内裏炎上

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▼主な登場人物 

●平時忠:11271189 桓武平氏高見王流の出身。兵部権大輔時信、藤原家範の娘(あるいは孫)の子。同母姉時子が平清盛の正室となったため、武門平氏と密接な関係を持つ。蔵人などを経て久安5(1149)年叙爵、正五位下右少弁に至る。応保1(1161)年に、後白河上皇の寵愛を受けていた妹滋子が生んだ皇子(のちの高倉天皇)の立太子を図り解官、翌年には二条天皇を呪詛したとして出雲に配流。永万1(1165)年、二条天皇の死後、帰京を許されてから官位は順調に上昇。蔵人頭を経て仁安2(1167)には参議、翌年中納言・検非違使別当となる。承安2(1172)年、平徳子の中宮権大夫に就任。2年後、4人を超越し従二位に昇進した。治承4(1180)年に高倉の院別当に就任、寿永2(1183)年、権大納言に至る。平氏都落ちに同道して解官。壇の浦の戦で捕虜となるが、源義経を婿に迎えて配流回避を画策。しかし源頼朝の圧迫によって能登に配流され同地で死去した。

<物語のあらすじ> 

朝廷は振り捨てられた御輿を祇園社に入れて保管したが、御輿を射たことは初めてのことで「神霊怒りをなせば災害ちまたに満つ。おそろし」と人々に揶揄された。また翌日14日の夜半に山門の大衆多数が山を下りるとのことで主上以下は院の御所・法住寺に移った。怒りを鎮めない山門の大衆には、左衛門督平時忠が責任者となり大衆の説得にあたった。「衆徒の乱逆な振る舞いは魔閻の所業なり、帝王がこれを制止されることは山王権現のご加護があろう」と説得すると、大衆らはそれぞれの坊に戻っていった。20日には加賀守師高を尾張に流罪とし目代近藤判官を禁獄とした。さらに13日に神輿を射た小松殿の六人の侍も獄に入れられ、ここに山門の訴訟は決着を見た。428日夜、樋口富小路より出でた火は風に煽られて京中に燃え広がり、名のある古今の名所30余箇所、諸卿の屋敷16箇所も焼け、終には大内裏にまで火は及び、大極殿を始め諸門や諸司八省まで灰燼に帰してしまった。人の焼け死ぬこと数百人、焼け死んだ牛馬の数は知らず。この大火は山王権現の神罰で、比叡山より大きな猿どもが2・3千降りくだり、手に手に松明を持って京中を焼いたと、人々の夢には出てきた。

 

<聞きどころ>

「内裏炎上」も短いが、曲節の変化に富んだ美しい句。冒頭は道に打ち捨てられた神輿を如何にするかが詮議され、保安の先例のように祇園社に入れ奉て神輿に突き立った矢を神人に抜かせる場面だが、ここは「口説」で淡々と語り終え、最後に神輿に矢を射たてたことは神の怒りに触れて災害が多発するとの人々の怖れを「半下」⇒「初重」の低音域の節でおどろおどろしく語り終える。続いて再び山門の大衆が大挙して山を下りるとの噂で天皇は上皇の御所法住寺殿に行幸し、関白以下の公卿殿上人も多数供奉したことを「素声」でサラッと語り、小松殿平重盛と嫡子平維盛が武装してこれに随身したことを「口説」でさっと語り終える。しかし危機はまだ去っていないことを「強下」の節で京中の人々が怖れ騒いでいることを語り、さらに「折声」の節でおどろおどろしく、山門の大衆は、御輿に矢を射立られ、神人宮仕えが射殺され大衆も多く傷を被ったことに怒って、このままでは講堂・中堂など全ての堂舎を焼き払って山中に入ると詮議し始めたことを語り、こうした圧力に朝廷が屈し、山門の要求を法皇が飲むであろうことを「素声」でさらっと語る。中段はこの山門の大衆の怒りを鎮めた衛門督平時忠の手柄話なのだが、ここは「口説」⇒「強下」⇒「折声」⇒「中音」と節を様々に変化させて朗々と美しく語り終える。下段は、加賀守と目代の処罰がされたことを語り山門の訴訟が山門の要求通りに決着したことを語る部分なのだが、このことを「口説」でさらっと語ったあとに、428日の大火で京中・内裏まで焼けてしまった大火の様を、「口説」⇒「強下」でさらっと語り、その炎上の様を、冒頭は「三重」で美しく歌い上げておいて、急に「拾」に節を転換してこれは山王権現の神罰だと一気に語り、途中「中音」に転換して大極殿焼亡の歴史を美しく語りだしたあと、「下音」⇒「上音」を駆使して、「この後は世も末なので大極殿は再建されなかった」とさっと語り終える。

