、その嫡子基通が幼かったため、摂政・氏長者となる。時に22歳。

 <物語のあらすじ> 

 嘉応2年1016日(11701125日)、参内途中の摂政松殿(藤原基房)の行列と野狩の帰途の平資盛の一行が出合い頭にぶつかる。若い資盛一行は下馬もせず行列を駆けやぶって通り抜けようとしたので、摂政のお供の人々が彼らを馬より引きずりおろし散々に打擲した。事件の報告を受けた清盛は、「我が孫と知ったならば手加減すべきところを」と怒り、難波・瀬尾ら腹心の武士たち60余人を召して、来る21日に摂政は、来年の帝元服のための打ち合わせに参内するから、これを待ち伏せて摂政の行列の前駆・随人どもの髻(もとどり)を切り落とし、資盛の恥をすすげと命令。当日行列を待ち伏せた300余騎が行列を取り囲み、随人たちに暴力をふるって髻を切り落とし、さらには摂政の牛車に弓の筈(はず)を突き入れたりすだれを引きちぎったりと狼藉を働いた。事態を知った重盛は、この襲撃に加担した侍たちを皆勘当し、さらに重盛の子でありながら礼儀も弁えなかった資盛にそもそもの原因ありとして、領国伊勢にしばらく謹慎させた。 

 <聞きどころ>

  とても曲節の変化に富んだ美しい句である。口説・拾・折声・呂・中音・三重などの曲節のそれぞれの表現上の役割がよく見て取れる。

 <参考>

史実は、九条兼実の日記「玉葉」や鎌倉時代の歴史書「百錬抄」によると、六波羅を女車に乗って出た資盛一行と法勝寺での院主催の法華八講に参加しての帰途の摂政の一行が出合い頭にぶつかり、牛車を下りない資盛らが礼儀を失したとして打擲された事件。起きたのは嘉応2年7月3日(1170823日)。相手が重盛嫡子であることを知った摂政基房は重盛に謝罪の使いを送ったが重盛は使者を追い返す。重盛の報復を恐れた基房は随人たちを勘当し、直接暴力をふるったものを検非違使に引き渡すなど謹慎の態度を取った。しかし重盛は許さず報復を計画。計画を知った基房は館に閉じこもったが、帝元服の打ち合わせに参内しないわけにはいかず、1021日に参内したところを待ち伏せにあって前駆5名が馬から引き落とされ、4人が髻を切られ、基房の参内は中止となった。その後両者は和解し帝元服の取り決めも無事終わったあと、基房は摂政から太政大臣となるが、この措置は清盛がとったことと言われている。

平家物語の異本の一つの「源平盛衰記」は資盛が野狩りの帰途と変更したことは同じだが、日時は史実通りの嘉応273日で、法勝寺からの帰途の摂政一行と資盛一行がぶつかった場所は三条京極だと史実に沿った記述になっている(院が平家出世を異例と嘆いたとの記述や清盛が報復した書き方は、「源平盛衰記」も平家態度の「延慶本平家」も「覚一本平家」と同じだが)。

「覚一本平家物語」はこれを、野狩帰りの資盛が参内途中の摂政の行列に無礼を働いたこととして、事件の日時も衝突の場所も動かし、さらに事件と報復事件の間には三カ月以上の間があったのを3日間と直近の事件であったことにし、さらに報復事件の首謀者を重盛であったのを清盛に書き換え、随人を勘当したのを基房から重盛へと書き換えた。

すなわち、平家物語は当初から、事件の日時設定にはさまざまあるが、物語冒頭に院も平家の出世は異例だと嘆いたという一節を挿入し、こうすることで偶発的に起きた事件を院と平家との対立の中で起きた平家横暴の始まりとし、その首謀者を清盛として清盛の悪行の一つとして数え上げ、摂関家との調停者に重盛を置くことで、物語の枠組みにあうように事件を改変したのではないか。実際にはこの時期にはまだ平氏と後白河院との対立は起きていなかった。

そして武門平氏は高倉帝の縁戚にすぎず、実際の外戚の平時忠も家格が低いため立太子に伴って参議に登った中級貴族。高倉即位当時は人事に口を出せる状態にはない。時忠が人事に口をだせるようになったのは、清盛の娘徳子が高倉帝の男子(言仁親王)をうみ、彼が立太子し、さらに即位(治承4・11802月)して(安徳帝)から。平氏が安徳帝を抱えて都落ちした寿永2年(1183年)当時でさえ、やっと権大納言にすぎない。

平氏の横暴は、「清水寺炎上」や「殿下乗合」事件当時のことではありえない。この当時の平氏は、縁戚関係を結んだ摂関家に自己の利害の代弁をしてもらう状態。この状態で摂政の行列を襲うなど、自殺行為だ。この当時平氏が(清盛や時忠が)人事のすべてを握って万事を動かしたという平家物語の設定は、物語の仮構にすぎない。

実際重盛が激怒した背景には、重盛の母が、当時の摂政藤原忠実が右近将監高階基章の妻に生ませた子であり、摂政基房と重盛は共に忠実の孫にあたる可能性が高いという事実から、重盛の摂関家への屈折した心があったのではないかと言われている(高橋昌明著『平家の群像』岩波新書)。

平家物語の「清水寺炎上」と「殿下乗合」での語りは、ずっと後(10年以上あと)の安徳即位後のことを高倉即位の時代に遡って記述し、平家の横暴は高倉即位の時点からあり、院や摂関家とも対立していたかのように物語を作ったのである。

 

★では、後白河院と平氏一門との対立の真の始まりはいつであったのか?

