清水炎上

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▼主な登場人物

◆後白河院:大治2.9.11(1127.10.18)〜建久3.3.13(1192.4.26)。鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第四皇子。崇徳天皇は同腹の兄。皇位継承に無縁な雅仁親王は今様を特に愛し研究。久寿2年(1155年)、近衛天皇が崩御すると、自身の第一皇子であり、美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で即位。長く王家一の人として君臨し、自らの子孫を皇統として伝えた。

◆建春門院平滋子:康治1(1142)〜安元2.7.8(1176.8.14)。兵部権大輔贈左大臣平時信と民部卿藤原顕頼の娘祐子の子。異母兄姉に大納言時忠、平清盛の妻となった時子がいる。上西門院の女房となり小弁局と呼ばれていたときに後白河上皇の寵を受けて、応保1(1161)年第七皇子憲仁(高倉天皇)を生み、仁安2(1167)年女御宣旨。翌年皇子の即位に伴い皇太后宮。嘉応1(1169)412日院号宣下。安元2(1176)6月重病のため、院号、封戸、年官年爵を辞退し受戒するが、翌月没。後白河上皇に終生愛されて、平氏と院を結ぶ役割を果たし、政界にも隠然たる力を持った。

◆平清盛:元永1(1118)〜養和1.2.4(1181.3.20)。平忠盛の長子。実は白河法皇の落胤で、母は祇園女御またはその妹という説もある。忠盛の正妻・池禅尼(藤原宗子)の生んだ男子は家盛(保安4年・1123年頃出生?久安5315日・1149424日病死)と頼盛(長承2年・1133年出生)。二人の正妻の子を差し置いて家督を継いだことにはそれなりの理由があるか? 平治の乱後急速に出世。翌永暦1(1160)年正三位・参議となり公卿に列し、永暦2 (1161)年権中納言、長寛3( 1165)年権大納言、永万2( 1166)年正二位内大臣、仁安2( 1167)年従一位太政大臣と位人身を極める。しかし三カ月後太政大臣を辞任し、以後は朝廷の官職に着かず、子息や縁戚の公卿を通じて朝廷を動かす。

◆平重盛:保延4(1138)〜治承3.7.29(1179.9.2)。清盛の長男で母は高階基章の娘。平氏の政界進出とともに順調に出世し、長寛1(1163)年には後白河上皇の蓮華王院造営の賞により公卿に列した。このころから後白河上皇の近臣となり、仁安2(1167)年には権大納言に出世するとともに、東国・西国の山賊・海賊追討を命じられた。これは諸国の軍事権を平氏が手中にしたことを意味し、その後の重盛は平氏の家督と院の近臣との立場にあって政界に重きをなした。

◆平時忠:大治2(1127)〜文治5.2.24(1189.3.12)桓武平氏高見王流の出身。兵部権大輔時信と藤原家範の娘(あるいは孫)の子。同母姉時子が平清盛の正室となったため、武門平氏と密接な関係を持つ。仁安2(1167)には参議,翌年中納言・検非違使別当、承安2(1172)年、平徳子の中宮権大夫に就任。2年後、4人を超越し従二位に昇進。治承4(1180)年に高倉の院別当に就任、寿永2(1183)年、権大納言に至る。

◆西光:生年不詳〜治承1(1177)。俗名藤原師光、もとは阿波国(徳島県)の在庁官人。信西(藤原通憲)の乳母子で、院北面の武士で左衛門尉に至る。平治の乱での信西死去に伴い出家するも、以後も院の倉預を勤め、後白河法皇第一の近臣と称された。