 

 <参考>

 

 この話の前半は、山門の大衆による強訴の後始末の話で、当時安元3年413日以後に起きた実際の動きにそって語られている。

 しかしここにも「平家物語」作者による創作が挿入されている。

 その第一点は、天皇・中宮の法住寺行幸が、何の問題もなく整然と挙行されたかのように記したことである。
 実際にはこの行幸は叡山大衆の再度の入洛の噂におびえた後白河法王が、関白は大臣に相談することなく急遽命じたもので、関白などは供奉せよとの命令書の到着が遅れたために供奉に間に合わず、あとから駆け付けたと、九条兼実の玉葉安元3年4月14日の条に記されている。そしてこの日記に記されているように、法住寺殿は平安京の外、鴨川の東に位置するので、天皇が平安京外に行幸するという異例の事態なので、法王の命令を受けても当然異論が生じ、例えば天皇行幸に際しては内裏に保管された神鏡も共に移動するのだが、神鏡の移動に際して内裏を警固する平経盛に対して供奉警固せよとの法王の命令に際して、事務方がその命令書の作成に手間取って遅れ、さらに法住寺殿に詰めていた右大将平宗盛が「平禅門が経盛が内裏から動くことに反対している」との情報が入って急遽中止となったことが、兼実の日記の安元3年4月19日の状に後日談として記されているほどだ。また当日の供奉の状況についても兼実は詳しく日記に記し、供奉の公卿たち服装が、正式の束帯姿のものだけではなく、直衣や狩衣などを着たものも多く、混乱した有様を占めているが、この点については「平家物語」でも、供奉した内大臣左大将平重盛の服装は略服である直衣に矢を負っており、さらにその嫡子平維盛は正式の服である束帯に矢を負ってきたと記しているとおりなのだ。さらに兼実は供奉の行列のあとに多数の人夫が様々な荷物を負って供奉する様を記し「まるで内裏炎上のときのような有様であった」としている。
 天皇と中宮の法住寺行幸は極めて異例なドタバタ状態のものだったのだ。

 創作の第二点は、「平家物語」では「大衆の要求に王がご配慮される」との意向を山門の上綱らが伝えようとしたが西坂本で追い返され、平時忠が上卿となって叡山に上り見事説き伏せたので、山門の大衆らの再びの強訴は避けられたと記されているが、この時忠が上卿となって叡山に上ったとの話は、公卿の日記などでは確認できず、実際の所は、九条兼実の日記・玉葉の安元3416日・17日の条に記されたように、右京大夫泰経が上卿となって「国司師高は尾張に流罪とし神輿に矢を放った官兵らも処罰する」との414日付けの院宣が天台座主に送られたことで、再びの強訴は避けられ、事態は一旦決着を見たのである。

 ではなぜ「平家物語」作者は事態の決着に、当時権中納言兼中宮権大夫兼左衛門督であった平時忠の力が大きかったとの物語を創作したのか?

 一つは、単に大衆の要求を入れるとの院宣で決着したのでは話としては面白くないということであり、さらに当時、朝廷=法王ともめていた山門が平清盛にしばしば書状を送っているとの噂が、九条兼実の日記にも散見し、さらにこの直後に、法王がすべての騒動は天台座主が大衆をそそのかして起こしたとの理由で座主罷免と流罪を決めた際に、山門の大衆らは座主罷免・流罪の撤回を求めた奏聞状を朝廷に提出し、これを福原にいる平清盛に仲介してもらうべく使いを送ったと「源平盛衰記」が記しているように、法王と叡山の対立に平清盛が深く関与していることが伺える。つまり、大衆の要求を朝廷が受け入れるように朝廷に斡旋したのもまた平清盛であった可能性があるので、この事態の決着に平家の関与があったことを示唆する意味も込めて、公卿にも関わらず剛勇の噂があり衛門督や検非違使別当を歴任している都の治安機関の長である平時忠を登場させた可能性が伺われる。

