殿上闇討

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▼主な登場人物

●鳥羽天皇:11031156 第74代天皇(在位 110723)。名は宗仁。堀河天皇の第一皇子。母は贈皇太后藤原苡子。誕生の年に皇太子となり、父堀河天皇崩御に伴い嘉承2 (1107) 年即位、即位後も祖父白河院の院政下にあり、祖父白河院主導下で保安4 (1123) 年崇徳天皇に譲位した。しかし大治4 (1129) 年祖父白河法皇の没後、実権を握って院政を行い、崇徳、近衛、後白河の3天皇 28年間院政を行なった。永治1 (1141) 年落髪、法皇となり、のち崇徳天皇に迫って、寵姫美福門院所生の皇太弟体仁親王 (近衛天皇) に譲位させた。この近衛天皇が早世すると、次は我が子重仁親王をとの新院(崇徳)の意向を無視して、美福門院の養子としていた第四皇子雅仁親王の第一皇子守仁親王を即位させようと計ったが、親王がまだ10歳と元服前だったので、その父雅仁親王を即位させ、守仁親王を皇太子とした。これは、鳥羽院死後の保元の乱の大きな原因となった。天皇は催馬楽、音律、典故に長じ、また深く仏教を信じ、最勝寺、六勝寺など諸寺を創建、熊野にもしばしば詣でた。

●平忠盛:10961153 平正盛の長男。清盛の父。白河・鳥羽両院政のもとで軍事力の中心になって活躍した。1113年(永久1)に18歳で盗賊を追捕して従五位下、左衛門尉になったのをはじめ、1129年(大治4)に山陽・南海両道の、1135年(保延1)には西海の海賊追討使に任命されて鎮圧するなど、武名を高めた。また、白河・鳥羽法皇の寵を得て、越前、伊勢、河内、備前、美作、播磨、但馬などの国守を歴任する間に、西国地方の武士と主従関係を形成して勢力を拡大し、経済力を築いた。院庁にも進出して院領荘園の支配にも腕を振るい、九州の神崎荘(佐賀県神埼市)で日宋貿易を行ったりした。そうした経済力を背景に、1132年(長承1)鳥羽法皇のために得長寿院を造進し、その功によって内裏での昇殿を許され、やがて刑部卿にまで進んだ。1153(仁平3)年正月15日、58歳で没した。極官は正四位上。

●平家貞:10821167 平氏の一族ながら父進三郎家房が平正盛の郎等となってから、代々平氏に仕える譜代の郎等となり、自身は正盛・忠盛・清盛に仕えた。平家が西海の海賊の追討により西国に進出していた際の中心となっており、1134(長承3)年には海賊追捕の賞として左衛門尉に任じられた。その後も北伊賀を根拠地にして平家の出身地の伊勢や伊賀で、また西海での勢力拡張に尽力し、保元の乱(1156)前には薩摩の阿多忠景の反乱を鎮め、保元・平治の乱(1159)では清盛に従って活躍し、その賞により筑後守となった。平氏一の郎等。

<物語のあらすじ>

清盛入道程の「悪人」はいないが、これは桓武天皇第五皇子葛原親王の9代の後胤讃岐守平正盛の孫。正盛までは諸国の受領(※実際に任国に赴いて統治する国司のこと)でしかなく殿上人ではなかった(「祇園精舎」)。正盛の嫡男忠盛が殿上人となったきっかけは、備前守であった忠盛が鳥羽院の勅願寺・得長寿院を増進したことによる。だが殿上人はこれを嫉み、五節豊明の節会で忠盛を闇討ちせんと計画。これを察知した忠盛は、木刀に銀箔を貼った刀を帯びて昇殿して抜き身を放って見せびらかし、かつ殿上の小庭に相伝の郎等を控えさせたので、忠盛の動きを察知して闇討ちは中止された。忠盛は御遊にて舞を披露した後、帯びてきた刀を主殿司に預けて退出した。節会後、忠盛の行動が問題とされ、殿上人らは忠盛処分を求めたが、上皇の問いに対して忠盛は、「殿上の小庭に郎等がいたことは存ぜぬが、闇討ちの話を聞いた郎等が主を助けるために控えたか。問題であればこの郎等の身を差し出す」。「また帯びた刀は主殿司に預けたので実況見分をしてくれ」と述べた。調べてみるとなんと木刀に銀箔を貼ったものであった。あまりに周到な忠盛の対応に感心した鳥羽院からは何の咎めもなかった。

