二代后

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「年代記」としての平家物語の冒頭の句。巻1の1−8は物語の枕。冒頭の句が王家分裂の話であることは平家物語の性格を良く示す。

▼主な登場人物

◆二条天皇:康治2.6.17(1143.7.30)〜永万1.7.28(1165.9.5)。後白河天皇(当時は鳥羽天皇第四皇子雅仁15歳)と大納言藤原経実の娘で左大臣源有仁の猶子懿子(27歳・贈皇太后宮)との皇子。母懿子が産後死去したため鳥羽后美福門院に育てられる。当初は僧となる予定であったが、久寿2(1155)年、近衛天皇の死に伴い、近衛を継ぐ天皇候補となり、まだ成人前であったので父雅仁(後白河)が即位し、皇太子となった。しかしこの即位と立太子が叔父崇徳上皇の怒りを誘い、保元の乱(1156)の導因となる。保元3(1158)年即位。父の院政に対抗し、親政を行おうとして軋轢を深める。しかし病に冒され、永万1(1165)6月幼い皇子六条天皇に譲位し、翌月崩御。二条天皇は、争乱で衰微していた和歌の復興に努め、『続詞花和歌集』を編纂させ、悪僧・神人の統制令や荘園整理など、即位直後の執政の臣・藤原信西(平治の乱で殺害)の政策を踏襲して積極的な政務を展開した。

◆藤原多子:保延6(1140)〜建仁1.12.24(1202.1.19)。「まさるこ」と読む。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。久安6年(1150年)正月19日近衛天皇后として入内。しかし近衛天皇は、久寿2年(1155年)7月に崩御。永暦元年(1160年)正月26日二条天皇后として再入内。しかし永万元年(1165年)7月二条天皇は崩御。多子は同年12月出家。書・絵・琴・琵琶の名手として知られた。建仁元年(1201年)62歳で崩御

◆後白河院:大治2.9.11(1127.10.18)〜建久3.3.13(1192.4.26)。鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第四皇子。崇徳天皇は同腹の兄。皇位継承に無縁な雅仁親王は今様を特に愛し研究。後の著書『梁塵秘抄口伝集』には「10歳あまりから今様を愛好し日々稽古に明け暮れ、一晩中歌い明かして喉をつぶしたこと三度」と記す。今様の遊び相手は貴族だけではなく、他にも京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、江口・神崎の遊女、傀儡子(くぐつ)など幅広い階層に及んだ。久寿2年(1155年)、近衛天皇が崩御すると、自身の第一皇子であり、美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で即位。長く王家一の人として君臨し、自らの子孫を皇統として伝えた。後白河は王朝文化華やかなりし頃を復元しようと努力して廃れていた宮中行事を復活させ、往時の文化を記録するものとして大量の絵巻を描かせ、自身が建立した蓮華王院に保管させた(『年中行事絵巻』『源氏物語絵巻』『後三年合戦絵巻』『信貴山縁起』など多数)。

 <物語のあらすじ>

 昔から源平両家が互いに朝敵を戒めている間は世は落ち着いていたが、鳥羽上皇の死後は戦乱が相続き、保元の乱・平治の乱で源氏の勢力は衰微し、平氏のみが権力をふるっている。そのためか世の中は治まらず、とりわけ永暦応保の頃からは院(後白河上皇)と内(二条天皇)の対立が激化し、互いにそれぞれの近臣を処罰流罪にして世の中が不穏である。特に、故近衛天皇の后・藤原多子を后に迎えるという話は、天下を大いに騒がした。天皇は天下第一の美人という多子(当時22・3歳)に心を動かされてしばしば艶書を送った。公卿らは二代の后という前例のなさに驚いてしばしば詮議してありえないと決議し、院もまた同様な趣旨の意見を出したが、天皇は「これしきのことを決められないはずはない」と周囲の意見を無視して、遂に中宮として入内する旨を多子の実家大炊御門徳大寺家に送りつけた。それでも受諾しようとしない多子を父公能が説き伏せてようやく入内させたものの、多子は朝な夕なに悲しみに暮れ、内裏清涼殿に故近衛院が幼いときに悪戯で襖の有明の月を墨で曇ったように手を加えた絵を見つけて、故院の面影を追い求め自らの身の上のはかなさにさらに嘆き悲しんだ。
 物語としては、政争の具とされ次々と入内させられた悲劇の女性の物語となっている。

