願立

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▼主な登場人物 

●藤原師通:10621099 通称後二条関白。摂政・関白師実と源師房の娘従一位麗子の子。嘉保1(1094)年父から関白を譲られる。剛直な性格で、白河上皇が受領を近臣として重用し、政治を専断することに批判的であったとされる。また同2年の延暦寺衆徒の強訴に毅然とした態度で対応したため、死後山王の祟りによるとのうわさが流れた。

●源麗子:10401114 村上源氏源師房の娘。摂政藤原師実の妻。京極北政所と称される。白河中宮賢子入内のとき、その養母として従三位に叙され、のち従一位

●源義綱:?−1134 源義家の同母弟。白河院政に批判的で摂関家とともに三宮を指示した義家に代って朝廷に重用される。寛治5(1091)年陸奥守、嘉保2(1095)年美濃守。美濃国内で延暦寺僧徒を追捕して強訴を受け、このとき義綱を庇護した関白藤原師通が康和1(1099)年に死去したため以後不振。天仁2(1109)年、子の義明が源義忠暗殺の嫌疑で殺害されたのに怒り出京したが追捕され、義弘以下4人の子は自殺、自身は佐渡に配流となり、帰京後自殺したとされる。

●源頼治:?−? 大和源氏源頼俊の子。通称は宇野冠者。嘉保2年(1095年)に延暦寺の僧兵が源義綱の配流を要求して強訴を起こした際に、関白藤原師通の命により賀茂川原の守備に就き、これを撃退する。しかしその際、頼治の手勢が日吉神社の神人や僧侶を射た。承徳3年(1099年)には、師通が38歳にして急死。これを神罰と恐れた朝廷は、ついに頼治を処罰することを決断し、佐渡国(一説には土佐国)への配流とした。長治2年(1105)許された。

<物語のあらすじ> 

 白山中宮の神輿を迎えた叡山大衆は国司加賀守師高を流罪、目代師経の禁獄を朝廷に訴えたが、公卿会議は結論を出さなかった。山門の大衆は「これまで多くの重臣が山門の訴訟によって流罪となった。師高ごときが許されようか」と気勢を上げた。そもそも山門が訴訟に及んだ最初は、嘉保二年三月に美濃守源義綱が山門の僧円応を殺害したことに山門が抗議し、御所の陣頭に押し掛けて訴訟に及んだのが最初だ。このとき後二条関白殿は大和源氏源頼春勢に御所を守らせ、頼春勢に矢を射かけられた山門側は多数の死傷者を出し、山に逃げ帰った。山門側は山王七社の神輿を根本中堂に振り上げ、大般若経を七日間読んで後二条関白を呪詛した。この呪詛の故か後二条関白は病に臥せってしまった。関白殿の母・関白師実の妻はいやしき下郎に姿をやつして日吉社に七日七夜参籠し、様々なお礼を挙げ、さらに心中密かに三つの願を立てて、関白殿の平癒を祈願した。願立の最後の夜、山王権現がその巫女に乗り移ってご託宣を述べた。大殿の妻の願いは三つ、一つは関白殿の病気平癒、これが成れば参籠人に交じって一千日の間お仕えする、二つは大宮権現の橋殿から八王子の社まで回廊を作る、三つは関白殿の命を助けて頂ければ、八王子の社にて法華問答講を毎日絶えることなく行うというもの。この母の願いにこたえて三年の間命を伸ばしてやろうというのがご託宣であった。このご託宣どうりに関白殿の病は平癒し、その三年後、38歳にして亡くなられた。慈悲の心をもった山王権現の力はこのようなものである。

<聞きどころ>

「願立」も二つの段に分かれる。前半は「鵜川合戦」の続きで叡山衆徒は白山神輿を迎え入れ、叡山七社の神人も多数加わって気勢をあげ、朝廷に加賀守師高の流罪と目代師経の禁獄を要求したが朝廷は裁断を下さなかったので、ますます山門の大衆は意気軒高となった様を語る。ここは「口説」⇒「素声」⇒「口説」⇒「初重」とたんたんと語り、最後に「指声」で加茂川の水・双六の賽・山法師はわが心に叶わぬものと白河院が言ったと、凄みを加えて前半の語りを終える。