<聞きどころ>

 「殿上闇討」は、とても曲節の練られた美しい句。「平家正節」巻2上の最初の句で、平曲を習う者が13番目に習う句。 この句は内容的に三つの部分に分かれる。最初は闇討ちの計画にどう対処したか。二つ目は節会での忠盛の舞の次第。最後が、忠盛が節会退出後に彼の行動が問題になった次第。最初の段は闇討ちというおどろおどろしい場面なので、「強下」の節と「折声」「指声」が効果的に使われている。忠盛を嫉んだ殿上人が彼の闇討ちを企てたことを「強下」でおどろおどろしく語ったあと、忠盛の対応は「折声」「指声」で強調して語り、殿上で忠盛が抜き身の刀をかざして人々を脅したり、小庭に控えた郎等とのやり取りの部分は、「口説」⇒「強下」⇒「素声」⇒「強下」⇒「口説」⇒「強下」⇒「甲声」と曲節を次々と変えて、緊張感たっぷりに語り終える。二つ目の舞の場面は、「指声」で導入するという珍しい入り方で、「中音」⇒「初重」で忠盛の舞がからかわれた次第を朗々と語り、続いて忠盛が御遊を中座で退出する場面を「口説」⇒「強下」でさらっと語り終える。次は御遊の舞についての故事だが、ここは、「中音」⇒「初重」⇒「口説」で美しく語った後、第三の場面、忠盛の行動が問題とされた部分へのつなぎは「強下」でおどろおどろしく終わる。最後の忠盛の行動を殿上人が問題にした部分の冒頭は一転して「素声」⇒「口説」で静かに入り、忠盛の申し開きの部分は「折声」⇒「口説」で淡々と語り終えて、殿上に帯した刀が実は木刀に銀箔を貼ったものと判明した部分を「強下」で強調してから、忠盛の対応を上皇が称賛して咎めなしとなったことを「中音」で美しく歌い上げて終わる。

 

<参考>

 「殿上闇討」の語る所では、平忠盛が鳥羽院に重用され出世したのは、得長寿院を寄進したからとなり、要は賄賂を贈って出世したかに見えてしまう。たしかにこれも事実の一つの側面なのだが、主たる理由は「平家物語」は語らず、ただ暗示するだけというのが、この物語の手法なのだ。

ではどう読むか。

「平家物語」冒頭の「祇園精舎」では、「平清盛は桓武天皇第五皇子葛原親王9代の後胤讃岐守正盛の孫。親王の子・高見王は無位無官でその子高望王のとき平の姓を賜って上総介となり臣下に下る。その子国香から正盛までの六代は諸国の受領にすぎない」と語っている。

 1:葛原親王 766853 四品治部卿⇒大蔵卿⇒式部卿⇒一品太宰帥

2:高見王 ?−? 無位無官(※平家物語がこう語るだけなので実在しない可能性も)

3:平高望 ?−? 高望王⇒平高望 従五位下 上総介⇒上総・常陸に勢力を張る

4:平国香 ?−935 従五位下 常陸大掾・鎮守府将軍

5:平貞盛 920?−989? 従四位下 左馬允・鎮守府将軍・常陸大掾・陸奥守・丹波守←平将門を討って関東全域に勢力を張る。

6:平維衡 ?−? 従四位上 下野守・伊勢守・上野介・常陸介⇒伊勢に勢力を張る

7:平正度 ?−? 従四位下 左衛門尉・出羽守・越前守

8:平正衡 ?−? 従四位下 検非違使・右衛門尉・出羽守

9:平正盛 ?−1211 従四位下 検非違使・因幡守・丹後守・備前守・讃岐守

10:平忠盛 10961153 正四位上 越前守・伊勢守・河内守・備前守・美作守・播磨守・但馬守 刑部卿

11:平清盛 11181181 従一位太政大臣 

この累代当主の役職を見ると、平貞盛のところで、将門追討の恩賞として彼は左馬允という顕職に付き、都の武士としての地位を確立したかに見える。そして彼の子維衛が伊勢に勢力を扶植した後も受領として諸国の国司を務めながら、同時に都の衛門府や検非違使庁の武人として都でも活躍しており、貞盛の子・維衛は一条天皇の時代に、源満仲、源満正、源頼光、平致頼と並んで「天下之一物」と数え上げられている。「平家物語」は正盛の代まで「諸国の受領」にすぎないと語るが、事実はすでに貞盛の代で都の武士としての地歩を固め、都の武士としてすでに活躍していたのだ。忠盛の代で急に殿上人となり刑部卿という顕職についたかのように見えるが、その基盤はすでに先祖たちの都の武士としての活躍があり、直接的にはその父正盛の代に築かれたことは、「平家物語」は秘して語らない。 

