鵜川合戦

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▼主な登場人物

●西光:?1177 俗名藤原師光、麻植大宮司家(麻植郡忌部神社祠官)の麻植為光の子。もとは阿波国(徳島県)の在庁官人。のち に中御門藤原家成の養子となり、乳母子であった信西(藤原通憲)に仕え、彼の推挙で、院北面の武士となり左衛門尉に至る。平治の乱での信西死去に伴い出家するも、以後も院の倉預を勤め、後白河法皇第一の近臣と称された。

●近藤師高:?−1177 西光の子。五位・検非違使尉から、父・西光の引き立てで安元元年(1175年)1229日に加賀守となるが、弟・師経を目代として派遣し自身は遙任。目代師経が比叡山末寺白山泉涌寺と紛争を起こしたため、師高は尾張に流罪、目代師経は禁獄、のち備前国へ流罪となる。父西光の讒訴により天台座主明雲を流罪とするなど画策し、その罪を問われて捕縛斬首されたため、同年6月に師高も討たれた。

●近藤師経:?−1177 西光の子。安元3年加賀目代であった師経は比叡山末寺白山泉涌寺と紛争を起こし備後に流罪となる。父西光が天台座主明雲讒言の罪を問われて斬首されたため師経は弟の師平らとともに捕らえられ、六条河原で斬られた。

 <物語のあらすじ>  

西光法師の子の師高が加賀守となって以後国内の寺社権門の荘園整理を行っていたが、その目代として加賀に入った、弟の師経が、国府近くの白山末寺鵜河寺と騒動を起こした。きっかけは僧侶が湯を沸かし浴びていたところに押し入って、吾身郎等はいうに及ばず馬にまで湯を浴びさせてしまったこと。寺側は不入の権を盾に抗議し目代の処罰を要求したが国府側は受け入れず、ついに合戦に及び、鵜河寺を一宇も残さず焼き払ってしまった。ここに白山三社八院の大衆が蜂起し目代の屋形を囲んだところ、かなわじと思った目代は夜陰に紛れて館を抜け出し、京に逃げ上ってしまった。白山大衆は白山中宮の神輿を担ぎ本山の比叡山に登った。

 

<聞きどころ>

「鵜川合戦」は二つの段に分かれる。前半は「鹿谷」の続きで、俊寛僧都の出自、大納言成親が蜂起に備えて多田行綱に弓袋にと白布を与えた話、そして首謀者の一人西光の出自である北面の武士の由来を語り、この時代の北面の武士は公卿・殿上人をも物ともしない者が多く北面から殿上人に出家するものすらいたことを紹介し、だから元北面武士の西光が平家打倒の企てにくわわったのだと推測を述べる。ここまでを「口説」⇒「素声」でさらっと語ってしまう。

 二段目が西光法師のことで、西光の履歴を述べたあと、彼の息子の加賀守師高が白山−比叡山と衝突した次第を語り、鹿ケ谷事件に西光が関わった背景の始めの部分を語る。ここは西光の履歴は「口説」でさらっと語ったあと、その息子師高が加賀守に経上がるところを「強下」でおどろおどろしく語り、彼が国司として荘園整理に踏み込み権門寺社と衝突する様を「中音」でろうろうと語る。そして目代師経が白山末寺鵜川寺と衝突する様は、「口説」でさらっと語ったあと、「強下」を経て「強声」で、これまでの目代とは異なると凄みを効かせた様をおどろおどろしく語る。そして目代が鵜川寺を焼き討ちし白山と激突するさまは、「口説」でさらっと入ったあと、「強下」を経て「拾」で鵜川寺焼き討ちの次第を語り、怒った白山大衆が目代館を囲んだところは、「三重」で朗々と語った後、叶わじと思った目代が夜逃げして京に逃げ、それを追った白山大衆は白山中宮の神輿を担いで上洛し比叡山に神輿を担ぎ上げるまでを「拾」の「上音」「下音」を駆使して、さらっとかつ テンポよく歌い上げる。

 

 <参考>

 

 「鵜川合戦」は実際に起きた「安元白山事件」と呼ばれる、加賀国司・目代と叡山末寺白山との対立事件を下敷きにして語られているが、史実とは大いに異なるところがある。

 「平家物語」では対立のきっかけは白山末寺の鵜川寺の僧侶が湯を沸かし行水していたところに目代一行が乱入したことをあげているが、当時の公家の日記(左大臣九条兼実の「玉葉」など)でわかることは、「目代が、白山神領在家を焼き払い、そこにあった大津神人の2千余石の米を横領した」(神祇伯「顕広王記」)であった。つまり白山末寺の涌泉寺住侶で大津神人であったものが在家に蓄えていた、叡山山王社に納めるべき2千余石の米を、加賀目代が襲って横領した上で在家に火を懸けたというものだ。背景から考えるとこれは、目代が白山神領に本来あるべきではない税金を掛けてきたのを白山が拒否したことに対して、末寺在家を襲って財物を横領して税の代わりとし、懲罰として在家に火を懸けたということなのだ。

 これが対立の切っ掛けならば根本原因は、「平家物語」が「鵜川合戦」冒頭に、「国司師高が神社・仏寺・権門・勢家の庄領を没頭し」と記したことに関わる出来事であったことが明白だ。

 しかし「平家物語」はこの根本背景をあいまいにし、白山領在家焼き討ちと財物横領を記さず、単なる目代の乱暴事件に矮小化して、白山末寺鵜川寺の僧の沐浴に目代一行が乱入したことを切っ掛けとして目代と白山が対立し、その結果鵜川寺が焼き討ちあったと、してしまった。

 このため次の「願立」で末寺白山大衆の訴えを受けた叡山大衆が朝廷に対して、国司師高の流罪と目代師経の禁獄を要求したことの意味が矮小化され、さらにこの要求が請け入れられないと見るや、御輿

担いで朝廷に強訴し、これに対して朝廷は源平の諸将に命じて諸門を固めさせ、そのなかで平重盛の軍勢が放った矢が御輿に突き立ったばかりか、多くの神人が射殺されるという大事件(「御輿振」)に至るという一大事件にまで発展した背景がわからなくなってしまったのだ(曽我良成著「安元白山事件をめぐる『史実』と「物語」の間」広島大学刊「史人」6号 201512月 参照)。