吾身栄花

平家物語topへ 琵琶topへ

▼主な登場人物

●平清盛:11181181 平忠盛の長男。母は不明。大治4(1129)年12歳で従五位下・左兵衛佐となったのをかわきりに朝廷に出仕し、後に肥後守・安芸守となり、父忠盛とともに瀬戸内海の海賊勢力を配下に収めて威勢を誇った。仁平3(1153)年父忠盛の死とともに、忠盛嫡男の家盛(正妻・藤原宗子(池禅尼)の長男、清盛の異母弟)がすでに死去していたので、家督を相続した。保元1(1156)年の保元の乱では後白河天皇方についてその勝利に貢献し、乱後、播磨守・大宰大弐となり、平治1(1159)年の平治の乱では、二条天皇を廃して後白河親政を実現しようとした藤原信頼・源義朝を打ち破り、乱後、正三位・参議・右衛門督となり、さらに検非違使別当となって都の軍政を一手に掌握、その後、中納言・大納言・内大臣となり、仁安2(1167)年には太政大臣へと昇り位人身を極めた。養和1(1181)年64歳にて死去。

★清盛娘が嫁いだ上級貴族たちをあげておく

藤原兼雅:1145-1200 太政大臣藤原忠雅の子。極官は従一位・左大臣。妻は清盛の次女。藤原北家花山院家。花山院左大臣と号す。

藤原基実:11431166 関白藤原忠通の嫡子。妻は清盛長女の盛子。14歳で正二位・右大臣。15歳で関白。極官は正二位・左大臣。六条天皇の摂政となった翌年24歳で死去。死後贈正一位太政大臣。基実死後は摂関家の所領は妻盛子の管轄に。

藤原基通:11601233 基実の長男。妻は清盛六女の完子。本来摂関家嫡流であったが父基実が急死したため、若年(7歳)の基通は摂関家家督を継げず、父の異母弟の基房が継承し後白河院と連携。清盛のクーデタで院政が停止されると内大臣・関白となり安徳即位とともに摂政となる。清盛死後は後白河院に接近し院の近臣として活動。普賢寺関白が通称。

藤原隆房:11481209 後白河院近臣の権大納言隆季の長男。父隆季が平清盛とも親しく平家政権のもとで権大納言・大宰権帥となった関係で、清盛の娘を正妻とした。一方後白河院近臣の高階泰経の娘も妻としたことから平氏滅亡後も院近臣として活躍。正二位・権大納言に至る。四条隆房、冷泉隆房とも呼ばれる。

藤原信隆:11261179 後白河院近臣であるとともに清盛の娘を妻として、平氏政権で従三位・修理大夫となる。娘殖子(母は藤原休子)が高倉天皇の寵愛を受け、守貞親王(後高倉院)・尊成親王(後鳥羽院)の母となる。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門信隆とも記される。 

<物語のあらすじ>

清盛が太政大臣に昇進した結果平家一門ともに繁盛し、嫡子重盛は内大臣で左大将、次男宗盛は中納言で右大将など、一門の公卿は16人、殿上人は30余人、諸国の受領や衛府・諸司の幹部は都合60余人。この兄弟が共に左右大将に並ぶのは奈良の聖武帝の時代に近衛府の大将が定められて後、これまで4例あったのみ。清盛の娘8人はそれぞれ有力貴族に嫁ぎ、一人は花山院の左大臣(藤原兼雅)の北の方、一人は帝の妃、一人は六条の摂政(藤原基実)の北政所、一人は普賢寺殿(藤原基通)の北の政所、一人は冷泉大納言(藤原隆房)の北の方、一人は七条修理大夫(藤原信隆)の北の方、さらに一人は法皇の女御、一人は花山院殿の上臈女房に。日本国はわずかに66か国。平家知行の国は30余か国。すでに半國を越えている。その六波羅の館の豪華で栄える様は、御所も仙洞御所も及ばぬほどであった。

  <聞きどころ>

「吾身栄花」は、平家栄華の様を歌った句だが、とても美しい句だ。冒頭、いきなり「中音」⇒「初重」で美しくかつ重々しい語りで始まり、ここで兄弟が左右大将に並ぶだけではなく多くの公卿殿上人や国司や諸衛府の官人を独占した様を歌い上げる。続いて兄弟で左右の大将を独占した例を語るに際しては、「口説」で始めて、その過去の4例を「三重」⇒「初重」⇒「中音」と高らかに美しく歌い上げ、この4例はみな摂関家であり、殿上の交わりを嫌われた人の子孫がこのような栄華を極めることは不思議なことだと、「初重」⇒「初重」で重々しくかつ美しく語る。続いて清盛の8人の娘たちの幸せを語るわけだが、ここも「口説」で入って、「中音」⇒「初重」⇒「素声」⇒「口説」と、次次と曲節を替えながら美しく語り上げる。最後に「三重」⇒「初重」で日本国の半分以上が平家知行国となり、あまたの荘園も集めて、その館が御所や仙洞御所も及ばぬほどの豪華さであったと語って終わる。

