首渡

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<主な登場人物>

●平維盛:11571184. 平重盛の長男。清盛の嫡孫。小松中将と称す。右中将・蔵人頭を歴任。舞の優美さで世人の称賛を得る。しかし母は身分の低い者であったので、小松家の嫡男は弟の資盛(母は「少輔内侍」と呼ばれた藤原親盛の娘)。妻が平家討滅を狙って死罪となった大納言藤原成親の娘であったことと合わせ、平家一門の中では傍系に。治承4(1180),源頼朝追討の総大将として臨んだ富士川合戦で敗走。寿永2(1183)年礪波山の戦では源義仲に敗れ平家都落ちの因を作る。文治1(1185)年屋島の陣を脱し、高野山で出家。滝口入道立ち会いのもとに那智で入水と『平家物語』は伝えるが真偽のほどは不明。

●維盛正室・大納言局:1160−? 後白河側近の藤原成親の次女。母は藤原俊成の長女・京極局。建春門院平滋子の女房として出仕し、新大納言と称される。女院の御所近くに局を賜り、手厚く遇されていたという。『平家物語』によれば、13歳で15歳の平維盛の正室となり、承安3年(1173年)に六代を、2年後には女子を産む。維盛の入水後は母方の一門の庇護で子らと暮らすが、平家一門滅亡の後、残党狩りで息子を捕らわれ苦境に。息子六代が文覚上人に救われた後、後白河院とも関係が深く、源頼朝との関係により頼朝の意向を朝廷に伝える役となった吉田経房と再婚。

●齋藤五・齋藤六:?−? 平重盛の郎等・齋藤実盛の五男と六男。詳しい資料はなく、「平家物語」にのみ登場。『延慶本平家物語』などでは、それぞれの名を、齋藤五宗貞・齋藤六宗光と伝える。

 

<物語のあらすじ>

  寿永3年2月13日、 摂津国一の谷で討たれた平氏の首どもが都大路を渡されて獄門に懸けられた。夫三位中将維盛を案じた北の方は、息子六代御前に付き従う齋藤五・齋藤六兄弟に確かめさせる。首の中には小松殿の公達の中でただ一人備中守師盛のみあり、捕虜の中にもいなかった。維盛の行方を尋ねると、戦の前から患いがあり今回の戦には行かずとのこと。北の方が維盛の容態を案じる中、維盛からの「共に一つ所でと思うがままならず」との文が届く。

 

<聞きどころ> 

都に平家の首と捕虜が護送され、平家に所縁のある人々が連座を怖れる中、大覚寺に隠れ住む維盛の北の方が夫の身を案じる様までを「口説」でサラッと語った後、受け取った首を都大路を渡して獄門に懸けよとの範頼・義経の要請を公卿が詮議することになった次第は「素声」で。そして公卿詮議は要請を拒否と決するまでも「口説」で淡々と語る。この詮議に異議を唱えた範頼・義経の弁で、平氏は源氏の仇との叫びは「折声」で高らかに語り上げ、平氏の首の大路渡しがなければ以後の朝敵追討の闘いは無いとの脅しと法王がこれに屈して首の大路渡しが行われ、幾千万の人が見物した様は「口説」と、語りの変化で聞くものを引き付ける。そしてその大路渡しの様は「中音」で哀愁を帯びて語り上げ、続いて維盛 を案じた北の方が齋藤五・齋藤六に大路渡しの様を見分させるさまを「初重」で重々しくかつ美しく語る。続いて齋藤五・齋藤六の報告を北の方が聞く場面は、「口説」「素声」で淡々と語り、夫は病を得て戦には参加していない旨を知った北の方が思い煩うさまを「中音」で美しく語る。 その後に、三位中将維盛から北の方と二人の子に文が届き、彼らが返信を書く場面は、その文を「折声」で切々と語り、さらに文に添えられた一首の歌を「上歌」で切々と歌い上げる以外は、「口説」で淡々と語る。そして最後にその返書を読んだ維盛の悲しい心情を「中音」で切々と語って終わる。

 

<参考>

 一の谷合戦での平家方の主な戦死者は、『平家物語』諸本が伝えるものと、『吾妻鑑』が伝えるものとで若干異なる。平家の公達の戦死者は以下の通り。

●1:平通盛 11531184 29

 清盛の弟教盛の嫡男。越前三位。

2:平教経 11601184 24

 平教盛の次男。能登守

 『吾妻鑑』では一の谷合戦で戦死と。『玉葉』では生存説。『醍醐雑記』では壇之浦合戦で自害と。『平家物語』では八島合戦・壇之浦合戦での活躍が描かれる。

3:平業盛 1169?−1184 15

 平教盛の三男。

4:平経俊 11661184 18

 平経盛の子。経正・敦盛の兄弟。若狭守。

5:平敦盛 11691184 15

 平経盛の末子。

6:平経正 ?−1184 

 平経盛の嫡男

7:平清房 ?−1184

 平清盛の8男。淡路守。

8:平清貞 ?−1184

 平清盛の養子。実父は大外記・中原師元。

●9:平忠度 11441184 41

 平清盛の異母弟。薩摩守。

10:平知章 11691184 15

 平知盛の嫡男。武蔵守。

11:平盛俊 ?−1184 

 平家郎等平盛国の子。越中守。侍大将。丹波国諸荘園総下司。

12:平師盛 11711184 12

 平重盛の5男。備中守。

 

 年齢の分かっている公達を見ると、12歳から24歳と皆若く、合戦に慣れていない若い公達たちが混乱の中で討ち取られたことがわかる。名だたる将軍の戦死者は通盛と忠度と盛俊の三人であり、これに捕虜となった重衡を加えても、わずか4人に過ぎず、平家の軍事力全体には大きな影響がなかったことがわかる。

 『平家物語』の巻9−6の「六ヶ度軍」で描かれる平家の連戦連勝の戦いは、ここでは一の谷合戦の前哨戦として位置付けられているが、実際は一の谷合戦の後の、元暦元年(1184年)8月頃の戦いであることは、左大臣九条兼実の日記『玉葉』の元暦元年81日の条に「或る人曰く、鎮西多く平氏に与し、安芸国において官軍<早川と云々>に六ヶ度合戦、毎度平家理を得と云々」と描かれた場面を、一の谷合戦の前に持ってきたものと考えられている。一の谷の敗戦でも西海における平氏の勢力はなお衰えていなかったのだ。この状況を踏まえないと、次の「八島院宣」で語られる和平の話の意味は宙に浮いてしまう。