 このヒントは、次の句「鹿谷(ししのたに)」で仄めかされている。

★補足訂正 23.10.8

 11月の平曲会で「鵜川合戦」「願立」を語るために、この安元白山事件と言われるものの、物語と史実の関係を調べていたところ、「殿下乗合」事件に際して、摂政側に報復を仕組んだのが、「平家物語」の記した平清盛でなく実際は平重盛であるという歴史学の方の通説は、元史料の誤解に基づいているという理解が、歴史学の方から出されていることに気が付いた。

 それによれば「殿下乗合」についての確実な史料である「玉葉」の記述は、
@相手が重盛子息であることに気付いた摂政が、乱暴狼藉を働いた配下の者を引き具した上で重盛の所に使者を立てたところ、重盛は「法に従って処置せよ」とこれを返した、と記述されたのを従来の読みは、重盛が怒って突っ返したと理解したがこれは誤り⇒正しくは、当時の通例では、犯罪を犯した側が被害者の方に下手人を伴って訪問し処分を申出、被害者側はそれを自裁するのではなく、法に任せて(=検非違使に引き渡せ)と下手人を戻す慣例になっている。つまり重盛は冷静に慣例に従って行動した。
A重盛が殿下乗合で鬱々としている(=怒っている)との噂が流れたので摂政殿は下手人を検非違使に渡すとともに、共にいた随身たちを勘当したと、玉葉の記事を従来は理解したがこれも誤り⇒正しくは、下手人を検非違使に渡し、その場にいた随身たちを勘当にするのも、当時の慣例に従った法による措置である。また「玉葉」の記事では、「重盛が鬱々としている」という噂と、摂政殿が随身と下手人を処罰したとの記事とは繋がっておらず、並置された関係。つまり重盛の鬱と下手人の処分とは無関係。
B参内する摂政一行を多数の武士が襲って報復したとの「玉葉」の記事には、その報復の主体が書かれていない。噂は多数流れているがと記すのみ⇒したがって報復の主体が重盛であるとの従来の理解は誤り。

 と理解すべきだとしている。
 さらにここで出てくる「重盛の鬱」の実態を明らかにする史料は存在しないが、可能性としては
@この事件は平氏の随身武士たちと摂政家の随身武士たちの争いなので、重盛も摂政も法に従って冷静に処置したが、この処置に満足しない平家の随身武士たちが摂政家に報復を画策しており、それを知った重盛が、天皇元服を控えた大事な時期に摂政家と事を構えるのは不都合と判断し、どう対処するか悩んでいた可能性。
A冷静な法に従った処置に不満をもって摂政に報復をと平清盛が画策していることを知った重盛が、どう対処するか悩んだ可能性。
 の二つが考えられるが、摂政は清盛の推薦でなったのであり、後白河と平氏との関係も、平氏と摂政との関係の良好なこの時期に、わざわざ清盛が報復するとは考えられず、またもし報復の主体が、重盛や清盛であったなら、平家と摂政家の関係がぎくしゃくするわけなのに、その痕跡もないので、報復事件を清盛が画策したとの「平家物語」の理解も無理があるし、従来の歴史学の報復事件を重盛が画策したとの理解もまた無理がある。

 考えられる真実は、そもそも「殿下乗合」事件そのものが偶発的な事件なので、当事者は法に従って穏便に処置したが、それに納得いかなかった平家の侍たちが暴走して報復したというのがありうるものである。
 だからこそ報復事件が起きたにも関わらず、平家と摂政家との関係はその後も緊密であり、おそらく「平家物語」で重盛が報復事件に関わった武士たちを勘当したと記したように、暴走した平家の武士たちを勘当することで、報復事件も穏便に処理されたのだろうと。

 ※参考資料:「殿下乗合事件―平重盛の名誉回復」(曽我良成著『物語がつくった奢れる平家‐貴族日記にみる平家の実像』:2017年臨川書店刊 所収)

 以上のように理解すると、「平家物語」で清盛が朝家を無視して乱暴狼藉を働く人物で、重盛がその間にたって調停しことを穏便に済ませようとした人物との設定に基づいて、「殿下乗合」事件の報復主体が重盛であったことを裏返して作られたと理解されていたが、そうではなく、この物語の設定そのものが、偶発的に起きた「殿下乗合」事件での重盛の冷静な対応を取ったことをヒントにして作られた仮構である、との理解が成り立つと思われる。