 後半は、叡山が朝廷に強訴した最初の事件を語り、その中武士を使って武力で撃退したので呪詛された後二条関白が病となり、その母が山王権現に願を立ててその病気平癒と命乞いをした話を使って、山王権現の神威の大きさを誇った部分。

 ここも全体としては「口説」⇒「素声」を多用して淡々と物語を進めるのだが、山門の勢が武力で撃退され、関白殿を呪詛し、それが叶って関白殿が病となる部分を「折声」⇒「中音」でおどろおどろしくかつ朗々と歌い上げ、関白の母が参籠する部分は「口説」で淡々と話を進めながら、その願いにこたえて山王権現が示現し託宣を述べる部分は、「折声」⇒「指声」⇒「中音」の曲節を駆使して、ここもおどろおどろしくかつ朗々と歌い上げる。その中でも山王権現が神人や神官に放たれた矢は我が身に刺さったも同じと述べ、左のわきの下に刺さったと見せる場面も「中音」で朗々と語るところが興味深い。そして最後に母の願立が叶って関白殿が病気平癒するが、山王権現のご託宣の通りに三年後には若くして死すという山王権現の神威を見せつける場面は、「三重」⇒「初重」⇒「中音」⇒「初重」と次々と音域を変えながらも朗々と語り終える。

 

 <参考>

 この話の中心は、嘉保二年(10953月の山門強訴事件を取り上げ、如何に山王権現の霊験があらたかであるかを説いたもの。これも実際の事件を下敷きにしてはいるが、史実と物語とはかなり異なる。

「平家物語」では美濃守源義綱が叡山の新立の荘園を倒して、荘園管理のために美濃国に下っていた円応を殺したと事件の発端を語るが、ここからして事実と異なり山門側に有利に歪めている。

 事件を詳しく記したのは中御門右大臣藤原宗忠の日記「中右記」。これによると、ことの起こりは美濃国司源義綱が荘園管理のために美濃国に下った叡山寺僧を朝廷に訴えたところに始まる。要は山門寺僧が非道な手段を行使して周辺の公領を山門の荘園に組み込んだことにあり、これを国司が朝廷に訴えたわけだ。これ対して朝廷は延暦寺に事情説明を求めたが山門は「関知せず」と無回答。このため朝廷は、山門寺僧を公領侵害の罪で追討宣旨を出し、この朝廷の指示に従った国司源義綱と寺僧らが合戦となり、。抵抗する者を搦めとり、或いは射殺した。この射殺された寺僧の中に円応がいたということなのだ。

 事件はこうして落着し、後に捕縛された寺僧らは非常の恩赦で釈放されたが、山門側が事を蒸し返して「円応を殺害した源義綱の流罪」を求め、大勢で朝廷に押し掛けたというのが事実だ。山門の訴えの方が違法であり、強訴に対して朝廷が武士に命じてこれを防がせるのは当然のことである。

 そしてこの際山門の強訴を防いだ源頼治軍勢が山門の勢に矢を放ち、多くの者が射殺され傷つけられたが、多分に事故と思われ、源頼治が悪いわけではない。したがって敗れて山に逃げ帰った大衆らが御輿を根本中堂に挙げて、武士を指揮した後二条関白の呪詛を図ったこと自体が、逆恨みの行為なのだ。

 さらに後二条関白の死因は、公家の日記などの記録には「病」とあるだけで死因は不明。

記録によれば発病は承徳三年(1099621日前後、その後急速に悪化し、25日には辞表を提出せざるを得ないところまで進行。そして628日に38歳で死去したことがわかる。発病から死去までに時間がないことから、この時に後二条関白の父や母が山王社に参篭して病気平癒を祈願したとも考えられない。

この「願立」の話は「延慶本平家」でも「源平盛衰記」でも、後の語りの譜本である「覚一本平家」でも同じ内容なので、関白母の願立の話自体が、後二条関白殿の死を山王権現の神罰と捉えた山王社関係者が作った創作で、「平家物語」がこれを採用したと考えられる。

つまり、後二条関白殿は何らかの病気で急死したのだが、これを山門側が都合の良いように解釈して山王権現の御霊験と吹聴し、ことをそのように理解した朝廷が山門強訴を阻止して矢を放って寺僧や神人を傷つけた源頼治を流罪にしてしまったからことは余計に混乱した。これ以後朝廷は山門の強訴に対して、神罰を怖れて強い措置がとれなくなったのだ。

