神輿振

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▼主な登場人物 

◆平重盛:保延4(1138)〜治承3729(1179.9.2)。清盛の長男で母は高階基章の娘。平氏の政界進出とともに順調に出世し、長寛1(1163)年には後白河上皇の蓮華王院造営の賞により公卿に列した。このころから後白河上皇の近臣となり、仁安2(1167)年には権大納言に出世するとともに、東国・西国の山賊・海賊追討を命じられた。これは諸国の軍事権を平氏が手中にしたことを意味し、その後の重盛は平氏の家督と院の近臣との立場にあって政界に重きをなした。安元元年(1175年)1128日大納言。右近衛大将も兼任。安元3年(1177年)35日内大臣。左近衛大将も兼任。安元36月の後白河近臣の死罪・遠流にともない、遠流⇒死罪となった大納言成親の妹を正室、息子維盛・清経の妻が成親の娘という親密な関係を持っていたため、重盛の政界での地位は揺らぐ。治承3年(11793月には病のため内大臣を辞任し、729日死去。享年42

◆源頼政:1104(長治元)−1180.6.20(治承4年526日)。父は仲政(仲正)、母は藤原友実の女。白河院以来、朝廷に仕え兵庫頭・従三位に至る。官途の始まりは、保延2年(1136年)蔵人に補任、その後従五位下に叙位した後、仁平3年(1153年)3月美福門院昇殿を許される。久寿2年(1155年)兵庫頭に任官。摂津源氏渡辺党を率いて、保元の乱には天皇方に属して功あり、平治の乱では、当初はに二条支持の立場から藤原信頼方に参じたが、二条支持派が信頼と対立し二条が御所を脱出し六波羅に移った後は、信頼打倒の立場の平氏方に属した。平氏政権下で右京権大夫となり、宮廷・京都の警衛に任じ、治承2年(1178年)1224日、従三位に至り内昇殿を許された。しかし1180年(治承4)後白河上皇の皇子以仁王を奉じて平氏打倒の兵をあげたが、平氏に討たれて526日宇治平等院で戦死した。76歳。頼政は射芸の達人として名があり、また和歌において当時の第一流に属し、今日に『源三位頼政集』を伝えるほか、多数の和歌を残している。

<物語のあらすじ>

加賀国司と目代の処罰を求めた山門の大衆は、朝廷が何の処分も明らかにしないので、安元3年413日の早朝、十禅師・客人・八王子の三社の神輿を飾り立てて内裏の陣頭(諸門の前)に振り立てた。その北門を固めた源頼政勢はわずか300余騎と無勢だったのでここを押し破ろうとすると、頼政は馬より降り甲を脱いで御輿を拝し奉り、使者を立てて、「山門の訴訟こそ道理に適っており朝廷が御成敗を明らかにしないことを残念に思う。しかし御輿を通しては宣旨に違反し、それを防げば年来山王権現を信奉して来た吾身は佛罰によって武士を捨てざるを得ません。また無勢の陣を押し破っては京童に弱みにつけこんでと笑われましょう。東の陣は小松殿が大勢で守られているのでこちらを攻めてください」と申し入れた。山門大衆はこの申し入れを詮議し、尤もなりと決し、東の待賢門を押し破ろうとすると、武士共は散々に矢を射て、十禅師の御輿にも多数の矢が立ち、神人・宮仕えも多数射殺され、衆徒も多数怪我を負い、大衆は御輿を振り捨てて山に逃げ帰ってしまった。

 

<聞きどころ>

「御輿振」 は短いが、曲節の変化に富んだ美しい句。冒頭山門の御輿が山を下り朝廷の陣頭に達するまでは、「口説」で始めてすぐさま「陣頭に振り下げ奉て」と「強下」に移っておどろおどろしく語り、そのまま「拾」で陣頭までの経路を語り、「呂」「上音」「下音」を駆使して、源平の武士たちがどの門を固めているかを語り、北門を護る源頼政勢は300余騎と無勢なのでここを押し破ろうと一気に語り終える。そして「素声」で大衆がここを押し破らんと決して門前に迫ったところ、源頼政が御輿を拝み使者を立てたと一息に語り、そこから使者の渡邊長七唱の口上を「口説」⇒「強下」⇒「折声」⇒「口説」と様々に曲折を駆使して語り終える。唱の弁に山門の大衆らは一時動揺したが再度この門を踏み破るべしと決しかけたところに三塔一の詮議者・摂津の堅者豪雲が進み出でて頼政の申し入れこそしかるべきもので、頼政は源氏の正統で世に聞こえた歌詠みだと説法する場面は、「口説」で淡々と語り、その中に頼政の歌を一首「上歌」で朗々と詠んだあと、突然節が「呂」⇒「下音」⇒「上音」へと変化し、衆議が決して東の待賢門を押し破ることとなり、その勢を守備の武士たちが矢を射かけて追い返すさまを、軽快に語って終わる。

 

 <参考>

 

この話は、実際に安元3413日に起きた、比叡山延暦寺の僧徒らによる、加賀国の叡山荘園を乗っ取ろうとした加賀国司師高とその目代師経の処罰を要求して、多数の神輿を押し立てての朝廷強訴を題材にした話。史実に基づいての記述だが、実際とは少し異なる。

 史実と異なる第一点は、「平家物語」では押し掛けたのが内裏となっているが、当時高倉天皇はその東にある里内裏・閑院殿にいて、実際に山門大衆らが押しかけたのはこの里内裏。