●平正盛:?−1121 承徳1(1097)年、所領伊賀国山田(三重県大山田村,上野市)・鞆田村(阿山町)を、白河法皇が皇女郁芳門院の菩提を弔って建立した六条院に寄進し、以後,院近臣となる。因幡守在任中の天仁1(1108)年、出雲国で目代を殺害した源義親を追討、武士の第一人者となる。以後、丹後・備前・讃岐守などを歴任、従四位下に至る。法皇に対する成功に努め、尊勝寺曼荼羅堂、その御願寺九体阿弥陀堂を建立。一方、北面武士の中心として子の忠盛らと京における悪僧強訴の防御や、強盗追捕に従事。さらに西国でも活躍。備前守在任中の永久2(1114)年には海賊を追討、さらに元永2(1119)年には本家に背いて預所に暴行した仁和寺領肥前国(佐賀県)藤津荘司平直澄を院宣により追討。荘園制秩序を守る警察力としての役割を果たす。この際、「西海・南海の名士」を統率し、同地に平氏勢力を浸透させた。 

 正盛は白河法皇の側近として軍事的にも活躍したことが知られるが、最も大事なのは、因幡守在任中の天仁1(1108)年、出雲国で目代を殺害した源義親を追討したことだ(保立道久『平安王朝』参照)。

★資料「白河を巡る王家系図」

★一時的な王でしかなかった白河を押し上げた功労者!(「白河を巡る王家系図」を参照)

 白河は本来、天皇家の嫡流として王統をつないでいける立場にはなかった。彼の父である後三条は彼の後継者として彼の最愛の后である源基子との間の子である実仁を指名した。しかしまだ彼は幼かったので、長子である白河を即位させ、実仁を皇太子とし、長じたのち、白河を引退させ、実仁に皇統を継がせるつもりであった。

 実仁の母である源基子の父は小一条院。三条天皇の息子として冷泉系王統を継ぐ身であったが、対立する円融系を支持する藤原道長の圧力の下で身を引き、皇統は円融系の後朱雀に引き継がれた。後三条は、その後朱雀と小一条院の姉妹である禎子内親王との間に生まれた子であり、円融系と冷泉系の統一を体現する。そして実仁はその後三条と小一条院の娘である源基子の子。彼もまた円融系と冷泉系の統一をその血脈で体現するものであった。

 当時の貴族社会は、この両統の統一を体現する者に天皇家を継がせる合意ができていたし、それを推進する有力な貴族が摂関家であり、王族である村上源氏であり、源義家を中心とする王族としての清和源氏であった。

 貞仁親王(白河)は後三条の嫡男でありながら、異母弟の実仁が成人するまでの中継ぎの天皇であり、皇位継承の傍流に追いやられてしまったわけだ。
 彼は自問したであろう。自分の血筋が天皇を継承できないのであれば、自分は何のために生まれたのか、と。
 ここから天皇の子でありながら正統な皇位継承者の地位から落とされた者の、そうした父への恨みが募ったに違いない。

 しかし期待を担った実仁は1085(応徳2)年に早世し、本来であれば後三条の遺志を継いで皇太子はその弟である輔仁を据えるべきであったのに、白河は、貴族の多数派は反対したにもかかわらず、実子である善仁(堀河)を即位させ自らの王統を確立しようとした。しかし、その堀河は、1107(嘉承2)年に29歳で死去。その実子の宗仁は当時まだ5歳。貴族の多数派は、本来の皇位継承者である三宮輔仁の即位を望んだ。これに対して白河はただちに宗仁を即位させて(鳥羽天皇)院政を敷き、なんとしても自己の皇統を続けようとしたのである。
 皇統の脇に追いやられようとした者の、父へのしっぺ返しの始まりだ。

 1108(天仁1)年の源義親の「反乱」は、この本来の皇位継承者である三宮輔仁を支え、なんとか皇位につけさせようと画策していた源義家の勢力を削ぐために白河が仕組んだことであり、それを平正盛が討伐したことは、平氏を源氏に代わって、王統を守護する武家の棟梁として白河が選んだということを意味する。そして白河は三宮輔仁と義家を失脚させて自己の基盤を強めていたのである。白河を支えた貴族は、彼の母の出である閑院流藤原氏と、そして武門としての平氏であった。

 平氏とは、本来の皇位継承者ではなかった白河を支える中で、西国での海賊追討などで院の荘園を守り、白河王政の基盤を築いた正盛のところで平氏隆盛の基盤はつくられた。これを継承発展させて院近臣として大きな勢力を築いたのが清盛の父忠盛であった。忠盛が鳥羽法皇に得長寿院を寄進できたのは、こうして築かれた西国での平氏の経済基盤があったればこそであった。