 「平家物語」「願立」の記述は、「安元白山事件」でも、まさしく山門には非はなく、山門の神領を奪い取る朝廷の方こそ間違いであり、神罰も恐れずに矢を射かけてくる武士こそ非道だとの立場で書かれているのだ。この場合はこの立場は正しい。

なお先にも見たように、この嘉保2年(1095)の強訴では御輿を担いで朝廷の陣頭に押し掛けたわけではなく、訴状を掲げた寺僧や神官・神人らが陣頭に押しかけ、これに矢を射かけられて多くのものが射殺されたり怪我をした。そこで叡山大衆は神輿を根本中堂に振り上げて関白殿を呪詛したのがこの時の実際の事件だ。

これに対して「鵜川合戦」以後で語られる安元2(1176)年安元3(1177)年の「安元白山事件」での叡山強訴は、最初に訴状を陣頭に提出してもらちが明かないので(「願立」冒頭)、今度は大勢の大衆や寺僧・神官・神人らが御輿を担いで陣頭に押し掛け、あくまでも山王権現の神霊の力に頼って、加賀国司の流罪と目代の禁獄を朝廷に押し付けようとした。これを朝廷は武士を以て阻止させ、この際に平重盛の軍勢が射た矢が神輿に突き刺さり、大勢の者が射殺され傷つけられた(「御輿振」)というのが実際の事件だ。

「嘉保美濃事件」と「安元白山事件」とでは、強訴の背景も異なり、前者は強訴の神人・寺僧が射られただけで、後者はこれに伴い御輿に矢が突き立ったとい違いがあるのに、今度も嘉保2年の強訴の時と同じように山王権現の怒りに触れるぞと脅したという話にしたので、嘉保二年の事件のときに、神人や神官・寺僧に突き立った矢は、山王権現に突き立ったも同じ(=御輿に矢が突き立った)との強引なこじ付けをするしかなかったのだ。(早川 厚一, 曽我 良成ら共著「『源平盛衰記』全釈12−巻4−2」名古屋学院大学論集第53巻第2号所収 2017年刊 を参照)。

 

★資料:★叡山強訴の歴史(部分)(衣川仁著「強訴考」(2002年京都大学の史林85巻第5号掲載)による)

叡山による強訴で

1:神輿動座の最初=嘉保2年10月(1095)の事件 ⇒根本中堂に!

2:神輿が山を下りた最初=@長治21月(1105)の事件⇒陣頭に!

 ※ここから神輿を担いで朝廷への強訴が頻発

A    長治28月 陽明門へ

B    長治210月 陽明門へ 検非違使武士阻止 八幡宮神人を切ったり損じたり

C    嘉承3年3月(1108) 西坂本 検非違使武士が阻止僧綱制止  

D    天永4年4月(1113) 院の陣頭 武士派遣 座主阻止

E    永久1年9月(1113) 祇園へ 検非違使派遣

F    保安4年7月(1123) 西坂本? 武士(忠盛・為義ら)派遣 神輿を捨てて退散

G    久安36月(1147) 院へ 検非違使(光保・為義)派遣

H    永暦110月(1160) 院陣頭へ 

I    嘉応112月(1169) 内裏へ 検非違使派遣 御輿棄て置き

J    安元33月(1177)陣頭へ  武士派遣 神輿に流れ矢 御輿振棄て    

 ※延暦寺強訴の始め=天元412月(981) 訴状をもった寺僧・神官が陣頭を訪れるもの

    大衆・神人(どちらも武装集団)が主導権を持つと共に大勢で武装して、と変化。

  武士阻止の始め=長暦32月(1039

 ※白河院政10861129 神輿動座事件嘉保+@〜F 

白河院政期に神輿動座強訴が頻発した理由は?=武力で皇位を簒奪した白河朝

    強訴の神人・僧が武士に射かけられ殺された最初=嘉保210月の事件

       ※強訴での神輿動座の始まり、しかも3年後に朝廷責任者後二条関白が病死したので

山王権現の神罰と!!!延暦寺・日枝社側は主張!!

    強訴の神輿に矢が突き立った最初=安元元年3月の事件

 ※二つの強訴が特別視された理由はこれだ!!!