 史実と異なる第二点は、「平家物語」では平家諸将、重盛・宗盛兄弟と頼盛・経盛らが内裏の東と西南の門を守護していたとしているが、史料で確認できるのは、里内裏の東門を守護していた重盛だけで、他の諸将については確認できない。例えば経盛であるが、内裏につめて神鏡を護っていたことは、玉葉安元3年4月19日の天皇法住寺行幸の様を述べた箇所に見られる。神鏡の法住寺渡御が決まったあと法皇の命で平経盛にこれを警護させることになったが、さまざま命令の文書の容易に手間取って数刻かかり、最後はその場に右大将(平宗盛)がいて「経盛は一所(内裏)にいるべきだと入道が申している」と言上したので、経盛が神鏡を警固して内裏から法住寺殿に参ることは中止されたと。
 この記事からわかることは、西南の門を守護していたとされる経盛は内裏で神鏡を守護していたのであり、同じく西南の門を守護していたという宗盛もまた院の御所法住寺に居たことがわかる。そして更に興味深いことは、この天皇法住寺行幸や、そもそもの朝廷(後白河)と延暦寺との対立に対して、平家総帥である平清盛が不同意の立場にいたことが察せられて興味深い。

 

 史実と異なる第三点は、「平家物語」では、大衆は当初は源頼政が守る北門を攻めようとしたが頼政に説得されて、押し掛け先を平重盛が守る東門に替えて突入したとしているが、公家の日記など当時の史料による限り、源頼政はこのとき里内裏を守護する勢には加わっておらず、したがって無勢を理由に攻め破られそうになって頼政が大衆を説得して重盛の護る東門に替えさせたという話自体が「平家物語」の創作である。頼政の見事な対応と、大衆らに矢を射かけてしまい結果として神輿に矢が当たり、これが原因となって結局大衆の要求を朝廷が入れざるを得なくなった重盛の稚拙な対応を対比して、頼政を称揚しようとの意図からの創作であろうか。

創作の根拠の一つが、九条兼実がこの事件を日記に記録した安元3419日の条に、今回の神輿に矢を放ったことは「武士の不覚」であり、嘉応元年の強訴では建春門(左衛門)を頼政が守護していた所に大衆が押しかけて神輿を据えたが、今回の「万分の一」の軍勢で防禦に当たったが狼藉に至ることはなかったと、兼実は記述し、頼政の対応を褒めたたえていること。

さらに創作の根拠の第二は、同じく兼実の日記の安元3523日の条に、この日伊豆に配流が決まった前天台座主が途中の瀬田の辺りで叡山大衆に奪い返されたことを書き、そのあとに、頼政のことを記述したことが創作の第二の根拠か?

この玉葉安元3523日の条には、頼政朝臣は伊豆国を知行しているので前座主伊豆下向に際しては国兵士をつけるべしとの命を受けながら、山僧の濫行を怖れて、守護すべしとの仰せを受けなかった。そして代りに異形の姿をした郎等二人を派遣したが、これは奪取されることを存じながらの所業であったと批判され、本日頼政は召されその責任を問われたと書かれる。そしてその際の頼政の陳述が略記され、それによると頼政は、叡山大衆が前座主を奪い返しにくるとの恐れを仰せいだされていれば、頼政が守護の命を断ることはなかった。何の説明もなく事が起こってから責任を問われるのは遺憾である。この上は軍勢を催して東西の坂を固めた上で、叡山を攻めるしかないと。

前座主を伊豆国に護送するに際して、叡山大衆は前座主を奪い返しにくることは容易に予想されたことだ。なのにたった二人の郎等だけに警固を命じたことは、頼政が、前座主を、大衆をそそのかして強訴を起こさせたとの罪で罷免し伊豆に流罪とするとした朝廷の決定(これは後白河の強い意志によるものだが)に不服であり、ひいては、延暦寺の加賀の荘園を力づくで奪い取ろうとする後白河とその側近団の動きにも不服であったことを示している。

「平家物語」作者は、「座主流」「一行阿闍梨」の項で頼政が前座主警固をボイコットした事実を採用せず、「御輿振」の項であえて頼政が神輿を担いで内裏に押し掛けた叡山大衆を重盛が守る東門に誘導したことにして、頼政が後白河とその近臣団の動きに明確に反対したとすることで、頼政像を、政権に対する明確な反対の立場を明らかにした人物として描くことで、後の以仁王を担いでの反乱の首謀者として立ち現れる事実に繋げようとしたのではなかろうか?

なお里内裏に押しかけた叡山大衆に平重盛勢が矢を射かけたのは、「大衆は御輿を先頭に瓦礫を放ち逆茂木で突くなどして武士を後退させた」(「愚昧記」治承元年四月十三日条)との叡山大衆の激しい攻撃に後退した重盛勢が、「武力を行使してでも防げ」という後白河院の院宣に基づいて行動したからであって、これは違法なものではなかった(「顕広王記」安元3413日条)。

なおまた、後白河とその近臣団があえて比叡山延暦寺の加賀国における荘園を暴力的に横領しようとした背景には、臨時の王でしかない後白河には、天皇家の荘園がほとんど継承されず、彼は即位の礼の大祭を催すに際しても資金が足りず、天皇家の荘園の大部分を継承した鳥羽上皇皇女八条院ワ子内親王に費用を工面することを懇願して実施したという、王家と長とは言えない現状が背景にあった。王家の長であった鳥羽上皇は、その荘園の一部を4歳になった愛娘ワ子内親王に譲り、その死に際しては残りの大部分の荘園をみな愛妻美福門院に継承させた。そしてその全国に二百数十箇所に及ぶ荘園は美福門院からその愛娘八条院ワ子内親王に継承された(八条院領とよぶ)。後白河が継承した荘園は、鳥羽上皇が生前その正妻の待賢門院璋子に譲った荘園と保元の乱に敗れた左大臣藤原頼長から没収した荘園のみであった。※参考文献:●源平盛衰記全釈12 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第53巻第2号 20171