 <物語のあらすじ> 

 永万元年727日(1165.9.5)の二条上皇死去に伴い、二条の息子六条帝と後白河院の第七皇子憲仁(後に高倉帝)の皇位継承の争いに激しさが増す。二条葬儀の場で延暦寺と興福寺が額を打つ順番を巡って争ったが大きな事件とはならなかったが、やがて7月29日。延暦寺の大衆が大勢で下山し、西坂本で阻止しようとした武士検非違使を蹴散らして京中に乱入。世間では後白河上皇が延暦寺の大衆に命じて平氏を討たせるとのうわさが専らだったので都に緊張が走り、御所の諸門は武士が固め、平氏一門は六波羅館に駆け付けた。この騒動の最中、後白河上皇は六波羅に行幸。そして延暦寺の大衆は六波羅ではなく興福寺の末寺・清水寺を焼き討ち。都での戦は回避され、1224日には憲仁に親王宣旨が下され、翌年仁安元年108日この憲仁親王が東宮となる。東宮が伯父で6歳、天皇が甥で3歳。翌仁安2年2月19日に天皇は東宮に譲位し東宮が践祚。翌仁安3年3月20日に即位の礼が行われる。ここに平家一門の天皇が誕生し、天皇の母建春門院の兄・平時忠が外戚として大きな権力を振るい始め、平関白と人々は呼んだ。

 <聞きどころ>

   語りとしては比較的平坦な句。その中で、清水寺焼き討ちを拾で語って危機が回避されたことを示したあと、重盛が清盛を諌めて上皇の意に従えと諭した場面だけは折声⇒口説⇒下げ⇒初重と曲節に変化を持たせている。また、六条退位・高倉践祚の場面を、三重⇒呂⇒拾下音⇒拾上音と曲節を変化させ、さらに高倉践祚で平家が権力を握り横暴となった様を唐の楊貴妃と楊国柱の故事に倣って中音でゆったりと語っている。この二か所が興味深い。

 <参考>

 実際の延暦寺と興福寺の争いは荘園を巡るもので皇位継承とは関わりはない。二条の息子六条に代わって皇位に着く事となった憲仁は、母が清盛妻の妹にあたり、平氏一門の人物。この人が天皇となれば平氏は縁戚となり、二条治世下で平氏一門がこの皇子を皇位に着かせようと動いて流罪となった事件すらあった(首謀者は平頼盛と時忠)。高倉の立太子・践祚に平氏に異論があるはずはない。平氏と院が対立する理由がないのだ。
 平家物語の異本である「源平盛衰記」では清水寺焼き討ちは、額打論がおきた永万元年8月7日の翌々日である8月9日と明示し、院が延暦寺の大衆に命じて平氏を打つとの噂が流れて都は混乱し、後白河院は噂の謝罪のために六波羅を訪問したと、史実(歴史書「百錬抄」の記録と同じ)に沿った記述になっている(平家の古態である「延慶本平家」も同じ)。
 「覚一本平家物語」が清水寺焼き討ちを二条死去の二日後の永万元年7月
29日に設定したのは、こうすることで、葬儀の場での騒動と清水寺焼き討ち事件とを、皇位継承の争いに関連づけて、当初から院と平氏は皇位継承をめぐって争っていたと強調するためか。「源平盛衰記」が元の形で、「覚一本平家物語」の形が、語りで平家物語が伝えられる中で、平氏の滅亡は、彼らが院に逆らったからだと強調する傾向を強めた結果ではないだろうか。

なお高倉が平氏の一族といっても文官平氏の時忠の一族で清盛ら武門平氏は縁戚。実際に外戚として実権をふるって「平関白」と呼ばれたのも時忠だが、これは安徳時代の後のこと。

★補足訂正 23.10.9

なおこの句で後白河が六波羅に行幸した際に権大納言平清盛が恐れおののき、平氏の兵たちも恐れおののいて騒動になりかけたと記したことや、これを「そんなこと=後白河が叡山大衆に平氏追討を指示した はありえない」と平重盛が沈めたと記したこと、さらには後白河が御所に還御なるに際して見送った重盛が六波羅に戻ったところ、父の清盛が「後白河は信用できない。これと慣れ親しむべからず」と語ったことに対して重盛が「これは言葉にも態度にも表してはいけない。今後は朝家の意向を良く鑑みて仕えることだ」と説得したと記したこと、さらに御所に戻った後白河が「平家を討とうなどと毛頭考えていないのに誰が言いだしたのだろう」と平家追討を後白河が叡山大衆に指示したとの噂についてつぶやいたとき、近くに控えていた西光法師が「天に口なし、人をもって言わせよ」というので、御心の内が他人の口を借りて広がったのでしょうと話したというはなし、これらはみな、後白河と平清盛をはじめとする平氏一党とがすでに対立していたという、「平家物語」の仮構に基づいた、脚色である。