<参考>

「禿髪」の句では清盛の神聖性を示し、これが平家栄華の基礎だと言っている可能性があるが、同じことを「不思議な話」として伝えているのが、この「吾身栄花」の句の途中に挟まれている、桜町中納言の逸話ではないだろうか。かつて清盛の娘の一人を妻にするはずであった中納言藤原重教(成範・藤原信西の子)が桜町中納言と呼ばれるようになった言われとして、彼が屋敷の周りに桜を植えて吉野を恋したっていたからという話を示し、普通、桜は7日で散ってしまうのを名残を惜しんで、天照大神にお願いしたところ、この願いは聞き届けられ、桜は21日も咲きつづけたと、この説話は語る。そしてこの願いが聞き届けられたのは、「君も賢王であるので、神も神徳を輝かせた」のであろうと解説している。この君はおそらく時の高倉天皇のことを指しているのであろう。つまり唐突に挿入された桜町中納言の説話は、平清盛一族の繁栄は彼が高倉王朝を支えたことによるということを暗示しているのではないだろうか。

平家物語は、「なぜ平家が栄華を極めたのか」という問いを鱸の句では「熊野権現の御霊徳」とあいまいなことを言っておいて、その実は、次の「吾身栄花」の句で、先例を示すと言う形で、平家栄華の秘密をさらっと示していると言える。

なぜこういえるかというと、「吾身栄花」の冒頭に、左右の大将を一家の兄弟で独占したという四つの例が示されているが、この四例ともに、その時期天皇家は二つに分裂して皇位を争っており、左右の大将を占めた貴族の家は、時の天皇およびその流れの天皇家を支える第1の臣下であったという共通点があるからだ。

1:嵯峨・淳和系の対立

1の例、文徳天皇の時に、藤原冬嗣の次男良房の右大臣が左大将、弟の良相の大納言が左大将を占めた例。文徳天皇の即位は嵯峨・淳和両上皇の子孫を交代で皇位につけるという約束を保護にして、嵯峨系が、淳和系の皇太子恒貞を奉じた貴族が反乱を企てたという承和の変(842年)をでっちあげ、これを理由に恒貞を廃太子して嵯峨の孫の文徳を皇太子としたことから実現した。この嵯峨系の天皇家を支えた有力な貴族が藤原冬嗣とその息子達。文徳の母は冬嗣の娘。そして文徳がわずか31才で死去するや、文徳と良房の娘の間にできた息子清和が8才で即位し、藤原良房が太政大臣となって天皇権を代行し、866年の応天門の変で政敵の淳和系を支えてきた伴氏を最終的に排除して嵯峨系皇統を安泰として、清和は良房を歴史上初の臣下が摂政となるという恩典を与えてその功績を称えた。

藤原冬嗣の息子たちが左右の大将を独占した時は854年(仁寿4年)・文徳5年。4年後文徳は32歳で死去。その息子8歳で即位した清和を支えたのもこの一族。

2:宇多・醍醐の対立

第2の例。朱雀院の時、左大将に藤原実頼、右大将に弟の師輔。朱雀天皇は醍醐天皇の第11皇子で3歳で皇太子となり8歳で即位した(930年・延長8)。この朱雀の即位すなわち父醍醐が死んだ時、東国で平将門が「新皇」を唱えて決起(935年・承平5)。

醍醐は父宇多上皇と争っており、皇位を醍醐系で継ぐのか、宇多の別の皇子(右大臣菅原道真の娘の腹)の系列の皇子が継ぐのかという争いが醍醐の在位中に起こり、醍醐を支持する藤原時平・忠平一派が宇多を支える菅原道真を反乱の咎で左遷し、醍醐の皇統を確立した。しかし醍醐天皇は8歳の皇太子を残して死去。ここに皇統をめぐる争いが再燃したがそれを乗り越えて醍醐の子である朱雀を擁立したのが忠平。だから朱雀朝においては忠平の家が公卿の筆頭となたっというわけ。平の将門の乱は、桓武天皇5世の孫として皇位継承権を持つものとして武力をもって継承あらそいに介入しようとして起こした事件である。

藤原忠平の息子たちが左右大将を独占した時は945年(天慶8年):朱雀16年。翌年朱雀は弟に譲位(24歳)した。村上天皇(20歳)。朱雀朝・村上朝を支えたのも忠平の一族。

 3:円融・冷泉系の対立

第3の例。後冷泉院の時。左大将に関白道長の子の教通、右大将に弟の頼宗。この時代、皇統は冷泉系と円融系に別れて皇統を争い、その結果両統が交互に皇位につくこととなり、貴族は二つに割れて争っていた。円融系の一条のあとの後一条の時、冷泉系の三条天皇の子の敦明が皇太子になったが、後一条は9歳に対して、敦明は23歳。この後一条の摂政になった道長は、敦明に対して皇太子辞任の代わりに「上皇」待遇を約束して、後一条の弟に皇太子を譲らせ、ここに皇統を一本化。この弟が後に即位して後朱雀となり後冷泉はその子。つまり争う皇統を一本化し冷泉系にまとめたのが道長。だから後朱雀・後冷泉朝では道長の家が公卿の筆頭となったわけ。

