額打論

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▼主な登場人物

◆六条天皇:長寛2.11.14(1164.12.28)〜安元2.7.17(1176.8.23)。二条天皇の第二皇子・順仁。母は大蔵大輔伊岐致遠(いきむねとお)の娘。永万元年(18656月受禅し7月即位。2歳。しかし在位3年にして仁安3年(1168年)219日高倉天皇に譲位し,元服以前に太上天皇の尊号を受けた。安元2717日死去。13歳。

 <物語のあらすじ>

 永万元年(1165)春に至って二条天皇は病に伏し、病状が悪化した6月には二歳の皇子(六条天皇)に譲位した。あまりに前例のないこととして公卿らは詮議し反対したがこの即位は強行され、直後の7月、二条上皇はわずか23歳で崩御した。そしてこの上皇の葬儀で騒動が勃発した。天皇の葬儀には南都北嶺の寺々の大衆がすべて供奉し、御墓所の四つの門にそれぞれの寺の額を打つ習いとなっており、順番は、東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺の順であった。しかし前例を破って延暦寺側は興福寺の前に先に自寺の額を打ってしまった。混乱の最中に、興福寺の悪僧二人が武器をもって立ち現われ、延暦寺の額を切って落として踏み割ってしまった。延暦寺に売られた喧嘩を興福寺が買ってしまったのだ。王統の正統性を巡って争っていた後白河上皇と延暦寺は接近しており、その後白河派の延暦寺が、摂関家の氏寺で二条―六条派と見られる興福寺に対して、二条葬儀の場で喧嘩をしかけたのだ。
 あわや両寺の大衆の激突、そして両寺の戦へ発展するのではないかと思われた。
 (幸い葬儀の場での激突は避けられたものの、両寺の大衆の軍事的激突は必至と見られ、さらに後白河院が延暦寺に対して、二条―六条派と見られる平清盛の六波羅第を襲撃せよと下知したとの縷言庇護も飛び交い、都人は右往左往する。−ここは次の1−9「清水炎上」にて)

 <聞きどころ>

 節回しの変化に注目。前半は二条の病から六条の立太子・即位の経過が語られ、二歳の即位は前例がないことを、折声・指声という独特の節回しで語り。その後二条の死を中音の美しい節で表現し、やがてその葬儀の様と次第を三重の朗々たる節で表現。三重の途中で一転して拾に節を変え騒動の激発を予見させ、そのまま額を打つ順番を巡る大衆たちの争いを、呂と拾の下音・上音を駆使して一気に語り終える。

 <参考>

 事実としては二条の死去以前に、二条親政体制は瓦解し始めていた。親政を支える有力者が次々と死去していたから。永暦元年1123日(11601222日)には鳥羽后美福門院藤原得子(44歳)が死去し、応保元年811日(116192日)には徳大寺公能(46歳)、さらに長寛2219日(1164313日)には前関白藤原忠通(68歳)も死去し、この永万元年その年には、長寛3215日(1165328日)に関白として二条親政を支えた藤原伊通(72歳)も死去していた。しかも二条の三人の身分ある后からは男子が生まれず、あるのは有力な外戚を持たない第二皇子のみ。
 一方で後白河上皇の側には、その愛妃平滋子に、応保元年
93日(1161923日)男子・第七皇子憲仁が誕生しており、その憲仁は3歳のときには、関白藤原基実の妻盛子(平清盛娘)の猶子となっていた。つまり若い世代の摂関家主流もその後ろ盾となっていた。こうした状況での二条の崩御・二歳の六条即位に対しては、後白河第六皇子の即位こそ相応しいとの公卿内部の有力な反対意見があった。したがっていつ都に騒乱が起きてもおかしくはない状況であり、興福寺と延暦寺の騒動は、摂関家の氏寺で六条支持派と目された興福寺に対して、後白河に接近していた延暦寺が騒動をしかけたものと理解される。

 事の焦点は、二条親政派の残された重鎮・平清盛の動向であった。

★補足訂正 23.10.9

 しかし清盛を始めとする平氏一族にとって後白河第七皇子憲仁の即位は望むところであった。なぜなら憲仁の母は、清盛の妻平時子の妹の滋子であり、滋子は後白河が即位して後に自ら決めた最愛の妻であり、その間に生まれた憲仁こそが後白河の自らの皇統を繋ぐうえでもっとも相応しい皇子であったのだから、後白河との関係を良好に保ちたい平氏にとって、憲仁の即位は、もっとも望ましいものであった。
 事実として二条親政下において、彼を廃位して憲仁を即位させようとの平氏一門の企て(首謀者は平時忠の頼盛)が行われて未然に明らかとなり、首謀者が流罪となる事件があった(後に赦免)。

 だから朝廷の有力者の関係を熟知している者にとっては、二条危篤⇒六条即位という状態ならば、二条派を見限って、後白河第七皇子憲仁即位へ向けて動くことは当然であった。

 「平家物語」このあたりの事情を無視して、平清盛ら平氏一門と後白河は当初から対立関係にあったという仮構をもとにして、二条死去後の葬儀において二条派と目される興福寺と後白河派と目される延暦寺が対立して、すわ内乱かという状況を演出したのだ。

 だからこそ二条の葬礼がその死去永万元年(1865)7月27日のその日に行われたような記述にして(実際は7月28日死去で葬儀は8月7日)、二条死去の裏に何かあったかのように見せかけて、危機を演出したのだ。

 実際には興福寺と延暦寺の衝突は皇位継承問題ではなく、荘園をめぐる騒動だったし、二条の葬儀は通例に反して寂しいもので、公卿一行はわずかに9人、殿上人が少々と、当時の神祇伯顕広王の日記には記されている。すでに二条派を支持する公卿は極少数になっていたのだ。