 <聞きどころ>

 前半は天皇と院との対立を語るが、天皇が多子入内の強い意志を示す際に「折声」の強い節でそれを強調。後半は入内を「強要」された多子の嘆きが中心だが、その嘆き悲しみを、「上歌」「中音」「三重」という朗々とした節回しで美しく語る。

<参考>

 平家物語は、王家の分裂の歴史をあいまいにしている。冒頭の「昔から源平両家が互いに朝敵を戒めている間は世は落ち着いていた」というのも事実に反し、後三条天皇の遺言に反して弟三宮を差し置いて即位した白河天皇が、三宮を支持する摂関家とその武力である源氏を抑えるために伊勢平氏を抜擢し、源氏棟梁義家の子・義親を朝敵として追討して源氏の勢力を削ぎ、三宮王統を廃絶に追い込んだが、白河王統の正統性を疑う勢力を生んだのが史実。さらに「鳥羽上皇の死後は戦乱が相続き」というのも、鳥羽―近衛―(後白河)―二条を正統な皇統とする勢力と、崇徳―重仁を正統な皇統とする勢力が激突した保元の乱、乱後即位した二条を正統とする勢力に対し後白河こそ正統と考える勢力が二条派を排除しようと起こした平治の乱というように、王家が分裂したからこそ戦乱が続いた。また覚一本は、二条天皇が多子を后とした理由を「色にのみ染める御心にて」としているが、八坂流平家の譜本である「百二十句本平家」では、「二代后」の先例である唐の太宗后の則天武后が二代の高宗后となった理由を詳しく記し、即位した高宗が武后に「宮中に入って政務を助けてほしい。私は太宗の政治を継承し永く保ちたいから」と頼んだとの「史実」を挙げて、二条天皇が近衛后・多子を后とするのは近衛の治世を継承するものであることを明確に示し、二条・後白河父子の対立は、正統性を巡る対立であることを明示している。

 二条天皇親政を支える勢力としては、故鳥羽院后・美福門院、摂関家の太政大臣藤原伊通(美福門院の従兄弟)、・大炊御門徳大寺経宗(二条生母・懿子の弟)・葉室惟方(二条の乳母・俊子の子)らであり、さらに前関白の藤原忠通も天皇の諮問にこたえて政権を支え、そして二条の乳母の一人の平時子の夫・平清盛が武門の長としてこの政権を裏から支えた。こうした二条親政を支える勢力を象徴するのが二条の后たち。元服と共に后となったのは美福門院所生の鳥羽皇女・姝子内親王(高松院)(1141-1176)、次に平治乱後すぐに后に入ったのが故近衛院皇后の太皇太后:藤原多子(1140-1201)。さらに前関白藤原忠通の養女(実父は徳大寺実能)の藤原育子(1146-1173)である。貴族主流が支持していた。

 これに対して後白河は、王者の資格はないと公卿の多くに受け止められていた。平治の乱によって二条近臣の藤原信西を排除し、さらにこの乱の画策に関与した大炊御門経宗(二条生母・懿子の弟)・葉室惟方(二条の乳母・俊子の子)を欠官・流罪に処し親政派を寒からしめたが、やがて生まれた後白河第七皇子憲仁を立太子―即位させようとした後白河近臣の平時忠・平教盛・藤原成親・坊門信隆らが解官されるや、後白河派は勢力を失い、大炊御門経宗(二条生母・懿子の弟)・葉室惟方(二条の乳母・俊子の子)も復官して摂関家も二条を支持するや、後白河は蓮華王院造立や度々の熊野詣実行など、信仰の世界にのめりこむ以外になかった。是がこの「二代后」が語る時代の実情。

 二代后・藤原多子は、この後も平家物語で重要な役回りを果たす。二条天皇の死後尼となって近衛河原の御所に隠棲した多子だったが、実際は、二条の次に鳥羽―近衛王統を継ぐ人物として目されていた、後白河第二皇子・以仁王を庇護し、後白河第六皇子を生んだ后・平滋子の圧力によって元服の式も親王宣下もなく放置された彼を、多子は密かに援助し、近衛河原の御所で元服させ、以後も援助を続けた。もちろんこの背後には、鳥羽ー近衛ー二条王統を近臣として支えた大炊御門徳大寺家ら有力貴族と鳥羽后の故美福門院の意思を継いだ娘・八条院宮らが存在していた。後の以仁王の乱は、この八条院と多子ら大炊御門徳大寺家ら、鳥羽―近衛―二条こそ正統な王統であると考える皇族と有力貴族の援助で行われたものであり、八条院に属する軍事力としての清和源氏嫡流家としての摂津源氏・源頼政の力を背景として行われたわけである。