藤原道長の息子たちが左右大将を独占した時は1045年(寛徳2)11月。この年の1月後朱雀は譲位し、息子の親仁親王即位(後冷泉)。

 4:鳥羽・崇徳系の対立

第4の例。二条院の時。藤原忠通の子基房が左大将、弟兼実が右大将これは保元の乱の結果である。保元の乱は、皇統が崇徳派と後白河派に分かれて争った戦乱。原因は、鳥羽天皇が息子崇徳を退位させ、その弟の近衛を即位させた時、近衛を崇徳の子ということにして崇徳に院政をしかせる約束をしたにもかかわらず、即位の宣命では「皇太弟」としたため崇徳は院政をしけず、崇徳引退後も朝廷の実権は鳥羽上皇の手の中。そしてその近衛が若死にしたあと鳥羽は崇徳の弟の後白河を即位させ、その息子の二条を皇太子として、崇徳を完全に皇統から外した。これを恨み勢力挽回を狙った崇徳は鳥羽の死去とともに武士をあつめて決起。これが保元の乱。この時、鳥羽−後白河−二条の流れを支えたのが藤原忠通(ただし、その下で実際に軍勢を指揮して戦ったのが平清盛であり、政務を動かしたのが藤原信西だった)。だから後白河のあとの二条朝では忠通の一家が公卿筆頭となる。

藤原忠通の息子たちが左右大将を独占した時は1161年(永暦2)8月:二条4年。翌年後白河第六皇子憲仁誕生。即座に憲仁に皇位を継がせ後白河院政確立をねらうクーデタ未遂が起こる。

  5:後白河・高倉の対立

 したがってこの先例にならって平家の時代を見てみるとどうなるか。平家の兄弟が左右の大将を独占した高倉朝は、後白河と高倉が争った時代。後白河は二条への中継ぎにすぎず、天皇家の荘園もほとんど受け継ぐことはできず、荘園は近衛の同腹の妹である八条女院のもの。そして二条天皇はこの八条女院の子として立太子・即位したもので、鳥羽系皇統を継ぐ。後白河はこれと闘って、結局、二条の死後、平清盛の支持をえて、皇統を握り、平滋子との間の子である高倉を皇位につけ、皇統を確立したかに見えた。しかし成人した高倉は父と対立し、清盛は高倉を支持して後白河と対立し、彼を幽閉。その中で高倉の子で清盛の孫の安徳が即位するという流れ。

 つまり高倉−安徳朝を支えたのが平清盛の一家。

 平清盛の息子たちが左右大将を独占した時は1177年(安元3年)正月。高倉10年。この年6月平家打倒の陰謀発覚(鹿ケ谷事件)。

 

ずばり一言でいえば、平家は分裂する王朝の対立の中で、一方の皇統を支えることによって栄華を得たのだということ。したがってその皇統の没落とともに平家は没落したのだということが、この冒頭の句で、暗示されているといえよう。そしてそれはまた、武家というものは天皇家を支えるものであるという命題をも暗示しているものといえる。

結局平家は、桓武平氏の血を引く高倉天皇の実現とともに権力を握ったが、その高倉院がわずか21歳にて病死し、残された天皇がわずか6歳の安徳となったことにより、不本意にも幽閉した後白河院の院政を復活させざるを得ず、この後白河が、平家打倒を掲げて蜂起した諸国源氏と繋がったことにより、木曽義仲に都を追い落され、再度都近くまで攻め上ったが、今度は鎌倉勢によって摂津一の谷合戦で再度追い落され、結局は最後の頼みとした水軍を盾に壇の浦で戦ったが破れて亡んだ。

言い換えればもし、高倉が病で若死にしなければ、そして同時に清盛も病で死ななければ、もしかして高倉ー安徳王朝を支えた平氏政権が存続し、全国的な源氏との戦いに勝利する中で、自らの血脈の王朝と一体となった武士政権としての「福原幕府」なるものをつくったかもしれないのだ。

「平家物語」は、平氏の興亡の裏側には王朝分裂があり、彼らが支持した王朝の没落とともに平家も亡んだとしているのだ。

そして同時にこの物語は、平安末から鎌倉初の全国的な戦乱は、天皇家が分裂して覇を競っていたからこそ起きたことであり、天皇家が分裂さえしなければ、戦乱の世も生まれなかったと、主張している可能性がある。これはいわば天皇家に対して、父子兄弟の対立は戦乱の源になるとの戒めを示すものであったのかもしれない。

「吾身栄花」の句は、一見意味のないように見えて、平家の世と平家物語の成立の事情を見事に物語っている重要な句である。

 


平家物語topへ 琵琶topへ