 この話の後半は、実際に安元3428日に起きた、「太郎焼亡」と呼ばれた京都大火に基づいて、大火の事実にそって語られている。

 この大火の詳しい経過とその焼亡範囲は、わざわざ焼亡範囲の図まで掲載して事件を記した鎌倉前期に成立した法律書『清獬眼抄』に引用された清原季光日記の「後清録記」に詳しい。先に掲載した図の‥‥‥で記した範囲が、「後清録記」が記した焼亡範囲で、京の三分の一を、しかも政治の中心である大内裏の大極殿や八省院などの中枢の建物ばかりか、主だった公卿・殿上人の館の多くも焼失した大事件であった。この大火は当時の里内裏であった閑院殿にも火が迫り危険なので、高倉天皇や中宮平徳子は正親町東洞院にある藤原邦綱邸に避難した。

 「平家物語」はこの京都大火を「山王権現の怒り」であると記し、山王権現の使いである猿が多数松明を持って山を下り京の町に火を放ったと人々の夢に出てきたとし、このとき焼失した大極殿は再建されなかったと、王権の衰微の様を語っているところが特徴的。

 実際に当時都ではさまざまな噂がながれ、「源平盛衰記」は、火が樋口富小路より西北の方に燃え広がったことを根拠にして、盲目の占い師が、富小路は鳶小路であり、鳶は天狗の乗り物であるから、都の西北愛宕山に住む天狗の仕業と占った話を紹介している。実際にこの噂は流れたようで、愛宕山の天狗は太郎坊と呼ばれていたので、この大火を太郎焼亡と呼んだと言われている。

 大火の実際の原因は「方丈記」の作者鴨長明が記したところによると「舞人を泊めていた仮屋からの失火」であり、「源平盛衰記」は、神輿に矢を放ったことを罰せられ、伊賀国に流罪となった重盛の家臣・成田兵衛為成が都との別れに際して酒宴を開き、成田の郎等らが次々と主への忠誠を誓って髻を切ったり腹を掻ききったりしたため成田もまた自害してしまい、家主がこの事態が六波羅に知られたら自分の身も危ないと怖れ、家に火を懸けて自らも炎の中に飛び込んで焼死したことが原因との話を伝えている。しかしこの成田という侍大将が処罰されたとの記録はないので、この話は「源平盛衰記」の創作と考えられる。

 

 なお「平家物語」ではこの話を「内裏炎上」と題しているが、実際の大火では、天皇の通常の居所である内裏は焼けてはおらず、その南側に展開する政庁域が焼亡したのであり、その中心の大極殿や八省院が焼けたので、「内裏炎上」という題は実際と異なる。「平家物語」でも「大内」にまで火が及んだと記しているので、天皇の通常の居所である「内裏」と、これに大極殿を中心とした政庁域を加えた全体を「大内裏」と呼ぶことは、きちんと区別されている。

 さらに「平家物語」でも公卿らの日記でも、この大火の何処が問題であったかという認識の問題では、みな口をそろえた「大極殿焼失」を問題とし、王権の象徴である大極殿が三度焼失してしまったこと、そして今回焼けた大極殿を延久4年に再建した際に関わった藤原信西は、保元の乱のあとの後白河の親政および院政を取り仕切る中で、大内裏全体を、かつて王朝権力盛んなりし時の姿に復元したものであったが、それが焼けてしまったということは、王朝権力の決定的な衰微を象徴する出来事であった。

 「平家物語」は山王権現の神罰とのみ記すが、この大火を日記に記した九条兼実は、このような天変を招いた原因は、大衆下落におびえて主上および三種の神器までをも洛外にある法住寺殿に慌てて行幸させるということに示されたような天子の徳の不足にあるとして、後白河院政の暴走を批判している。この日記を「平家物語」作者は見ている可能性が高いので、巻の1の最後にわざわざ大極殿焼亡を記録した意味は、単に王朝の衰微を嘆くだけではなく、後白河院政が王朝の決定的な衰微をもたらすものとの批判的視点があるものと思われる。

※参考文献:●「平家物語内裏炎上の深層 : 日吉神火と熒惑入太微」谷口廣之著 「 同志社国文学」19933月 38号 ●「源平盛衰記全釈13」 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第54巻第2号 20181月 ●「源平闘諍録」上 講談社学術文庫 の注